2022年1月16日 礼拝「伝道を邪魔される」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「伝道を邪魔される」
・聖書箇所:使徒言行録 14章1節~7節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

私たちに問われていること

ただ今朗読していただきました使徒の働きの第14章、いよいよキリスト教がその主でありたもうイエスが十字架において殺されて間もない時期に、殺されることを見逃した、協力をした人たちが全く転換して、殺されたものの弟子としての殺した側の働きがこれから先ずっと知らされて、また私たちはこれをどう受け止め、どう理解し、いまこの世にあって行かされている私たちが、このできごとをどれだけ現在化してみているかということが、私たちに問われているような気がするわけであります。

そこにはここにもありますように分裂という言葉があります。

それから、石を投げつけて迫害するというか、暴力を受けるというか、そこにまで発展していった中にあって、それはどちらが正当でどちらが不当なのかということも、この出来事を通じて私たちは学ばなければならないことだと思うのです。
単に2000年前に出来た歴史の古物として学ぶのではなくて、その我々の先祖、同じ人間が犯した、作り上げた歴史を、いまの私たちがどれだけそれを現在化できるか、現在視うるかということが問題ではないのでしょうか。
そうでないと聖書は何の意味も持たない単なる古物書にしかならないような気がするのです。

しかも、その中の中心的人物と言われるパウロの思想や働きは、切っても切り離せない準物です。
その人物が取り上げられているのです。
そのパウロが、方向を360度転換して、何一つ外側からは変わった様子もなければ、変わった様子のないパウロですが、彼から語られる言葉は全く方向転換された語り口で我々に語られているのです。
イエスも同じだと思うのです。


彼は大工の子ではないか、しかも彼にはマリアというお母さんがいて、ヤコブ、ヨセフと言った兄弟もいる、我々とおなじ男ではないかという彼の言うことなすことがおかしい。
そのおかしいという言葉も、我々には意味を持つ言葉だと思うのです。
何一つ大工の子である、何一つ変わっていないイエスではないかということを、パウロも同じように、当時の人からは受け取られていた。しかもイエスとパウロは全く違うわけです。

イエスは単なる大工の子でしたが、パウロは天下一品の秀才であり、品行者であり、知識人であるわけですから、その彼がこのように方向を変えるといっても、なかなか人からは信じられないわけです。
その彼が今度は殺されたものの側に立って殺した側へと方向を変えて語るというのは、これはなかなか勇気のいる、もしかすると殺される側に立って働くということですから、ここにいのちがかかるわけです。
私はこうなりました、というわけの話ではないのです。
刃を向けていた彼が、今度は向けられる側に立つという方向転換は、私たちには想像するとぞっとする話、そんなことできないといったものでは済まされない状況がこのキリスト教誕生時に起こっているということの歴史性を、私たちはこの今世紀において考えなければならないことではないのかなと思うのです。
ですから、今まで仲間だったものが方向を変えることによって取り残された、そうでないものは今度は尊敬どころか恨み百倍、裏切者というレッテルを張って彼の働きを封じ込めようとしたというのが、この聖書の中にも記されているのです。
それをやったものはなにかというと、昨日まで同じユダヤ教だった律法の崇報者であったということです。
その中の主だった人たちが、今度は裏側に回って同じユダヤ教の信仰を持った人たちをそそのかして、何とか殺してやろうというふうにたくらんだという話です。

弱い「立派な信仰」

これは2000年も昔の、我々からするとそんなに文化的にも教義的にもすべてにおいて発達していないのかもしれませんけれど、なあなあでは済まされないことがあるというのです。それはこのユダヤ人がたくらみをもってそそのかすのをみて、パウロたちを何とか追放しようとしたときに、ある意味利用された人たちがいるのです。
それが当時のユダヤ教こそ我々の宗教であり、代表でしめされた律法こそ神の意志だと信じている人たち、それ一つという人たちです。どんなことがあっても守ることができる信仰深い人たちがいるわけです。
その人たちをうまく利用した、利用されたということ。
それは今でもあると思うのです。

こんなこと言うと叱られるのかもしれませんが、例えば信仰一筋という方がいらっしゃいますよね。
熱心で、何が何でも私の信仰に狂いはないし、間違いはないから、人が何と言おうとこれをまっすぐに信じるんだという立場の方です。
教会で言えば、長老さんという人たちがいる教会の中で、あの人は素晴らしいと思われるような人たちがたくさんいるわけです。
礼拝に行けば一番前にずらっと並んで、説教をメモしながら書き取っているような立派な信仰者。
ところが教会の中で分裂が起こった。
その内容はいろいろあると思います。
その時にかならず教会は分裂するわけです。

教会側と、問題を提起した側。
なかなかそれはその奉仕者にとってはどうすることもできない難しい話ですし、牧師はどっちの側に立って自分の安全を図るか、別の教会に行くかということもしょっちゅうあるわけです。
その時に牧師たちはどっちを利用するかというと、信仰が熱心な人たちなのです。言われた方は怒っているわけですから、牧師の側につかないととするわけです。

要するに信仰というのは、一つ間違うとほかのことに利用される危険性を孕んでいるのです。
自分の信仰、というのがあると、汚れたりしたときに権威にかかわるわけですから、牧師からくすぐられてやると分裂というのは必ず起こるのです。

要するに利用されるのです。

そういう意味で信仰が間違っているのではなく、信仰をわが物のようにして振り回すことによって、その信仰が人を裁く力になる、信仰が律法化した時に人を裁くのだということを、この使徒言行録は教えているのです。

教会が分裂しているのですから。

信仰によって問われているのだと、私たちは学び取るべきだと思うのです。
よく教会の内紛と言ったことがありますが、分析をしてみるとそういうことは多いのです。

福音と聖餐の外側

私はこの14章の1節から読んでいて、ふと思ったことは、このような講壇で語るべきではないのかもしれませんが、私たちはどうしても仲間でもあるし、この伝道所の関係教会でもあるわけですから、黙ってもいられないし、忘れるわけにもいかない問題の一つです。

たしかに彼は律法を守らなかった、犯した側に立たされました。
だから彼はなんとかに違反した。
だから反省をして、悔い改めて、その罪を認めるならばそれは赦すんだという、ごもっともな論理をもって彼を審判しました。

それは彼の行為に問題があるのではなく、彼の信仰に問題があるというふうにこじつけられてしまう。そんなことを人間の側としてそれに正当性など私にとってはないと思うのです。

問題は福音を律法化した時に、福音は律法によって裁かれる側に立つということなのです。
これが教会の分裂をつくる最大の原因なのです。

福音は律法の罪を赦すことはあっても福音が律法によって裁かれてはならないということが、この使徒言行録の本旨なのです。

だから信仰があればという言い方ではないのです。
聖餐の問題。これはある条件を満たしたものだけが受ける恵みとされています。

その恵みという言葉のなかに恵まれないものというものを前提とした恵みの行為として聖餐というのがあるとするならば、それは分裂を生み出すことになります。
福音ではないのです。
律法です。

この根拠づけなしに彼の問題を外側からああでもないこうでもないとやったって、解決の糸口は見いだせないだろうと、私は思うのです。
福音と律法はどこまでも違うのです。
福音が律法によって裁かれるのではなくて、福音によって律法の過ちが許されるということが福音なのです。

私たちは福音の側に立っているのか、律法の側に立っているのかわからないままに何か信仰というお題目に権威付けしている私たちの罪の問題をこのパウロの発言の中から見出さなければいけないのではないかと思われてならないのです。
洗礼も聖餐も分裂や区別を作るための手段にしてはならない。
ユダヤ教こそ我々の宗教だと言い張ってきたユダヤの人たちと、神の選びからはじき出された異邦人とは、別なんだ、神の選びから外れた人は人間ではないというユダヤ的信仰の過ちが、分裂を生み、差別を生み、そして世界の主でありたもう主を自分の中に囲いこんで安心を得ようとした当時の指導者たちの過ちを、いまも私たちは繰り返してはいないだろうか。
この視点に立たないと、聖餐論をどう論じようと、何かを一生懸命やろうと、あまり意味を持たないと思うのです。
パウロたちが石を投げつけられても福音を語り続け、しかも主を頼りとしたこと。
主を頼りにしていたことが大切です。
石をぶつけられたのは主なのです。
石を投げつけたのは誰なのか。
このことを、私たちは原点から今日の聖餐のリアリティを学び取るべきではないのかと思うのです。
私たちもどこかで誤っているかもしれない。

恵みと福音

自分の過ちを自分の過ちとして認めることによって、福音が初めて律法から解放されるのだということを、そのことによってはじめてこの律法の外側に置かれ、恵みや聖餐の外側におかれた人たちが躍り上がって喜ぶ福音の恵みを伝えるために、私たちは選ばれ、歩み出ているんだということを自覚しながら、この人たちの歴史を、いま歩んでいる私たちの歴史として現在化されていくことが、それができることが聖書なのではないか。
それは聖霊という我々には見ることも触ることもできない神の力として、我々一人一人に与えられているのだということを学び取りたいと思う次第であります。

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