2022年1月2日 礼拝「聖霊の力」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「聖霊の力」
・聖書箇所:使徒言行録 13章48節~52節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

劇的な変化

新年のご挨拶を申し上げたいと思います。

今年最初の礼拝をともにささげることの恵みに感謝をいたします。

このような歩みを一年間私どもを導いてくださることを、主を目標にして歩んでいくことができますようにと、心からお祈りする次第であります。

私どもは、私の担当としてこれまでイエスの弟子たちの歩み、我々と相似形的に考えうる内容のある使徒言行録というものをご一緒に学んでいるのですけれども、今日は第13章の締めくくりに辿り着いたわけで、これはまさに暴力的なキリスト教とまでも言わないまでも、キリストを主と信ずるもの、いわば自分たちの宗教、律法を中心としたユダヤ教からはみ出た、はみ出されたものに対して、最も強烈に反対して暴力をふるったサウロが、その迫害の的であるイエスに出会って回心するわけです。

これがダマスコ途上のサウロの回心ということになるのですけれども、このことからサウロは360度自分が転向してしまって、今まで白かったものを赤、と言い切れるパウロに変貌していったというところで13章が終わるわけです。

しかし、これを世俗的に13章を見てみたいと思っているのです。

確かにサウロはイエスと出会ってひとたまりもなく、まるで赤が黒になるように全く人間が変わってしまうわけです。

もちろん形の上で変わるのではなく、精神的な、内的なものの変貌であり、なかなか人には解らないものです。

変わったって言ってみてもそれの証拠、証明はなかなか知ってもらうまでにはいかないわけであります。

例えば自分は今まで日本で仏教徒であった、特に熱心な仏教徒であれば素晴らしい仏教徒であったと、何事も仏教的に素晴らしい人が一夜にしてひっくり返ってしまい、仏教徒からすると異教徒と言える別の宗教に心変わりして、まるっきり今まで右だったものが左という変化をするあり方、ふるまいでもって、今までの仏教徒の彼を我々は先生と言い、尊敬していたものが、どうしたものか変わってしまった。

そうなれば信用できなくなってしまいます。

変わるということで信用を失ってしまうのです。

誰でもできることでないだけに、そういったことになってしまったと、私はパウロを想うのです。しかもサウロはどうローマ市民権をとったのかわかりませんが、歴史的にはお金で市民権を買ったといわれているわけですから、お金持ちだったのでしょう。

お金で自分の身分や家柄、信条をまでをも買い取るということは、金持ちでなければできないわけですから、それができるからやってしまったとなると、金の力で名誉を買ったんだということになってしまいます。

今、日本でもテレビなり、お金の紙幣にも載せられるであろう渋沢栄一さんでも、変わった人でないにしろ、その実力があったのでしょう。

渋沢栄一とパウロ

東京の北区でしょうか。私にも思い出がある公園があるのです。

山手線田端駅近くの飛鳥山公園というのがあり、そこには渋沢栄一さんが住んでいたのですが、そこは15万坪の土地を自分の屋敷として買い取って生活していたのだそうです。

私は今でも思い出して住んでみたいくらいの気持ちになるのです。

それは私事で申し訳ないのですが、私がけがをして病院通いをしていた時に、埼玉県の浦和だったのですが、浦和から京浜東北線で王子まで来て、王子から都電で大学病院に通っていました。

1か月1回程度だったのですが、その病院から介助の人と帰りに歩こうということになり、初めて飛鳥山公園に辿り着いて、公園の周りを歩いていたらお巡りさんが来て、そのころ重症患者みたいに顔には大きなマスクのような眼帯をして歩いていたものですがから、大丈夫ですか、と話しかけられたのです。

もしかするととんでもないことをしでかすと思ったに違いありません。

そんなつもりは全くなかったのですが、そうなってしまうと思われたのでしょう。

そういう意味で飛鳥山公園というものはとてもいい意味でも悪い意味でも思い出に残る場所なのです。

あとでそこが渋沢栄一さんのお屋敷であったということを聞いて、素敵なところなんだなと今でも思っています。

人には分らない心変わり

人には分からない心変わりというものが、みんなあると思うのです。

パウロも多分そうだったのだと思います。

おそらくユダヤ教徒の人からすると近寄れないほどのお偉いさんだったと思うのです。

そのサウロが一転して敵であるキリスト信仰者に心変わりしたわけですから、それはあっと驚くなんとかになるわけです。

しかも彼はお金を持っていたらしく、ローマの市民権まで獲得している人です。

ローマの権力にも妥当する人ですから、ローマとユダヤ人は敵と敵ですし、パウロが出かけて行ったところはローマに滅ぼされて無国籍になった、いわゆる散らされた人たち、ディアスポラですから、恨みはあってもローマの人たちに恩恵はないのです。

しかもパウロはユダヤ教の歴史を淡々と語りながら、最後にはあなたたちの信じているユダヤ教の律法では本当の救いはないんだよということですから、これもユダヤの人たちからすればびっくり仰天するものでした。

もしかしたらローマの手先かなと思われたかもしれません。

それなのにしかもパウロはあなたたちが信じているユダヤ教の律法では本当の救いないんだよというのです。

なぜかというと律法には必ず一定の拘束があって、していいこととしてはいけないことの二分法があるのです。

このことはいまの日本にかぎらず、キリスト教の問題になっている、洗礼を受けたものと受けていないものの二分法、受けたもののみの聖餐受容と拒否も、律法になっているのです。

律法によって区分して二分して、いいものと悪いものを分けるということは、本来福音を律法化してしまった。

言い分からするとそうしないとしまりがつかない、決め事をして、みんなで守ることでみんなのもとにするんだと条件にしてしまったときに教会は一つのエゴイズムになっていくのです。

パウロは彼らに何を言ったか。

信仰により、イエス・キリストを義としてすべてのものを漏れなく受け入れるというのが、私の心変わりした信仰の本質なのだ、もはやあなたたちの律法によって二分化して区別をすることによっては決して救われない。

このイエス・キリストを義とする、義とするというのは漏れるものがないということだというのです。

漏れるものがないということ

漏れるものがないということは、洗礼を受けたものと受けていないものという二分法では漏れてしまっているものがありますが、その間に漏れるものがないということです。

これが異邦人伝道の根拠だったのです。

だから、異邦人というのは区別された人たちです。

例えば散らされたユダヤ人は、自分たちはユダヤ人ですから、神様が自分たちを選んでくださった、けがれていない民族、正しい民族だということで、だからお前たちは選ばれなかったのだという口実をもってユダヤ人の優越感やエゴイズムを作っていたことに対してのパウロの言い分というものが、ユダヤの人たちにとってはどうしても許せない、さらにはローマの支配をしようとするのかという誤解をパウロは受け続けたに違いないと思うのです。

それが迫害という形で追いかけてきたのです。

その異邦人というのは初めから区分されているわけですから、救いにあずかることはできない、律法を守ったところで救われない。

その人たちに対してイエスという人は我々も受け入れてくださるのだという話を聞いた時、彼らは喜んで賛美したのです。

それに対してユダヤの人たちは嫉妬心をもってとんでもないと言い張ったのです。

私はよくわかりませんが、キリスト教が世界で三大宗教の一つとしてどれだけの信徒がいるのかわかりませんが、20億ともいわれていますが、漏れがないとは言えないのです。

漏れている、たとえば世界人口が80億いたとして、60億人は漏れているのです。

言い換えれば排除されている人たちということもできます。

そこには何がいるかというと、洗礼を受けたものや信仰を告白したものなど、そういった条件を付けられたものが60億人ということになると、すべてのものの主というものは該当しない。

これがあるところに限界になると思うのです。

しかしながら私はキリスト教に限界があるとは思いません。

限界があったらキリスト教ではなく、キリスト教の一部でしかないのではないかと思うのです。

ひとりじゃない、ということ

そういう意味で今年一年の歩みとして「ひとりじゃない」ということなのです。

自分の信仰だけではない、一人じゃない。

隣の人もまた隣の人も、あるいは地の果てに至るまで一人じゃない人を対象に福音伝道をしていくことが、聖書の本来の課せられたものであり、そこには誤解や制約、やっかみとの戦いを、パウロは漏れない、漏らしてはならないという聖霊に押し出されて、赤かったパウロは白いパウロになって誤解を受けながら、あってはならないところへ押し出された。

それがキリスト教の伝道だったのではないか。

私たちは伝道の広さを制約することによって狭くしているという、もしかすると福音に対する罪を犯しているのではないか。

もしかするとその罪を解放されてひとりじゃない、ここに私とはすべて違ったものが一人じゃない形において、隣に人がいるのだ。

そのことをパウロはこの14章からその証として示される内容が示されているわけでありますので、私たちはもっともっと福音の力とは何なのか、何を託されているのかを考えるべきです。

今、教会は私の目から見ると、教会に安楽の座を得ていると思うのです。

教会だけが自分だけの安心できる場所としているのではないでしょうか。

これは福音の封じ込めです。教会の外で起こっていることは何でしょうか。

それは、教会の外側であって自分たちの内側として認識されないのであれば、それは福音の律法化でしかありません。

これを打ち破ること、広げていくこと。

それは使徒言行録第14章に描かれている足の不自由な人や、足の不自由な人だけではなく、不自由な人に焦点を置いて、パウロの誤解が解消されていく証の働きとして描かれていることを、私たちは次回を楽しみに学んでいきたいと思います。

新しい年がすべてにおいて新しくされ、誰一人漏れることなく福音の恵みにあずかり、聖霊の力によって与えられていることを覚えたいと思う次第であります。

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