2022年3月20日 礼拝「預言の確かさ」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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タイトル:「預言の確かさ」
聖書箇所:使徒言行録 15章12節~21節
講壇担当:飯塚光喜 牧師

使徒パウロ

私たちが属しているこのキリスト教会が、どのようにしてこの地上に誕生し、歩み始めたのかということを、何回かに分けて学んでいるわけですが、私どもは既成教会といいますか、出来上がった教会にいるものですから、なかなか誕生の状況を過去のものとして見極めることも見定めることも難しいのかもしれませんが、困難であったというか、強いものだけが勝ち進んでいくような状況の中で弱いものはどうされていたのかということを比較対象しながら読んでいくことも一つ大事なことではないかと思うわけであります。

毎回申し上げますように、今日のキリスト教をキリスト教たらしめた偉大な人物と言えば、使徒パウロと言わざるを得ない大人物であることは間違いないと思うのです。

しかし、大人物である人だから間違いのない、力や能力のある……と我々は想像してしまうわけですが、聖書ではそういう風には語られていないのです。

どちらかというと神の子である、福音の主であるイエス・キリストを十字架にかけて殺す側にいた人物であったということを、聖書は言っています。

聖書がこういうことを平気で語るということが、聖書のすばらしさだと私は思うのです。きれいなことばかり書き並べて、おめでたいことばかりをいうことが聖書だと思い浮かべるのですが。

ちょっと余談ですが、カトリックの信徒さんが『どろどろの聖書』という面白い本を書いてだいぶ流行っているのですが、とても七分通り八分通り聖書に興味を持たせるという意味では素晴らしい本だなというように読んだのですが、カトリックとプロテスタントの違いもあるのか、本当に知らなければならないところが、お風呂場で見た聖書と、お部屋で見た聖書の違いと言ってもいいような感じでした。

隠すべきところは隠す、隠すわけにはならないお風呂場での聖書と、寝室での聖書の違いというものを感じて、もどかしさを感じたわけではありますが、聖書って、どちらかというとお風呂場の人間を露骨に書いているのが聖書だな、と私は思うのです。

そこには隠しようもないもの、隠してはならないものを隠さず書くというところが聖書の信実という意味で読めるものだな、というように思うのです。

このいま読んでいただいた使徒言行録の15章などは、キリスト教が誕生するきっかけとしての問題点が内紛という形で、教会闘争と言ったらいいのでしょうか、教会の内紛というものを書き並べているわけです。

キリスト教の歴史を正確に知るためにはユダヤ教を正確に知らなければキリスト教理解もできないわけで、キリスト教がわかりさえすればユダヤ教はいらないんだ、新約聖書さえ理解できれば旧約聖書はいらないんだという人もいるわけですが、例えばこの子がこんな子であるのならば親の顔が見たいという言葉があるわけです。

子供は子供一人で存在しているわけではなく、子供を産んだお母さんなりお父さんがいるわけです。

そうでなければその子供は産まれないわけで、この子を見て親の顔が見てみたいということはよく言われたわけです。

親の正体がわかれば子供の正体もわかるんだといわれたように、聖書にもキリスト教を知るためにはその親であるユダヤ教をきちんと理解しないと、キリスト教を正確に理解することができないということは、本当だと思うのです。

その本当さを今度は逆に親の権威や支配力を行使したがるのも、親であるわけです。

それがキリスト教を生み出す初代教会の内紛という形で生み出てきた話を語っているわけです。

産みの苦しみという言葉もあるわけですが、本当に我々も男性ですから生みの苦しみは体験できないわけですが、しかし、大変な苦しみの中から自分の命に代えてでも惜しみない赤ちゃんが生まれるという、素晴らしい、神秘的なわざが人間にあるわけです。

ですから、苦しみが苦しみで終わらない、苦しみを通してかけがえのない喜びが与えられるというのが、生みの苦しみの恩恵となるわけですね。

ですから、キリスト教もキリスト教がキリスト教であるためには、キリストの十字架という苦しみを通らなければキリスト教の喜び、福音の喜びに到達することはできないんだということにもなろうかな、と思うのです。

前回前々回を含めて、使徒言行録の中でイエスの死後、おそらく混とんとしたと思うのです。

高々一人の人間が殺されたということではなくて、この時代にはイエスのほかにも、ルカ福音書にも書いてありますが、イエスのほかにも強盗を働いた犯人たちも同じように十字架にかけられて殺されるということが起こったわけですから、おそらくたくさんの人たちがはりつけにされて当時のローマ帝国の支配のもとで殺されていったというのは事実だと思うのですね。

そういうことですから、おそらく中には不安を感じたり、おびえたりした人たちもたくさんいたんだろうと思いますし、真実だと思ってこの当時の権力者であるローマ帝国に反抗した人たちはとらえられて殺されていったというようなこともあったんだと思うのです。

そのような混とんの中でこの物語が語られると、いろんなことがわかるわけです。

その中に今まではユダヤ教の信奉者でユダヤ人であってユダヤ教を守り続けているという忠実な信徒であった人の中に、もしかしたら自分たちがあの罪びとでない神の子を殺したのではないかという良心の目覚めによってキリスト教に改宗したユダヤ教の人たちもいるわけですね。

ユダヤ人の回心

これは本当にすばらしいことだと思うのです。

当時はキリスト教なんてないですから、キリスト教に改宗するというのはまだまだ先の話になるかとは思いますが、イエスという一人の人物を殺した仲間の目覚めが、やはりイエスを殺した仲間の一人であるという自責の念を悩んで、イエスをキリストと受け入れた何人かのユダヤ教の人たちもいるわけです。

しかし、身についてしまったものもあるわけです。

たとえほかの家に移ったとしても、移る前に産み育てられてきたものをかなぐり捨てて生まれ変わるということは本当に難しいわけです。

そういうのが中にいたわけです。

それは単なる名誉や民族性というものではなく、なぜそういわなければならなかったのかというものは、私たちは神によってえらばれたのだという選民意識というのが、当時のユダヤ教の人たちの中では根強いわけです。

ですから、それから離れるとか、切り捨てるというのは、神様を見捨てるとか、神様から離れるといった悪的な行為でもあるわけです。

裏切りや逃亡になるのです。

ですから、自分や仲間がイエスという一人の人物を殺したとしても、やはり神様に選ばれた、ほかの誰でもない神から選ばれた民なのだということを捨てることは、選んでくれた神様を裏切ることになるわけですから、これは彼らにとって罪になるわけです。

ですから、そこだけは守らななければならず、同じ仲間にも強要することによって新しいユダヤ教を作ろうとした人たちがいたわけです。

その人たちがたとえ未亡人であったとしても、イエスを神の子と受け入れたとするならば、神の選びの民として、これまで伝統的にやってきたことを受け入れなければならないのではないかということを、まことしやかな正当な論が出てきたわけです。

これを否定するということは、ある意味では律法を否定することになります。

ですから、みんなが神様に背くことになるわけです。

だからなかなかそれはいうことはできない。

決められたこと、しかも選ばれた民としてそれを厳粛に守り続けてきたことから身をひるがえして別のものに入るということは、至難の業だったのではないかと思うのですね。

反逆にもなりかねなかったこと

日本人はそれほどの宗教心もないわけだから、そこに裏切りだとか、背反だとかという汚名を着せられることはないのかもしれませんが、宗教心の強かった時代、それも国の存亡も含めた時代には、左から右、赤から黒というのは、神様に対する反逆、謀反とランク付けされる時代に変えるというのは、大変なことだったと思うのです。

それに対してパウロは、まったく一変するわけです。

自分は誰よりも優れていると信じていたパウロは、律法のむなしさというか、律法は我々にとって苦役ではあっても恵みではないという価値の転換というか、価値のあるものが愛される世界から、価値のないものとされるものが愛されるという方向転換は、命の転換ですらあったと思わされる気もするのです。

しかしそれが恵みを受け入れるということがいわば清めである、律法の完成であるという、理屈にもならないような理屈のように聞こえる出来事がかつてのユダヤ教徒であるパウロたちから語られたときに、とりあえずイエスをキリストとして受け入れた人々は祈れなかったのです。

ですから、そこで会衆は黙りこくってしまった。一言も反論するものを持たなかったのということです。

こういうことってよくあると思うのです。

講演とかを聞いていてもずっとしゃべっている間はいいのですが、ぐうの音が出なくなるような、説得される講演を聞くことって、あるんです。

実は昨日、横浜の紅葉坂教会で行われた教区婦人委員会の主催で行われた集会で、50代の先生が最近起こった事件について、東京目黒で5歳の子供が虐待を受けて死ぬわけですが、死んだ後で子供が書き残した文章が発見されて、許してくださいという手紙を書き残して亡くなった子供の話とか、いろんな親の虐待によって子供たちが亡くなっていった、親の精神分析も含めた話を聞いたのですが、最後に彼女の講演が終わってから質疑応答があるわけですが、全会衆が静まり返るんですね。

そこを講師の先生がとらえて、静まり返ったところでこの講演は終わりますと言って終わったのですが、やっぱり説得力のある講演だったとは思うのですが、私からするとさっきも言った通り、お座敷での聖書だな、と思いました。

風呂場での聖書ではなかったなという印象は否めない講演だったとは思うのですね。

聖書は本当に人間を丸裸にした形で描かれてはいるのですが、私たちはどうしても飾りのあるような見栄えのあるようなものを着せて聖書を読んでしまうという、とても、悪い言葉で言えば愚かな知恵を使って聖書を読もうとする癖があるように思うのです。

私はそうではなく、素っ裸になって聖書というものを読むことによって、はじめて聖書の真実性というものがわかるんじゃないかと思うのです。

そこで先ほど読んでいただいたように、我々は神の恵みによってなされたことを信じたものはすべて救われるんだ、差別はないんだと、神に選ばれたとか、選民であるとかと言った特権をかざして差別をすることではないんだよ、ということに対して、意見を申し立てたパリサイ人たちのことも含めて、ぐうの音も出なかった。

それはまさに神の恵みに首を垂れた、降参したという表現がここに記されているような気がするのです。

神の恵みに首を垂れること

それはどういうことかというと、要するに先に選ばれたものでしかないわけです。

我々はそれに従っていくときに、お前たちは後のものだからダメなんだということではなく、先のものが後になり、後のものが先になるんだというイエスの言葉からすると、そこに区別も差別もないんだよというこの聖書の神髄だろうと思うのです。

そして信仰というものに見栄えのいい飾りをつけて振りかざす信仰ではなく、名もないソロモンの栄華からすると物の価値もないような、明日は炉に捨てられるような野の草のような信仰者こそが神の愛の対象なんだよ、とここで語っているような気がするのです。

すでに知恵や力で語ったことではなくて、預言者が、ここではアモス書を取り上げて語っているわけですが、預言者がすでに私たちが約束してくれているんだよ、ということがユダヤ教からキリスト教にある意味で認知された宗教団体として認められたのではないだろうか。

ただ、キリスト教がイエスが亡くなられてからだいぶ下がって、400年たって、ローマ帝国の国教になるわけです。ローマ帝国がキリスト教を国の宗教として認めるわけです。

これは公認されたといってしまえば公的には素晴らしいことなのかもしれませんが、しかし公的に認められることによって公的に縛られることにもなるわけです。

これが12世紀前のようにせっかく負いきれないくびきから解放されたにもかかわらず、またそのくびきを負わせるのか。

負わせることによってどんなことが起こるかというと、このくびきからの解放というのは神の恵みであり愛であるにもかかわらず、もう一遍戻った時に神の愛に背くことであり、神そのものに苦しみを与える、逆戻りするイエスの十字架の犠牲というものをもう一回繰り返すような愚かなことをしてはならないんだということを、この時代の異邦人伝道の基本として、原始キリスト教会が認めたという、これは理屈にならないことです。私たちは理屈でものを解決しようとするわけですが、理屈じゃないのです。

私たちの良心は決して理屈で動いているわけではない。

良心が理屈を作るのであって、理屈が良心を作るわけではない。

ですから私たちは良心に基づいた生活をすることが、まさにくびきから解放されたもののあり方ではないだろうか。

加害の論理と福音

例えば、今日の話ではありませんが、いろいろな事件が起こって、弱いものが命を絶たざるを得ない、自分は何のために生まれてきたのかわからないくらいの苦しみを受ける。

その時、必ず加害者っていうのは自分のやったことの正しさを固守するわけです。

ただ、相手はその正しさを受け入れなかった、理解しなかった。

だからしてもらうためにこういうことをしたんだという自己正当性を主張することによって相手の命を奪う、あるいは自分の命を捨てるということが起こってくるわけです。

私はそうではなく、捨てられるものの痛みというものを知った時に、相手の祈りを自分の正義によって奪うということがどれだけ失礼なのかということがわかるはずだと私は思うのです。

捨てる、ということは必ず価値のないもの、いらないものとして捨てられるわけです。

しかし捨てられたもの、放り出されたものは価値のないものではなくて、それを生み出したものは何なのか。それは本人ではないのです。

どこまでもあるものによって生み出されたものだとすれば、そこに価値がないという判断はできないわけです。

産んだものがその価値を生み出しているわけですから、生み出した価値を否定することは決してできないことだと思うのです。

これが私たちが社会福祉を考えるときの根本的な思想だと、私は思うのです。

ですから、社会福祉の心もキリスト教から生まれたものだということをよく言われるわけですが、キリスト教が社会福祉を産んだのではなくて、キリスト教を産んだのは神様なんだ。

神様に背くものはそれはいけないことだということで、ここでさっきお読みになっていただいたものの中で、例えば偶像にささげたもの、ささげたものというのは、ささげたものとささげられた者との和解の行為なのです。

だからささげられる偶像が偶像である限りでは偶像崇拝です。

神信仰と反対のことをすることは、偶像に対する和解となると、偶像に心を奪われたということになります。

もう一つは学者に言わせると近親相姦。

これはレビ記などにも詳しく書かれているわけですが、近親相姦をしてはならないことだとか、殺したものの肉を食べてはならない。

これはユダヤ教ではささげられた動物の肉を食べることはできるのですが、ささげられていない動物の肉を食べることは律法に違反する、それだけは守ってほしいということを、使徒たちは宣言をしながら神の恵みというものはそこに差別があるものではないんだ。

弱いとか、よいとか、清いとか、汚れたとか、といった差別ではなく、神の恵みの愛のみであり、それをアーメンと答えたものはすべてキリストのもとにあって隣人なのだということを、使徒言行録では語っていて、それはまさに福音なのだと、このことを申し上げて終わりたいと思います。

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