2022年3月6日 礼拝「信ずるものは皆救われる」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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タイトル:「信ずるものは皆救われる」
聖書箇所:使徒言行録 15章6節~11節
講壇担当:飯塚光喜 牧師

春の近付き

寒い冬から少しずつ春めいてまいりまして、雪国である日本もいよいよ梅の花がほころび始め、少し暖かいとことでは菜の花やレンゲ草が満開になり、いろいろな春を私たちに楽しませる季節が近づいているわけです。

そんな楽しい季節でありながら、いま私たちはコロナという大変恐ろしい自然のいたずらとも言っていいものが我々の社会を混乱させており、私たちは右往左往しながらどうしたらいいのかわからず、あちらの店を閉め、こちらの集まりを中断するといったような状況にあるわけですが、こういう時に私どもの小さな教会は何と恵まれた集会だろう、と思うのです。

必然的に間隔も取れていますし、讃美歌もみんなで一緒に最後まで歌いとおすことができる。

こんなに恵まれているのは、最も小さいものにしたものは私にしたものだという、イエスのみ言葉を実現しているような錯覚のようなものを感じ、喜びや誇りとしています。

そんな状況の中で私たちは主のご受難を思い浮かべながら、わが身に置き換えて、もし私がイエスだったら、イエスと同じようにあろうとしたらどうなんだと、その苦しみや痛みはどんなものなのだろうか、というのは、経験してみないとわからないことではありますが、よく日本の格言でわが身をつねって人の痛みを知れという、子供のころには暗唱させられていたような言葉があります。

人の足を踏みつけて「お前痛いか」というのではなく、踏まれるものの側に立って踏むことを思いとどまるということがとっても大事なのではないかと思うのです。

さて、この聖書の中でもいよいよ神の迫害者であったパウロが、回心をして、異邦人伝道を開始するのです。

異邦人というのは実感しづらい言葉ではありますが、再三申し上げている通り、私たちも異邦人なのです。

ユダヤ人でないものはみんな異邦人なのです。

しかもそのユダヤ人であることと異邦人の区別というのは、割礼というしるしを受けたものと受けていないものというは、はっきりとした区別があるわけです。

割礼と区別

これは生まれて8日までに男の子は割礼を受けなければならない。

それは子供の意思で受けるのではなく、子供の親の責任と義務とにおいて割礼というものが授けられ、俗にいえば男の子は神様に対しての捧げもの、仕えるものとしての前提でもって行われたのだと思うのです。

私たちは割礼は経験をしませんが、その代わりに私たちはキリストを信ずるということで洗礼を受けることになっています。

洗礼を受けることでどうなるかというと、洗礼を受けたものと受けていないものとの区別ができるのです。

ですから、洗礼を受けたものはここまで来ていいといわれるけれども、受けていないものはここから入ってはいけないよという区別ができるわけです。

パウロの異邦人伝道と、それからかつてはパウロによって迫害をうけた弟子たち、12使徒のうちの、イスカリオテのユダを除いた11人がイエスの直弟子として存続していたわけです。

おそらくパウロも自分は使徒だと名乗っているわけですけれども、しかしイエスと直接語り合ったりした経験は彼にはないわけですから、どこまでもキリスト教の使徒というのは、名前で言うとユダも含めて12人ということになるわけです。

そのパウロが途中でイエスとの出会いから回心してキリスト者になるわけです。

そして彼はもともとユダヤ人だったわけです。

おそらく彼も幼い時に割礼を受けているに違いないし、割礼を受けたもののなかで私に勝るものはいないんだというぐらいの誇りと自信を持ったパウロであるわけですから、それはエルサレムを中心とするイエス集団の人たちから言うと、なんとなく煙たい、表向きは同じクリスチャンでも、内心は不安や恐怖を持ち続けた間柄ではなかったのではないかというように思うのです。

ある本を読んでいると、この時代、15章の前のほうにあったように、かつてパリサイ人であったとあるように、イエスを中心とする群れに対して律法中心主義的な、律法に凝り固まっていた人々です。

彼等は難敵と言いますか、最後に磔に付けられて殺されるほどの弱い立場に、力のあるパリサイ人が、その後イエスの死んだあと、弟子たちの宣教によって回心をしてキリスト者になるわけです。

しかしながら異邦人ということになると、しまい込んだ刃をむき出しにして自己主張をしてくるわけです。

それは彼らがもしイエスがキリストと認めたとしても、我々と同じように割礼を受けて、割礼を基礎づけているモーセ律法を守るべき、守らせるべきだといい始めたのです。

腐った卵のたとえ

このことである本を読んでいると、たとえ話として卵のようなものがあったようです。

なぜかというと卵は中身は腐っても表は変わらないのです。色もかたちも変わりません。しかし割って食べようとすると、中身はみんな腐っているのです。

そのようなたとえを持ち出して語っている学者の方がいらっしゃって、おもしろかったのです。

それを聞いてふと思い出したのが、平清盛です。

これも本当なのかはわかりませんが、小学校の頃に教わったことには、平清盛は鎧の上に出家したお坊さんの着る衣を着ていたのだそうです。

だから平清盛は信頼できないと教わったわけです。

まさにパリサイ人というのは、キリストを受け入れてキリスト者になったけれども、依然としてモーセの律法を守るべきだなどと言っていたわけです。

遠くても近くてもあまり変わらない、今の我々の現代の教会の在り方をうっすらと感じさせられるわけです。

キリスト者と告白するならば必ず洗礼を受けていなければならない。

洗礼が条件で、洗礼を受けたものは右へ、受けていなければ左へというようなことは、イエスの死後の時代から始まっているというのです。

洗礼を受けたものの暴力

何年か前に大阪の釜ヶ崎で貧しい人のために身を粉にして働いている、かつては日本のカトリック教会の代表になりそうだという希望を持たれていた神父が釜ヶ崎に寝袋をもって一生懸命奉仕しています。
その当事者である本田哲郎氏は「釜ヶ崎で路上生活をしていた人の中に、私の話を聞いてどうしても洗礼を受けたいんだ」と聞いたので、その方に洗礼を授けたそうです。

ところが、その彼は洗礼を一つの権力に持ち替え、洗礼を受けていない路上生活者に暴力とは言わないまでも、洗礼を受けたことを誇りにして、そうでない人を軽蔑しているという話を聞き、洗礼を授けるんじゃなかったとおっしゃられたことがあります。

ありうることだと思うのです。

洗礼を受けた人たちはもし、この世で生存している人の中でどれだけ洗礼を受けたのかはわかりませんが、その方たちが理由はいろいろあっても、本当に洗礼を受けたものと受けていないものとの区別の中でその人が洗礼を受けたものらしく、その人らしく生活しているのだろうか。

これはキリスト教の一つの恥ずかしい部分でもあると思うのです。

若い時には熱心で、ほかの方はともかく、私は火の中水の中、死んでも命を惜しまないと告白して洗礼を受けたはずです。

困難に突き当たったり、いろいろな状況の中で変化していったのだと思いますが、だんだん教会から離れて行く、信仰は過去のものになって、いいわけをしながら洗礼を受けた枠の外に生活をしている人たちはたくさんいると思うのです。

本田さんはそんな人に対して痛みを覚えたのです。

ましてや洗礼を受けたものが受けてない人に対して侮辱、おごりを見せるのです。

洗礼というのは、もしかすると受けていないものを受け入れるための神様の恵みの一つであるはずなのに、それを裁きの道具にして、権力化して排除するというのは、いまの政治の中で神様はその人たちの心を知って差別をされなかったと書いてあります。

私たちは知られているのです。

知られているからこそ、神様は私たちをお選びになった。

そこには差別はなかったとあります。

それなのにあなた方はいまなお、私たちは負いきれないくびきをあの人たちに負わせるのかと。

このくびきというのは、動物が紐につながれて人間の思うがままに動かすための、いわば束縛であるわけです。

余談になるのかもしれませんが、今朝も私たちの仲間である教団の牧師が入管において、居住を許されていない外国人の人たちの収容所で一生懸命コミュニケーションを取っているということをやっていましたが、これが国際法に違反していると指摘されても、あるいはされればされるほど、潜り込むようにもっともっと厳格な法律を作ろうとしている。その見本が外国の国際法を批判する立場があるのだろうか。

人のふり見て我がふり直せというものがあります。

巨大な暴力

ここでこんなことを言うと怒られるのかもしれませんが、独裁政治家と言われる大国の指導者が、他国に軍隊という人殺しの武器を持って侵入したというという話をテレビで朝から晩まで放映しています。この独裁者と言われた、それこそ天才的な能力のある人ですが、天才がすべて正しいとは限らないのです。人の力ではどうにもできないような悪的なことをするのも天才かもしれません。その天才を日本の長期政権を担当していた人が、30回に近い交流を毎回毎回何十億ものお金という手土産をもって交流をしてきたのです。

それはいいのでしょう、何かの成果があるのならば。

しかしそのことによって何を失ったのか。

それはあの戦後問題になっている北方領土。

それを完全に売り飛ばしました。

4島のうちの2島の返還ではありません。

完全に相手国に売り渡しました。

そのことを誰も語ろうとしません。

語ったらそんなつもりはありません、と相手が腹を立てるかもしれない。

売り飛ばして、仮に返すということがあった場合に、相手国がどれだけの資本を投下したか。

これは誰も図れません。

日本の国を売り飛ばしても足りないくらいの要求をしてくるでしょう。

そんなこと、出来るはずがありません。

その金で今、日本にも核を準備しようとしています。

私たちには想像もつかない、天才的な妄想です。

これこそ命を最も大切にする宗教が声をあげなければ、誰があげるのでしょうか。

私たちは問いかけられていると思います。

信仰者の信仰

私たちはキリスト教を守るのではありません。

仏教を守るわけでも、イスラム教を守るわけでもありません。

そんなこと、どこにも保証はありません。

私たちが守らなければならないのは、あるいは私たちが守られているのは、それをキリスト教として信じる者の自由です。

法律をかじった人たちでなくとも、一度は読まされる本がありました。

それはフランスの法学者、モンテスキューの『法の精神』です。

私は法律については門外漢で何もわからなかったのですが、大学に入ったころに法概論という本を懇意でやったときに、最初に推薦され、必読するように言われ、読んだことがあります。

その中でモンテスキューは「法はどこまでも自由だ」と言っているのです。

自由を守るのが法であって、法を守るのが自由ではないというのです。

いまだにそれだけは覚えています。

いまもその本が読まれているかはわかりません。

ペテロは私たちが負いきれない軛を、割礼を受けていない異邦人にあなたたちも負わせることによって、神様はどうなると試みようとするのか。

神様は法を守ることを原則とはしていらっしゃいません。

法を守ることも自由だ、あなたたちは自由という神の愛によって選ばれたものだ。

選ばれたものになぜくびきを負わせるのか。

ここにまさに福音としての神の言葉を信じたものはすべて清められて、差別のない神の国の実現のために働いているとすれば、それは割礼を受けた洗礼を受けたという次元で神を試みるような裁きをしてはいけないと、ここで語られているのです。

どうしてここで語られるようなことを繰り返すのか。

このことを私はじっくりと主のご受難をしのびながら、そのご受難の意味することを、その面影をしのびながら、初代教会の苦しみをもう一度反芻するべきではないかと思うのです。

そしてそこから初めて信仰による清めと、福音による喜びがなんであるかを学び取ることが、この受難節を一つの意味する時間的に与えられた、私たちへの恵みではないかと思うのです。

救いとは、軛を負うことではなく、恵みを味わって、喜ぶことだ。

これが聖書の神髄であることを私は申し上げておきたいと思う次第であります。

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