2022年3月13日 礼拝「あなたがたの信じているとおりになるように」(北口沙弥香教師)

礼拝説教
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タイトル:「あなたがたの信じているとおりになるように」
聖書箇所:マタイによる福音書 9章27節~31節
講壇担当:北口沙弥香 教師

レントを迎えて

教会はイエスのみ苦しみを思うレントの時を迎えております。

レントとは受難節とも言い、十字架に至るまで神に忠実であったイエスのみ苦しみを思い、イエスの死、そして生きたことから、その事柄について真剣に向き合おうとする7週間の日々であります。

そんな折に与えられた聖書は、マタイによる福音書9章の27節からイエスがお出かけになったときに、ふたりの目の見えない人に出会い、ダビデの子、私たちのことを憐れんでくださいと言いながらついてこられ、イエスが家に入るまで真剣にイエスに歩み寄り、イエスが手を触れ、あなた方の信じている通りになるようにと言葉を掛けられると、ふたりは目が見えるようになったという不思議な奇跡の物語であります。

この物語、元の話はマルコ福音書の10章の46節から52節だったのではないかと言われています。

また、マタイはこのマルコ福音書の10章46節からの物語をさらに後々十字架にかけられる前の20章の29節から34節でも描きます。二人の盲人とイエスとのかかわりから、イエスの救い主としてのご性質というものを語ろうとするわけです。

その最初の物語が、本日の9章の27節から、イエスの半生の奇跡の物語として現れるわけです。

ダビデの子よ、私たちを憐れんでくださいという二人の目の見えない人の、本当に深刻な、イエスしか頼るものがないというこのような呼びかけですけれども、ダビデの子よと呼びかけるわけです。

ダビデの家系から生まれるメシア

古代イスラエルの人たちはダビデの家系の子孫からイスラエルの民を救うメシアが現れるということを信じておりました。

ダビデの子という呼びかけは、イエスが私たちを救ってくれるメシアであることを表しています。

そのメシアが現れるときには、病んでいる人が癒されるということが起こるということが信じられていました。

例えばイザヤ書の35章の4節以下にこのような言葉があります。

 『心おののく人々に、雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの民よ、敵を討ち、悪に報いる神が来られる。神が来て、あなたたちが救われる。その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く……』

もしイエスが救い主だというのなら、目の見えない人が癒されるというこのイザヤの言葉が実現するという、そのような神からの約束が実現するときが来たということです。

本当にこの目の見えない二人の人が、目の見えるようになりたいという真剣な願いを持っていたのでしょう。

憐れんでくださいと言いながら、イエスに付き従って、イエスが入るまでも追いかけていきます。

その二人の目の見えない人に対してイエスは言われます。

「私にできると信じるのか」と。

この二人は「はい、主よ」と言ったら、イエスが二人の目に触れて「あなた方の信じるとおりになるように」と言われました。

そして二人は目が見えるようになったのですが、イエスはこの二人に対してこのことは誰にも知らせてはいけない、と口封じをいたします。

にもかかわらずこの二人は外に出て、その地方一帯にイエスのことを言い広めたと書かれています。

あなた方の信じている通りになるように、という言葉は、先の長血の女の物語にあったイエスの言葉、「あなたの信仰があなたを救った」、という9章22節とほぼ同じ意味合いなのではないかというように思います。

本当の救い主だと信じるからこその救い

この目の見えない人の信仰の度合いが、大きいとか、小さいとかというものではなく、イエスが本当に救ってくれる救い主であるということを信じたから、その二人の真剣な祈りが叶えられたということだと言えます。

イエスにこれほどまで憐れんでくださいとすがる、この二人の目の見えない人の苦境というのはどのようなことだったのかということを想像するのです。

古代社会、いまよりも信仰の力、宗教の力が強い世界であったことでしょう。

なにか常識とは違う、不具合があると、それは神の罰だというように考えてしまうことがままあったのでした。

古代イスラエル人も例外ではありません。

目が見えないことに限らないのですが、例えば目の見えない人が現れた時に本人が罪を犯したからか、または親が罪を犯したからこのようなことになってしまったという風に考えられるということがありました。

罪を犯し続けている状態に置かれているということは、その共同体からつまはじきにされていることを想像できます。

また目が見えるようになって人々から認められたい、平穏な生活をしたいという真剣な願いが、この二人の目の見えない人にあったに違いないと思うのです。

だから真剣に自分の目の癒しを願い、ダビデの子よ私たちを憐れんでくださいと言いながら、イエスに寄りすがるのです。

イエスがこの目の見えない人たちの苦しみに寄り添われたのでした。

その苦しみに寄り添われたからこそ、あなた方の信じている通りになるようにという言葉を掛けて、この二人の目を癒されたのでした。

ここに奇跡があるとか、無いとか、起こるとか起こらないとか、そのようなことを超えて大事なことがあるように思います。

それは苦しんでいる人の、その人の存在に寄り添うということ、小さくされた人の願いを真実なものとして受け取って実現を助けようとすることです。

そのことから、イスラエルに現れるメシアは、先ほど申し上げたイザヤの預言を通してのように、救い主という方は小さくされた人の願いを真実なものと受け取って、その実現を助けようとするものという、そのような期待があったものというように、この物語も読むことができそうです。

植田真理子氏記念礼拝を迎えて

本日は故・植田真理子さんの記念礼拝として礼拝をお捧げしております。

当伝道所の会員であった植田真理子さんは、2015年の3月15日に突然ご自分の生涯を終えることをなさいました。

本当に私も植田真理子さんの友人の一人のつもりでありましたから、彼女のために出来ることは、彼女が死なないで済むために出来ることはなかったのではないだろうか、もしかしたら、そうは考えてもやはり無理だったのかということをこの季節が来るたびに思い返します。

私の神学校の卒業式の直後で、春休みで、これからのことを考えるというときに一人の友人を天に送ったことは、これから生きていくということを考えるうえで、身につまされるほど様々なことを思わざるにはいられなかったということを思い出します。

植田真理子さんという人、別の宗教に熱心なご家庭に生まれて、そこから反発するようにキリスト教の学びをご自分で続けていったということは、まず基本にあって、そこから自分を受け入れてくれる教会を探すということをされていました。

彼女は性同一性障害で、男性としてお生まれになって、のちのちに女性として生活をしていきたいということを思い、自分の人生を仕事をしながら切り開いていくことをされました。

その中の一つが神学校への入学、また、キリスト教伝道者としての歩みであったということが言えるでしょう。

さまざまなことがあり、神学校入学を断念することになって、いっそのこと自分のもともとの目標であった喫茶店伝道に舵を切っていくことになります。

自分の伝道を切り開いていこうという矢先に、人生を終わられることになったということを、はたから見るしかできない友人として悲しく思うのでした。

この人の願いは自分たちと同じように教会の中で居場所のないセクシャルマイノリティのために教会を作るということがありました。

さまざまな願いの中の一つではあるわけですけれども、それはあの人なりに自分を救うという以上に、もっと広く、自分以外の、自分のように苦労せざるを得ない人たちとともに生きていたい、小さくされた人の願いを真実なものとして受け取って、実現を助けようとすることだったのではないかというように思い返すわけです。

あの人なりに真剣に生きた形があのような形であって、それを簡単に「あの人は失敗した」というように言うことはできないだろうというように思います。

これからも生きていくこと

私たちはこれからも生きていきます。

人生の中で大切な人の出会いと別れを繰り返して、そこから神の御心とはなにかということを求めつつ、探しつつ、私たちはこの自分の人生を歩んでいくことに、これからもなるだろうというように思います。

イエスは神のみ心に忠実に生きた故に律法という当時イスラエル民族を支える一方で、小さくされたものにとっては足かせとなっていた、そのことと対峙されたのでした。

目の見えない人も含めて、律法によって排除されているひとと向き合い、生きてきた積み重ね。

それは本当に神の御心にかなうものでした。

しかしそれは、表面上から眺めると、律法を破ったというように映ってしまうことでもありました。

それゆえ、イスラエルの宗教的指導者たちから嫌われ、十字架に付けられていくことになっていきます。

イエスが自分のために生きているのなら、このようなことにはならなかったでしょう。

イエスの歩みの中には間違いなく、小さくされた人たち、律法の枠の中から外れざるを得なかった人たちがいたのです。

そのかかわりの中で歩んだ救い主メシアであったということです。

そのメシアは何よりも奇跡が起こせるとか、そういったことではなく、寄り添うこと、弱い人の願いを真実として受け取って、実現させようとするもの、そういうものであったのではないかということです。

イエスの歩みは十字架によってこの世の価値観では否定されてしまったかもしれませんが、神の目から見たらそうではなかったのです。

イエスの復活ということは、イースターの時に起こります。

それは人間の罪を超えて、神がイエスのその生と生き方、あり方をお認め下さったということではないかと思うのです。

レントの季節に、一人の友を送ることを思い返しつつ、聖書を読みました。

私たちはやはりイエスのようにできるだけ小さくされた人の弱さと、願いに寄り添って歩んでいきたい、それが十字架の主、キリスト・イエスの従う道だということを信じたい。

レントのその時をそのように過ごしていきたい、そのように思います。

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