2022年1月23日 礼拝「偶像の神ではなく創り主の神を求めよ」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
この記事は約9分で読めます。

・タイトル:「偶像の神ではなく創り主の神を求めよ」
・聖書箇所:使徒言行録 14章8節~20節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

パウロたちの出会った人々と、それに対しての疑問

教会に通うようになって聖書を少しずつ読むようになって、納得のいかないいろいろな疑問に突き当たりながらあれこれと愚かな知恵と浅薄なキリスト教を求める心の中で読み過ごしてきたことを今思いぢして、果たして自分の中に解決しているのか、あるいは解消しているのかわからないままに今日に至っているのが、わたくしの正直な聖書の読んでいるさまであります。

ただ今読んでいただいた箇所もその一つでありまして、キリスト教の元祖ともいえるパウロと、その同伴者であるバルナバが苦難を背負い、迫害に突き当たりながら福音の喜びを一人でも多くのものに伝えたいという意思と、使命、その根性の働きをこうして学んでいるさなかに、あるところに一人の、生まれつき足の不自由な、しかも彼は歩いたことがないという、今風で言うと重度の障害を持った、おそらく青年と出会うのです。

この聖書の中に生まれながら、生まれつきという言い方をすると、いい方法に読み取るときと、悪い意味で読み取られてしまうときがこの聖書にあることを、私はとても疑問を持っているのです。

なぜ生まれつき足の不自由な人や、目の見えない人や、生まれつき精神的に、といった、我々が普通に言うとマイナス思考のある人を引用して、事実であろうとなかろうと物語を語ろうとするありかたが、聖書という形でずっと読まれるであろうものに一種のたとえとして引用されるのかと、私はずっと疑問を持っていました。

例えばあの人のように、といった言い方を聖書に語られることに、私も心地よさを感じないものの一人でした。

子供のころに食事をしていて、ご飯粒をこぼすとおじいさんなりおばあさんなりが「ご飯粒をこぼすと目が見えなくなるよ」とよく言われました。

それが本当かどうかは知りませんが、農家にとっては大事なものなのだよという言い方をされる教育を受けてきました。

戦後は駅のホームの線路に線路が白くなるくらい煙草の吸い型がいっぱい捨てられていました。それをはさみで一生懸命拾い集める人がいました。

それをホームから見ていて、お母さんがあんな人になりたくないな、何とかするとああなるよ、とマイナスイメージでそういう人たちを子供に教えているということがありました。

障害をマイナス思考で、悪い事するとああなるよ、と一種の道徳律として障害を持った人たちを引用するということがあります。

ここでも生まれながら足が不自由で一度も歩いたことがないという、徹底的な否定の論理として障害者を引用するということに、このまま読むと納得できないわけです。

なぜ生まれながらに足が悪いのかなど、足があるわけだと考えると、誰も歩かせたことがないのかなど、いろいろな疑問が起こるわけです。

そういう人にパウロは出会うわけです。

そしてパウロはその人が生まれながらその人が歩けないといったことは知らないのです。

彼らが知っているのは彼と、彼の両親などが決めつけている、という決定的な断定です。

決してこれは原始キリスト教時代の歴史的事象ではなく、現在でもこのような方々はいらっしゃいます。

そしてあれでも生きたいと思うのはなぜなのか、といわれるほどに引用されます。
しかも聖書というものに引用されることに、違和感を感じてならないのです。

まずそれが本題の一つです。

二つめの疑問

それはもしかすると史実でない、史実を引用して何かを語ろうとしている引用的な書き方をしているのかもしれません。

生まれながらまっすぐな道を歩こうとしない、歩かせてもらえなかった人と言った言い方をすれば、パウロのいた原始キリスト教時代においては神様の道をまっすぐ歩こうとしなかった、とか、神様の名において立たせてもらえなかったといったことを暗に隠しながら引用しているのではないかと思うのです。

そこにパウロはその人の目をおそらくじっと見て、見抜いたのでしょう。

テレビを見るというときはただ見て、感動するのでしょうが、そこには見抜くといったことはないのです。

ただ映像として見たにすぎません。

見たものというものは忘れることもできるのです。
見たかもしれないけどはっきり覚えていません、といえばそれまでなのです。

とことがパウロはこの見つめた、見入ったということになると、もう一歩、見たものの神通力のようなものが問われるわけです。

この間ある歴史作家の話を聞いていたら、おもしろいことをおっしゃっていました。

見抜くこと

まだなりたての若い歴史家が、昔の歴史を正確に把握したいためにまだ生存していた人のところに行って過去の話を聞くのです。

そして聞いたものをまとめて文章にして、別の人のところにもっていくと、その見せてもらった人は、「あなたはこの人の目を見て書いたのか」と言われるのです。
「いや、私は夢中で書き取っていました」というと、その線背は「これはみんな嘘です」というのです。
嘘か本当かはしゃべる人の目をみて見抜いて書かないと、一人前の作家にはなれないといわれたのだそうです。

口先で嘘を言っても過去のことは自分にしかわからないという人がいるかもしれない。
その嘘を見抜くのは、それを聞き取る人になるわけです。

パウロは見抜いたのです。

この辺のことも余談になるわけですが、ヨハネ9章の初めの方に生まれつき目の見えない人の話があるわけです。

その時弟子たちがこの人は生まれながらにして見えないのは親の罪なのかその人の罪なのかと聞くわけです。

おそらく弟子たちは本人か親の罪で、罰が当たってこの人は産まれながら目が見えないものとして生まれてきたんだと言いたかったのかもしれません。

ところがイエスはそうはみませんでした。

お前たちが生まれながら目が見えないという人たちを見てきたと自慢を言うけれど、そうではないんじゃないかとイエスは言うのです。

もちろん、この人の場合は目が見えないわけですから、その目を見つめるわけにはいきません。

そのある学者はイエスは彼らをみたと書いているのです。それで終わっています。

私はこれにも疑問があるのです。

通りすがりに見たということになるわけです。

また、なんとなく見たということにもなるのです。

見ただけではわからないんじゃないか。

そこに立ち止まって、その人の動きや素振りを見抜くことによって少しでも把握するという、いわゆる神通力のようなものがなければ、見過ごしても済まされ、見ても見ぬ振りもでき、忘れてしまっても別に何の意識もないで終わってしまうのです。

そこがこのパウロと我々の違いだと思うのです。

パウロはこの人に向かって「まっすぐ立ちなさい」と言います。

「歩け」とは言っていません。まっすぐ立とうが斜めに立とうが、立てれば万々歳なのです。

あえてまっすぐ立ちなさいというのは、それなりの根拠がパウロにはあり、またその人から見抜いたという、パウロの力はやはり凡人とは違うのだろうかと思うわけです。

パウロたちの神格化

それを現実に、生身で見てしまった人たちは、人間のわざじゃない、昔から言い伝えられたように、神様が人間に化けて当然歩いたことのない人を歩かせたんだとわかると、驚きと同時にこのパウロとバルナバを神様のように祭り上げ、偶像のようにするということが起こるわけです。

これは決して古い話ではありません。

今でもこういった宗教や運動がいっぱい作られています。

それは人のわざを超えた神の業だとして祭り上げ、一つの宗教運動を作ろうとすることは、我々は日常的に見ているわけです。

そのようなことをする人はお教祖さまになるわけです。

そうするとしまいにはお教祖様の涙、血、種をもらってその恵みにあやかろうとすることさえも起こっているわけです。これが宗教の怖さです。

宗教はどちらにでもひっくり返るのです。

ある宗教団体が、昔の国鉄の車両を何両か借り切って貢物を詰め込んでご本山に運んだという、戦後間もないころにニュースになった話があります。

その宗教も厳然としてありますし、しかも今は一つの街を形成し、大学などをも作ってしまったのです。

それは間違いだと、私は言いたいわけではありません。

そのようなことがイエスの時代にもあったということです。

それにパウロたちは遭遇したのです。

そこまでいかなくとも、お教祖様とされる、人間のできないようなことをした尊敬と恐怖と畏敬を一丁間違って自分の理性を狂わせてしまうようなことさえも起こりかねないということを、我々はどう見極めていくかがとても大事なことではないかと思うのです。

だからパウロはあなたたちがそんなことをして神格化して、神様のように祭ることは間違っているのだ、我々はこの世を作られた創造主の恵みを伝えようとしているのであって、我々は自分たちのわざを通して自分たちが神様になろうとしているのではないのだということを、パウロたちは語り始めたのです。

これは前の信心深い地方の有力者や貴婦人たちをユダヤ教の人たちがパウロの言っていることに心地よさを感じないために、いわば当時のユダヤ人にしてはパウロやバルナバの方っていることは自分たちの、イエスを十字架につけて殺した罪を暴き、悪者の子孫にされているわけですから、彼らにとっては選ばれた畳だという優越感がボロボロに壊されてしまうわけですから、心地よくない、何とかして追放したいと思うわけです。

こういったわずか12節しかない出来事が、もしかしたら一冊の本になるほどの、さまざまなことが描かれているのです。

そういった聖書のリアリティを見抜くことも、生まれながら歩いたことのない人を立ち上がらせる力になる、ということです。

暗黒の世界に預言者であり洗礼者であったヨハネが主の道がそなえられた、まっすぐにしなさいと預言されました。

おそらく足の不自由な人は神の道を歩むことを拒否され、不自由な思いをさせられている、与えているものに対するパウロの警告がこのところに示されているのではないでしょうか。

そのことのために障害というマイナス思考をプラス化しようとすることに対してはそれなりの評価をしたいなと思うのですが、同じパウロがある魔術師に対して魔術を使って王様をそそのかそうとしているものに対してパウロは盲人になれといった、盲人というマイナス思考に、盲人を引用していることに対しても収まらない思いがないわけでもありません。

否定を否定する福音

しかしここではいい意味で生まれつき歩いたことのない、生まれつきという決定的な否定を否定する、否定を否定しているのです。

まっすぐに立ちなさい、と、立てることで結果として足の不自由な人は立ち上がって躍り上がって歩きだしたとなるのです。

これは否定を否定されたものの喜び。

福音とは否定を否定されることによって肯定されていく喜びだとすると、まさにこの歩かせてもらえなかった人たち、奪われた人たちが歩けるようになるということが福音の恵みなのです。

それは決定的に否定されたものが、神によって否定される、否定を否定されることによって、それは肯定されていくということを、使徒言行録のルカは語ろうとしているのではないでしょうか。

そこで足の不自由な人がいい意味で引用されているとなると、障害も恵みだということよりも、障害が恵みだとここで短絡的に言うよりも、障害と自分を向き合わせる、その業が暗に働いていることを、私たちに教えているのではないだろうかと思うのです。

そう見返すと、聖書の障碍者観というものは私たちにとってすべてマイナスで受け取ってはならないのではないか。

特に福音書は我々がこの世にあって価値のないものとされる人たちがほぼ取り上げられているのです。

そして価値ある者たちとされるものは否定されているのです。

このことを今一度、聖書を読むときに自分の信仰の判断基準として学び取っていかなければならないのではないかと思わされて読み取ってきた次第であります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました