2022年2月20日 礼拝「エルサレムで使徒会議」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「エルサレムで使徒会議」
・聖書箇所:使徒言行録 15章1節~5節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

ユダヤ教徒の別れと問題

いよいよキリスト教がユダヤ教と別れを告げて、別の道を歩もうとする苦難の出先において、何が起こったのか。まさにそれは内紛であり、内輪もめであります。

しかも単なる問題ではなく、大げさに言えば人を生かすか、殺すかの大問題であります。

すべてのイエスに服従するものを敵として皆殺しにかかった一人の人物が、イエスの死後の復活に出会って回心し、360度ひっくり返るできごとを起こした、一人のユダヤ人が、逆に今度は殺す側だった彼が、殺される側になるという、なんとも宗教的に言えばこんな宗教があっていいのか、と思われるような出来事が、たぶん、研究家の話によるとイエスが亡くなられてから20年足らずの出来事だったろうと言われているわけです。

それは使徒パウロという人物が、同伴者であるバルナバと一緒にキリスト教の権威の外側、いわゆるユダヤ教が支配する外側に向かって歩み出したわけです。

これはユダヤ教の人たちに言わせると、完全な裏切り行為になるわけです。

おなじユダヤ人であった一人の人物が360度方向を変えて、変えたありのままの姿の中で、内容を全く変えてしまったということなのです。

決してその人がユダヤ人から異邦人になったり、と言ったりといったことではありません。

そのことは並大抵のことではありません。

元に戻るだけであれば90度でもいいのです。
しかし360度ひっくり返ったのです。

彼は小さな教会を開きます。
ユダヤ教徒の立場からすれば我々の承認なしに作られた教会ですから、無い方がいいのです。
それほどに当時のユダヤ教の人たちは絶対の自分を持っているものだったのです。

それほど信仰が強いといえばそうでしょう。

信仰の強い人たち

この信仰の強い人たちというのは、案外自分を捨てる、相手を受け入れるというよりも、いつでも条件を付けるところがあるようです。

できることとできないことを区別しながら自分の信仰のはかりをつけようとするのが、信仰の強い人にありがちのようです。

おそらくユダヤの人たちもそうだったのでしょう。

ですから、このユダヤの人たちは周辺の大きな国から滅ぼされたりしても、彼らにとって捨ててはならないことは、神からの選民であるということでした。

その信仰の強さは、人の手では変えられない力のあるものなのです。

それは立派だと思います。

私たちは本当にそれだけの強さを持っているのだろうかと考えるのです。

試練にあわないものにとっては、そのようなことを自分で考えなくても済む私たちであるわけです。

遠藤周作の『沈黙』という小説ではありませんが、私たちはやはり人によって踏みつけられるものよりは、尊敬されるものになりたいわけです。

この頃とても思うのですが、ダイヤモンドのように輝いて、世界中の宝石としてたっとばれたいというのが私たちの願望だと思うのです。

踏みつけられて邪魔にされて放り出される泥石にはなりたくない。

それは踏まれるものの痛みはあっても、踏むものの痛みにはならないという存在が、私はイエスの姿であり、パウロの姿であろうと思うのです。

私たちとイエスたち

ところが私たちはイエスを踏み石にし、パウロを踏みつけてきた。

その歴史の始まりがこの使徒言行録の中にあるということを、私は前提としてこの使徒言行録を読んでいかないといけないと思うのです。

ところが一方で、神から選ばれていて、我々は約束されているのだというのです。

それが律法であります。

律法は選ばれた民にふさわしいものとして規定しているとしている団体が、ユダヤ教であるわけですから、そこからは一歩も半歩もはみ出ることはできないのです。

それがなぜかというと、選ばれるにふさわしい価値ある民族であるから。

神様に愛されるにふさわしい、選民としての我々であるというのです。

だからそれは律法を守るものがいただける神の恵みとして絶対信仰を持っていたのがユダヤ教のわけですから、その価値から外れたものは、その神の恵みのうちから放り出された、価値のないものとして排除されてきたという状況のなかで、パウロは一人の仲立ちのような形で活躍したというように言っていいと思うのです。

このパウロたちが福音を伝道しながら選民の外側に置かれた、神の愛から外れた人たちへの喜びを伝えるという、パウロの喜びをやっかんだ人と論争が起こってしまうのです。

それは律法によって基礎づけられたしるしとして割礼もそうです。

このことはパウロ時代と今の日本の状況ととてもよく似ていると思うのです。

福音と律法の間で

はっきり言うと律法を破ったもの、我々からすれば教団の総意のもと、忘れてはいけないのは日本の宗教が宗教として存在できているのは、国家権力の承認です。
国家権力の承認によってのみ存続できていることを、私たちは忘れてはならないと思うのです。
だから権力に逆らうような規則を作ってはならないわけです。

まことしやかな規則を作ることによって、まことの信仰によってなされた行為を国家権力によって承認されている規則によって、それを踏みつぶすということが起きるのです。

ここに論点が至っていないということに、私はなんとも悲しいというか、律法を守るとか従うことがモラルだとか、手続きだとか、そんな次元でこの問題を解決しようとしたら絶対に出来ません。それは国家権力そのものを変えなければなりません。

それが私は福音の力だろうと思うのです。

ここまで言えばどの問題か、心当たりがあると思うのです。

一人の信仰を持って決断した営みや出来事を、国家権力によって承認された法律によってそれを排除し、その人の信仰そのものを否定するような行動をしているということに、気づいてほしいのです。

加害者も被害者もです。

それをお互いに主張しなければ、手続きの問題や、モラルの問題と言ったことで片づけられるならば、それは宗教ではありません。

しかもそのことによって当事者の生存権まで奪い取ろうとする。

それは福音的宗教ではなく、律法的宗教です。

パウロの一生を考えた時に、パウロはやがてローマに連れられて行って鎖を嵌められ、牢獄に放り込まれて死んだということと、彼はローマで釈放されて自由に福音宣教にその障害をささげたという、二つの推測的な見方があるようですが、いずれにしてもパウロは身内のユダヤの人たちの反感を買って、彼はその生涯を閉じたというのです。

しかし、パウロは決して自分の信仰を微塵たりとも崩したり、人に譲ることはしませんでした。律法に屈することもありませんでした。

最後まで十字架のイエスに従って、その生涯を過ごされたパウロが、実はキリスト教をキリスト教として生んでくれた張本人であることを、もう一度聖書に返って、一人の人の信仰を規則に基づいて排除するということは、決して福音的なキリスト教ではないのだということを、私は力強く言いたいと思うのです。

それがパウロの神髄ともいわれるガラテヤ人への手紙にも書いてあるといわれています。

律法を超えて

福音は何物にも束縛されることはない。
どこまでも自由だ。
その自由は信仰を保証するものだ。
信仰が規則によって拘束され、支配されるとすれば、それはまことの信仰ではない。

それは十字架という出来事に覆いをかぶせて、磔にした我々の側に立つ福音であるとすれば、それはキリスト教ではないと断言したいと思います。

規則は何処までも規則であって、信仰ではありません。

それは信仰によって、神の名において作られたという口実はできても、だからと言って一人の人間の信仰を排除するものではない。むしろ受け入れていくものです。

ましてや我々のように、もともとキリスト教国でもなければ、ユダヤ人でもない、もしかしたら神の選びの外側に置かれた私たち。

いま、福音の知らせを聞いて喜んでいる異邦人なのです。

本当にそれが喜びとなる異邦人としての私たちの在り方を、2000年前のパウロの時代にすでに起こっているということを、私たちは考えていかなければならない。そのために選ばれたキリスト者であり、選ばれた伝道者であるのだ、ということ。

そこには迫害もあり、抵抗もあり、もしかすると命を奪われる危険もあるかもしれません。

しかしそれは私たちにとって敵であってはならないのです。

このことを今回は心底覚えて祈りたいと思います。

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