2022年1月9日 礼拝「新しい革袋」(北口沙弥香教師)

礼拝説教
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・タイトル:「新しい革袋」
・聖書箇所:マタイによる福音書 9章14節~17節
・担任教師:北口沙弥香 教師

断食についての問答

本日の聖書はマタイによる福音書の9章の、洗礼者ヨハネの弟子からなぜ断食しないのかと問われたイエスが、それに対してお答えになるという、問答の物語を読んでいきたいと思います。

この物語、マルコ福音書の2章18節から22節と、ルカ福音書の5章の33節から39節に同様の物語があります。

この部分は、マタイ福音書の著者がマルコ福音書の物語を下敷きに、自分たちにとってわかりやすく、また意味のある物語に書き換えている形式のところであると言えます。

しかし、マルコ福音書からの書き換えというのは、本当に最低限にとどまっていて、この部分はマルコ福音書の著者たちにとっても、マルコ福音書をほぼそのまま継承する大事な物語であったともいえます。

導入の部分を整理したことに異よって、洗礼者ヨハネの弟子だけがイエスのところにきてイエスに質問するという形になっています。

マルコ福音書では、パリサイ派と洗礼者ヨハネの弟子たちがともにいて断食をしているところにイエスがやってきて、イエスに質問し、問答を吹っ掛けるという形になっていますが、その辺のことが整理されています。

そしげマタイ福音書においては新しい葡萄酒を新しい革袋に入れるものだ……という結論になっています。

そうすれば両者は長持ちするというのは、マタイ福音書の付け加えであります。

そのことを頭においていただきたいと思うのですが、洗礼者ヨハネの弟子からなぜ断食しないのかということについて質問される、それに対してイエスの回答がここに述べられています。

イエスの三つの言葉

三つの言葉の要素があります。

婚礼の客がいるときに花婿が一緒にいる間断食をすることはないということ、古い服につぎあてをするときに新しい布をわざわざ使うことはないこと、そして新しい葡萄酒を古い革袋に入れる者はいないこと、そのような3つの言葉、3つの要素でこの部分はなり立っております。

もともともしかしたら3つとも別の時にイエスが述べられた言葉が、伝承の過程で結びついたのではないかという風に言われています。

また、日本語のことわざ「新しい酒は新しい革袋に」というという言葉のもとになったのも、この言葉だったのではないかという風に言われています。

そういう意味ではことわざというものは、日本に新約聖書という者が伝えられてからなり立ったという、新しい言葉なのだと思うわけです。

断食ということがこの中では問題になっています。

断食というのはイスラエルの宗教にとっては大変大切なものであり、重視されるものでした。

それは罪を悔いる心の表れであったからです。

特に大贖罪日と呼ばれる、レビ記の10章の9節以下にそれが書かれているらしいですが、その日には一切の食事をとらず、入浴ということが禁止されたわけです。

また、イエス、そしてのちのユダヤ教から分離し、キリスト教になっていくマタイ教団も含めて分派となっていくわけですが、そこと対立したパリサイ派の人たちというのは、年に5回定められた断食がイスラエルの宗教にはあったわけですが、そのほかに毎週木曜日と月曜日に断食を守るという大変律儀なことをしておりました。

洗礼者ヨハネの弟子たち、洗礼者ヨハネが亡くなったあとも活動を続けていたわけですが、その人たちも荒れ野の宗教の中で、世俗から距離を置いて悔い改めという者を大事にしたでしょうから、当然断食を大事にするわけです。

それに対してイエスは断食を強くはしなかった。

それどころか大食漢で、大酒飲みと悪口を言われるくらい食事を召し上がっていたという風に考えられます。

マタイ福音書の中にも主の祈りがありますが、今日のパンを今日お与えくださいとその中で祈ります。これは神の国というものがいよいよ間近に迫っていて、いまこの時が喜びの時であり救いの時である、その喜びというものは結婚式の婚礼の席に招かれることに匹敵するくらいの喜びであるということを、イエスの癒した教職の宣教に、病を癒したり、社会の周辺に追いやられている人たちや罪びとと言われて揶揄された人たちと関わることを積極的に行う、そんなイエスのありかた、それが神の国の到来だという風に人々は思っていた。

それをイエス亡き後もイエスの弟子たちは伝えようとしていたのです。

イエスの在り方に、すでに神の国の先取りが指し示されているということです。

花婿が取り去られる時

だから、祝いの席のようにイエスの弟子たちは、またイエスに連なる者たちは断食をしないということです。

しかし、花婿が奪い取られる時が来る、その時彼らは断食することになる、のその時というのは受難の時、イエスが十字架に架かられるときという風に解釈することができるでしょう。

その時にはイエスが取り去られたことを私たちの目の前からいなくなること、何よりもイエスの弟子たちがイエスのことを守れなかった、イエスを結果的に裏切ってしまったということを悔いて断食をするのだということをイエスの口から言われます。

これはイエスが言われたというよりも、イエスの受難のことを知っている著者が、伝承がこの部分を作り出したという風にも言うことができます。

何にせよイエスの受難の時までその日以外は喜んで生きるのだということで、私たちは断食をあえて大事なこととして、また形式にとらわれるものとして行うことはしないということを言わんとしている、そういう風に言えるのではないでしょうか。

そして、古いものと新しいものは大変相性が悪いという二つのたとえが示されています。

新しい布を当て布にして古い服を作ろうとするとどういうことが起こるかという例えが次に述べられます。

新しい布が服を切り裂き、ほつれは一層ひどくなるというふうに言われるわけですが、

この新しい布というのは、水にさらしていないという風にも読むことができます。

水で洗うと新しい布は縮むので、水で洗ったない布と、今まで使っていた布という者はある面で相性が悪く、そのようなことをしてしまうと服が破れてしまう、役に立たないものになるといわれます。

新しい葡萄酒を古い革袋に入れる者はいない、ということも言われます。

それも新しい葡萄酒という者は、未発酵の酒ということもできます。

発酵がどれだけ意図的にこの時代出来たのかということもまだまだ説があるわけですが、皮の中でそのまま発酵させて飲んでいたのではないかという風にも言われるわけです。

どっちみちもぎたての葡萄汁をほおっておくと酒になるということはあるわけですが、古い革袋に入れてしまうと発酵して二酸化炭素が出て、古い革袋が爆発してしまうということがあります。

当然に予測できることです。だから、新しい酒は新しい革袋に入れるものだという風に言われます。

これは古いものはユダヤ教で、イスラエルの宗教で、またイスラエルの宗教を司っていた断食を含む様々な伝統です。

新しいものはイエスによってもたらされた福音です。

どうしてもこれらのことが相いれない、古いものは古いもの、新しいものは新しいものでそれぞれ生きなければならないという、マタイ福音書の決意というものが、また書き加えられたものもそのように読み取ることができるのではないかと思うのです。

家父長制と聖餐式

私がこれを読んで思ったのは、私たちは時間の軸を古いところから新しいところに向かって歩むわけですが、この社会の中で過去を捨てきれず、またその中で新しい思想も生まれ、その中で機能不全が起こっているということです。

例えば、明治以降強固になった家父長制という、私たちを無意識のうちに支配しているもの、それが女性の人権が認められ、個人の人権が認められ、家父長、つまり長男にだけ相続が行われて、家の権限と責任をすべて持つというところから、個人に責任を持たせ、人権というものを大事にし、男性も女性も変わりなく大事にされるというそのような社会になってきたというように思います。

しかし、どうしても古い考えが本当に古からあったものという思い込みによって齟齬をきたしているのだというように思います。

具体的に言えば同性婚と選択的夫婦別姓についてです。

選択的夫婦別姓というのは、文字通り結婚するときに現行法ではどちらかが苗字を変えて同じ苗字を新しい家庭で名乗らなければならないという仕組みであります。

それを同じ苗字にしてもいいし、今まで通りの名前を使い続けてもいいよという風に制度を変えようという動きがあるわけですが、それを一方で女性のわがままだと言って切り捨てようとする動きがまだまだ決して少なくありません。

日本において90%以上の家庭が元の男性の苗字のまま結婚する、女性はそれによって、ここまで女性が社会進出をしてしまうとどのようになるかというと、結婚するときにありとあらゆる名義を夫の苗字に変えなければならないということが起こるわけです。

例えば銀行口座であり、保険の証書であり、会社で勤めている場合はその社会保険の様々なものを手続きをして変えてもらわなければなりません。

銀行で名義を変えてもらうというのは実は大変ハードルが高いものであって、戸籍謄本をもっていかなければならないと聞いたことがあります。

それだけが私が結婚したくない理由ではないのですが、もし私が血迷って結婚することがあったら、相手の苗字にしてもいいから手続きを半分以上手伝ってくれる人だったらいいなということを冗談ぽく申し上げているのですが、そのような社会負担を結局女性に押し付けているということを認めない人たちがいる。古いものにこだわって新しいものを認めない、相いれないということがあって、そこでトラブルが起こっていくのだなという風に感じます。

もういっぽうの同性婚のこともそうです。

男性同士、これも戸籍上という、性別とはそもそもなんなんだというややこしい話になりますが、とりあえず戸籍上男性同士女性同士結婚ができるようにしたらいいのではないかという話があるわけですけれども、それもそうすると家の形が壊れる、社会の秩序が乱れるというふうに言う人がおります。

はたしてそうでしょうか。

現行の中で結婚することができない、大事な人を周りに認めてもらえないという人が、認められるようになるということがそんなに社会にとって不都合なのかという風に思います。

結婚は当人同士の問題でありますから、少なくともその人にかかわりのない人にとってはかかわりのないことなのではないかという風にも思うのです。

新しいことと、古くから私たちを縛り上げていることがぶつかったときに、古いものがそのまま残ってしまうのか、それとも古い革袋に新しい酒を入れた時のように爆発し、変わってしまうのか、それはなかなか根深い問題であるという風に思います。

教会の中では、当教団の中の私は恥だと思っているわけですが、いわゆる聖餐論の問題で一人の教師の召命を否定し、免職処分にしたという事件があります。

その教師はその教会の中で役員、信徒含め聖餐をその時教会に来たすべての人と分かち合うという風に教会の規則を変更したことで、またそのことを教団に申請したことで、それはどういうことなのかということが問題になり、最終的には教師資格のはく奪というわけではないのですが、教師として働くことが許されないという状況に追い込まれております。

私からするとこれは聖餐論の争いではなく、当該教師を教師として認めたくないからそのようなことが起こったという風に認識しておりますけれども、その中でもやはり洗礼をお受けになった人だけが聖餐にあずかれるという決まりに対し、一定の歴史的価値や意味を感じつつも、聖餐をオープンにした教会で話し合いが始まったわけですが、本当に信徒さんのなかで痛みを覚えて、私たちが信じてきたこと、やってきたことは間違っていたのですかという風に涙を流される人もいたという風に聞いています。

そのような気持ちに対してそれは間違っていると切り捨てることはできませんけれども、それでもやはり、新しいことと古くからのことがぶつかって、古い袋が破裂するような、そのような痛みを伴う、新しくなるということはそのようなこともあるということを思わされます。

Kさん記念礼拝

本日の礼拝は当教会の会員であったKさんを覚えての記念礼拝をおささげしております。

2018年の1月8日に天に召されました。

ご自宅にお帰りになったときに、眠っていらっしゃるときにひっそりと息を引き取られたと私は認識しておりますが、それは日曜日の礼拝の終わった翌日だという風にも聞いております。

また、その礼拝は今日と同じように私の講壇担当の日でありましたので、何やら複雑な思いがしております。

Kさんが亡くなられた次に日に、平日に鳴らない教会からの着信があったわけですからあわてて電話をかけなおしたのを覚えております。

それで飯塚先生から「K君が亡くなった。日曜日の服装を覚えているか」と言われて、服装の確認をされるということはもしかしたらお風呂で亡くなっていたのかもしれないと思ったものでした。

どうやらそれは私の勘違いで、亡くなったは自宅で、警察が本人確認をしたかったからだということが後からわかるわけですけども、なんにせよ早すぎる死であり、私にとっては教会に戻って来られたKさんがすい星のようにこの教会に現れて、また去っていったと感じるそんな出来事でありました。

Kさんにとって私は役に立つ牧師であったのかなと思って、お葬式の時には本当に「役に立たなくてごめんなさい」と言いながらお棺の中に花を入れたことをいま、思い返しております。

Kさんのことと、新しい酒を新しい革袋に入れよという言葉を想うとき、本当にKさんはいつでもあたらしくなろうとする人であったなという風に思います。

本当にご自分の病に苦しまれて、私が赴任した年の9月に長い長い鬱の期間を抜けて教会に戻って来いらっしゃいましたが、その直後のお別れだったと思うのですが、その中で、その病がありながらも新しい信仰を生きようとした人だったのだろうと思います。

あの人自身が新しい革袋になろうとしていた、なっていた矢先の神からの招きだったのかなと思うとき、大変残念な思いがしております。

余りにも早すぎるし、せっかく楽しく共に過ごしていたのにお別れをしなければならないということを、心を痛めて思い返しております。

Kさんの神のもとでの永遠の憩いということを信じ、また、私たちも神の福音に対する新しい革袋として生きることができるかということを、また私たちも神から、そしてKさんから問われているのではないかと思うわけです。

新しいこと、古いこと

新しいことと古いことの齟齬を私たちはこれからしばしば体験することになるでしょう。

私たちが新しいことを喜べないとしたら、それは古いものにこだわり、古いもののは古いものの良さがあって捨てることができず、新しいものを受け入れることができないからではないでしょうか。神から与えられた新しさというものを信じ、私たちが変わっていくことを恐れず、神とともに、イエスとともに歩んでいけるように、神からの力添えを祈りたい。

そのように思います。

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