・タイトル:「あなたの信仰があなたを救った」
・聖書箇所:マタイによる福音書 9章18節~26節
・担任教師:北口沙弥香 教師
長血の女性の物語
本日はマタイによる福音書の9章18節から26節までを共に読み進めてまいりたいと思います。
本日の聖書について、同じ話がマルコ福音書の5章21節から43節まで、ルカ福音書の8章40節から56節にあります。
この物語はもとはマルコ福音書の物語をマタイ福音書が自分たちの共同体にふさわしい形に合わせ、編集しなおしたのが、マルコ福音書からとられる時にお決まりのパターンの一つであるわけですが、今回に限って言えばその引用の仕方と言いますか、もっていき方というのが、大変簡略化されすぎているというくらい、マルコ福音書の3分の1の量で同じ物語を書き直した、ところであるということは言えそうです。
この話、先にイエスの存在証明、どのような方であるかということを示す三つの問答、三つの物語、とくに「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である、私が求めるのは憐れみであって生贄ではないというのは、どういう意味かを学びなさい。……」と、自らおっしゃいました。
このことはマタイの9章12節にあるわけですが、そのことをイエス自ら、証明するかのように様々な奇跡を起こされる物語として続いていきます。
三つの段落の奇跡物語がこの後に続いていくわけですが、今日は一つ目の段落ということであります。
一つ目と言っても、ここには二つの奇跡が紹介されています。
一つがある指導者と紹介されている人が、イエスのところにやってきて、「私の娘がたった今死にました。でもお祈りになってやってください。そうすれば生き返るでしょう」と、ひれ伏して言うのに対し、イエスは赴き、子の指導者の娘を生き返らせるという物語です。
もう一つはそれに挟み込まれるように紹介されている、長血の女の12年間患って出血が続いていた女性が、イエスの服に触れたら癒されたという物語です。
大変簡略化されているということを考えるために、マルコ福音書の同じ部分を見てみたいと思います。
5章の21節から最後までです。
どのような聖書でも開いていただいたらわかると思うのですが、分量が圧倒的に違うわけです。
新共同訳で言えばまるまる一ページがマタイ福音書で言うところの指導者の娘のよみがえりの話、そして12年間長血に苦しんだ女性の話があります。
だいぶ削られていますが、何が違うかということを想うわけですが、マルコ福音書では会堂長のヤイロという人の娘だったと紹介されています。父親の名前がマルコ福音書ではわかっていますが、マタイ福音書ではそれを削っています。
そして私の娘が死にそうですと言う風にマルコ福音書では懇願するわけです。
まだ死んでいないのです。
娘はまだ死んでいなかったにもかかわらず、イエスが長血で12年苦しんでいる女性の癒しを行ったから、娘が死んでしまったのだという設定がマルコ福音書ではされています。
何より私が気になったのが、12年も出血の止まらない女、長血の女と言われているこの人の苦しみのことについてです。
マルコ福音書で多くの医者にかかってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしてもなんの役にも立たず、ますますひどくなるだけであった、とマルコ福音書5章26節にこのような書かれ方をするのですが、まるごとマタイ福音書では削られています。
12年間出血の止まらない女性ということだけ、マタイ福音書では紹介されています。
また、マタイ福音書ではすぐ触れたことに気がついて「あなたの信仰があなたを救った」ということを宣言されるわけです。
娘は「あなたの信仰があなたを救った」と、イエスは振り向いて言われたとマタイ福音書9章22節に書かれています。
しかしマルコ福音書ではこのあたりのことがもうすこし詳しく書かれています。
この女性は黙ってイエスに触ったわけです。
出来れば気がつかれないように。
そしてそのまま本当は気がついてほしくはなかったのではないかとも読み取れます。
それはマルコ福音書5章33節から読み取れます。
あとからも申し上げたいと思いますが、出血のある状態で人に触るとことが、私たちの思っている以上にタブー視される世の中にあった為、女性は発覚することが恐ろしかったわけです。
しかしイエスは気がつくのです。
自分の力が出ていたことに気がついて、群衆の中で振り返り、私の服に触れたのは誰かという風に言われるのです。
お弟子さんたちはみんなそばにいるのだから、誰か触るに決まっているという趣旨のことを言うわけですが、それでもイエスは触れたものを見つけようとするのです。
それで女性は恐ろしくなり、自分だということを打ち明けるのですが、それに対し「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい……」と言われるわけです。
血の意味合い
なぜマタイが女性の切迫した苦しみを切り落としてしまったのかというところに、私は正直残念な思いがします。
マルコ福音書の臨場感あふれる文章をまとめて神学的なものにしたというような、マタイ福音書の記者の思いもあったのでしょうが、あまりにもあっさりしてしまっている、そのような書きぶりであります。
そのことも頭に置きつつ、この女性のことをもう少し考えてみたいと思います。
12年間も出血の止まらない女性がいた、というところに、私はクリスチャンになったばかりのころに、どうして出血が止まらないのだろうと思っていました。
どうやらこれは12年間生理が止まらなかった女性なのではないか、という答えに達しました。
12年間不正出血が止まらなかった女性。。
流血の伴う者はけがれているので触ってはいけないという規定が旧約聖書の規定にあります。
具体的には主にレビ記の19節の5章から30節までにあるといわれています。
衛生というものに極めて気を遣う民族の一つであったのだろうと、イスラエル民族に対して思うのですが、それ以上に血は命であったので、命というものが流れ出ている状態の人は、共同体の中である面で保護しなければならないというような趣旨の律法ではなかったと思います。
しかし、他人に触れられないということは、社会的に断絶されているということでもあります。
社会生活が送れないということでもあります。
ある面で社会的に隔離されている状態が、この女性の12年間の身の回りであったと思います。
この人の社会生活を送れないということは、ある面で律法の限界であります。
そして彼女もイスラエル人でありますから、律法を違反するということはやはり罪なのだということを、自分の内面に抱えているわけです。
だから自分がしたことがどれだけ律法違反で、社会的に責められることなのかということを、彼女はわかっています。
ですが、それでもこの人の服の下に触れば癒していただけるかもしれないという、強い期待をもってイエスの服に触れたわけです。
彼女を救ったものは、イエスに伴う神の力でありました。
しかし、その癒しはある面で彼女の信仰によって、確信によってもたらされたということもできるでしょう。
先ほど申し上げたように、長血の女性がほかの人に触れるのは律法違反であります。
「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの宣言。それはその律法違反、境界性侵犯をイエスは肯定したということです。
ある面で彼女の共犯となって、彼女の信仰を肯定したということです。
この物語を読んで、私は一つの、この世界の中での出来事を思い浮かべました。
車いすの人々の闘い
それは1970年代に起こった車いす利用者のバス乗車拒否が起こったときに、バスの前に座りこみを行い、乗車拒否に対抗した、青い芝の会というグループのことです。
青い芝の会は、1958年に結成された、脳性麻痺当事者のグループです。
いまも活動しているということです。
青い芝の会は、当事者として様々なことをしてきました。
その一つが1977年の川崎駅前バス占拠闘争です。
そのことで有名になったということでもありますけれども、どのような闘争かというと、車いす利用者が路線バスに乗せてもらい、目的地に向かうということは当然の権利であるわけですが、当時はバスのスロープがなかったようです。
そうすると運転士さんが車いすごと障害当事者を抱えてバスに乗ってもらうことになるということにならざるを得ませんでした。
そうすると運転手の腰がやられてしまう、それを嫌がった運転手さんが車いす利用者が待っていても通り過ぎてしまうのです。
乗車拒否をしてしまう。
それに対して当事者は怒るのです。
怒った当事者は何をしたかというと、乗車拒否をしたバスの前に座り込みを行いました。
その当時、バスの乗車拒否というのは川崎に限らず全国にあったようですが、全国青い芝の会は当時の運輸省や東京陸運局などに話し合いをしていたわけですが、うまくいかなかったのです。
そうしているうちに77年の4月に脳性麻痺当事者60人が集まってバスに同乗し、夜中23時までバスを占拠したということが起こりました。
これを思い返すにあたり、インターネットに残っていた当時の当事者の手記を読み返したのですが、窓ガラスをハンマーで割り、そこから拡声器で演説をするということもしていたという、過激な闘争でありました。
非当事者の暴力
それに対し「そこまでやらなくてもよかったのではないか」ということを非当事者は言ってしまいます。
非当事者として出てくる感想としてそのような言葉が出てきてしまうわけですが、一方でそこまでやらなくていいという感想は、そのようなことをしなくてすんでいる、健常者のある面での特権から出ている言葉だということをわきまえなければなりません。
そこまでやらなくてもいいという非当事者の感想は。当事者を生かすものではないのです。
当たり前であるべきこと、この場合はバスに待っていたら乗って目的地に向かえるという当たり前です。
それが社会の限界、健常者の事情で当たり前ではないということが当然になってしまっている。
その中で当たり前にすることを求めたということです。
それは一見するとルール違反と思われるわけですが、そのルール違反、過激な主義主張をしなければならなかった、そのことがむしろ当然であったという風に認識されること、そのようなことを必要とされているということを想うべきではないでしょうか。
長血の女の行動は、私たちから見たらそれほど過激なもののようにはみえないわけですが、実はイスラエル人にとっては健常者が青い芝の会の、川崎駅前バス占拠闘争の時のような、私たちにとってはそのような意味を持つような出来事ではなかったかというように想像するのです。
イエスの側に立つこと
イエスの側に立つということはどういうことかということについて、この長血の女の物語は私たちに教えてくれているというように、私は思うのです。
イエスの存在証明、私が来たのは……と言われたそのことを、イエスは実行されました。
長血の女の境界線破り、境界線侵犯を、イエスはこの女性が生きるためである、社会の中に戻っていくために必要なことであると、肯定されました。
それはあなたの信仰があなたを救ったというイエスの言葉として残されています。
イエスの側に立つということは、そのようなことであります。
律法という常識が、イエスの時代は支配していました。
私たちももしかしたら、この世の常識、法律というものに過度に縛られすぎて、イエスの側に立つということを見失っているのではないかというように思うのです。
イエスはこのような律法違反というものをある面で繰り返したがゆえに十字架につけられることになります。
そこまでも忠実であったイエスの罪びとを招くためであるという生き方。
私たちもどのようにそばに立って行うことができるでしょうか。
そのことを、これからも考えていきたいというように思います。
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