2021年12月26日 礼拝「捨てられた神の涙」(河口陽子伝道師)

礼拝説教
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・タイトル:「捨てられた神の涙」
・聖書箇所:エレミヤ書 9章12節~21節
・担任教師:河口陽子 伝道師

ひとりじゃない!

エブリバーディ、メリークリスマス!(一日遅れですが、、、)
昨日はクリスマス、、、イエス・キリストの生誕を覚える日、その寒空の聖夜とその出来事を、それぞれが思い巡らせ、迎えられた事と思います、、、
先週のクリスマス特別礼拝は、初めての方、何年ぶりかの方もお見えになって、嬉しく過ごす事ができました、、、

そして語られたメッセージ、、、「望まれない胎児にこそ、神の祝福があるのだ、そこに福音があるのだ!」とのメッセージだと、私は受け取りました、、、
出自は勿論、生い立ちや、人生、営みも、思い描いていたのとは違ってしまったかもしれません、、、否応なしにここまで来てしまった、自分の思う様にはならなかった、、、
「振り返りたくもない!」、、、という方もおられるかもしれません、、、
でも、そんな思いも、後悔も、、、恨みも、憎しみさえもチャラにしてくれる、いえ辛い経験をしたからこそ、その辛い経験も生きる糧に変えられるかもしれない、と思わされました、、、

たとえ、まだその苦しみの渦中にいて、全く光が見えない、と思われても、この世の闇の中で小さな命が生まれた事を覚えられたら、きっと希望を失わずに生きる勇気を持てる様な、そんな神の大いなる愛を感じられる事ができました、、、
自分を苦しめる様々な囚(とら)われから解放され、ここに集う友たちと、生き直したらいいのだ!と、、、
たとえ躓き多き、失敗だらけの人生だとしても、「何回でも生き直したらいいんだよ!」という優しい思いにさせられ、感謝でした、、、
今ここに集う私たち、一人ひとりが「神に生かされて今ここにある!」と、来年のこの教会の標語の様に「ひとりじゃない!」と、、、その事、その事実に感謝したい、と思います、、、

現実の問題

さて、先月の私のメッセージは「ユダの堕落」と題して、エレミヤの時代の出来事ではありますが、「今、この世の現実がエレミヤの時代と重なる」と、様々な事例も挙げて、語らせて頂きました、、、
「忘れるな!繰り返すな!今この現状をどう考えるのか?!」とエレミヤの鋭い告発の言葉が、正に、私たちに迫って来ます、、、
「この現実の問題なのだ!」と思わされ、「その苦しみの根源は何なのか?!」、、、と、これからも考え続け、問い続けていかなければと、神から問われ続けると、改めて思わされます、、、

重苦しく、辛い思い、生き辛さを抱えているその友の痛みを、忘れる事なく、共に祈りつつ、、、十字架を担がされたイエスの様には背負いきる事はできなくても、少しでも友の痛みに、悲しみに、思いを寄せ、歩んでいかなければ、と思わされております、、、

3つに区切られるのはなぜ?

今日の所は、3つに区切られています、、、
なぜ、その様に分けられたでしょうか?
3つとも、その冒頭の言葉はそんなに違いはありません、似たようなものです、、、

そうなんです、、、最初の散文形式の所は、、、(12節)「彼らに」、(13節)「彼らは」、(15節)「彼らを」、、、と「彼ら」という言葉が沢山出てきます、、、
ここは最初に、12節の冒頭に、「主(神ヤーウェ)が言われる」とある様に、神がエレミヤに語った、託した、告発の、糾弾の言葉として記されています、、、ですので、「彼ら」は「ユダの民」または「エルサレムの民」の事だと思われます、、、

でも、バビロン捕囚とエルサレム滅亡を思わせる記述がありますが、「神の教え」、掟、律法の遵守を主張する申命記的な記述で、後代の付加とも考えられます、、、
内容的にはこの散文の部分を飛ばして、11節から16節へと繋げて読む方が繋がりが分かり易いと思います、、、

3つ目の部分、19節からの「主の言葉を聞け」、(21節)「このように告げよ、と主は言われる。」とある様に神の託宣、エレミヤに託した言葉という形になっています、、、

では、その二つに囲まれた真ん中の16~18節はどうなのか?ここでは「我々」という言葉が沢山出て来るのですが、これをどう理解するかがまた難しく、悩まされました、、、
今日も皆さんと共に悩みながら、ひも解いていきたいと思っています、、、

上昇志向の神々と人権の神

13節「バアル」は何回も出てきましたが、改めて、、、
「バアル」の原意は「主人、所有者、夫」、、、男の神、農耕での生産性アップ、豊穣、肥沃、利益追求の神として、偶像崇拝の代表、代名詞的な扱い、異教の神々の意味も含んで使われたりもします、、、
バアルも、広く周辺の国々、異国の宗教もすべて、収穫、生産、富、を求め、向上、上昇思考の神々、、、だから奴隷も格差も当たり前、、、

そんな中でヤーウェ宗教は特異です、、、
「人は王の奴隷ではない!」、、、「土くれから皆等しく神に似せて創られた!」と、、、
抑圧から、奴隷状態から、貧く弱くされた民を救い出した神、、、
だから、その神によって救い出されたのに、それを忘れて、もっともっとと、上へ上へと、上っていきたい、、、
そんな上昇志向への囚われ、差別化、差別意識、、、
そんな、間違った価値観への隷属、奴隷と化してしまって、、、そのために人を奴隷の様に扱い、搾取、抑圧、だまし取り、踏みにじる、、、
そんな神の救いの行為、御旨を忘れた、無視した行為は許されないと、、、
ヤーウェの神は正(まさ)しく「人権」の原点、「人権」の神なのです、、、

権力側の組織的隠蔽、森加計問題、、、公文書改ざん問題の裁判を強制的に終わらせたり、外国人を入管という刑務所より酷い、虐待とも言える、非人間的な扱いと、その実態を矮小化しようとする、人権を踏みにじる国の姿勢、、、
正義と公正が行われない、悪に悪を重ねる、国民を欺くその口、、、そんな国は存在も存続も許さない、滅んでしまうのだ!」という預言者の告発なのです、、、

聖書はせきららで生々しいですが、周辺の他の国々では、文献はあっても都合の悪い事はほとんど書かれていません、、、
聖書は、編集はされていますが、聖書ほど正直なのはない、そして自国の民に、自分自身に厳しい民族は他にないのです、、、

苦よもぎ

14節の「苦よもぎ」、、、という言葉、、、この言葉を聞くとチェルノブイリ原発事故の事を思い浮かべる方もおられるのではないでしょうか?、、、私もそうです、、、
「チェルノブイリ」は「苦よもぎ」という意味で、ヨハネの黙示録にも載っているので、聖書が原発事故を予告していたのだと、、、
でも、解説によると、ウクライナの地名、チェルノブイリはウクライナ語でニガヨモギであると言われることがあるけれど、それは正確ではないとの事、、、
混同されてしまいがちですが、チェルノブイリはニガヨモギの近縁種のハーブであるオウショウヨモギであり、ポルィーニという別の名前がニガヨモギであって、区別されているとの事です、、、

「苦よもぎ」はその名の通り非常に苦く、「良薬口に苦し」と言われる様に、古代では胃腸薬として用いられ、、、その苦さゆえに、「不正、苦難、裁き」などの象徴で苦々しい災禍の比喩であると、、、
「神からの離反、苦しみや裁き、不正への怒り」などの比喩として言及される言葉なのです、、、

でも、あの恐ろしく悲しい、多くの罪のない人々の命を奪い、未来に対しても奪い続ける原発事故ではなくても、20節に象徴される様に、幼子も若者も巻き込まれてしまった現実があったことを、そして今もその現実が身近にあることを忘れてはならないと思うのです、、、

「毒の水」は8:14にも出てきました、、、また23:15にも同様に出てきます、、、その理由は、8章では「我々が神ヤーウェに罪を犯したからだ」とあり、23章では「偽預言者」に言及されています、、、
因果応報的でやはり申命記的な後代の加筆ではないかと思わされます、、、
そこの判断は慎重にしなければ、との意見もあります、、、

泣き女

16節「泣き女」は、お葬式の時に、親族の他に嘆いて泣く専門家、それでお金を貰う生業としての「泣き女」や「泣き男」がいたとの事、、、
これは古代オリエントの世界だけでなく、ほとんど世界中であったかもしれません、、、今もそんな風習が残っている所もあって、日本でも神話の世界でもあったくらいです、、、

私はもう20年近く前の事ですが、川崎の桜本に住む在日一世のハンメ、お婆ちゃんたちの「花ハンメ」というドキュメンタリー映画、それも、その生活の場、桜本の桜本小学校の体育館で封切を見たのですが、、、
映画にはみんなで集まって踊ったり、キムチを作ったり、ハンメたちの日常が描かれ、確か葬儀のシーンもあったと思うのです、、、
お葬式に、朝鮮王朝時代の様な独特の帽子、ハット、白い正装をした男性たちが入って来て、同じく白い民族衣装、チョゴリ姿のハンメたちが「アイゴー、アイゴー」と泣き悲しんでいた姿があったことを思い出しました、、、
大きな声を上げ、嘆き、泣き、悲しむ、、、これは、亡くなられた方を悼み、称え、、、そして残された遺族の、辛い悲しみに寄り添う行為、儀式であったのだと改めて思わされています、、、

19節の「女たちよ」は、その「泣き女」を受けていて、バビロニアからの襲来、攻撃、戦争で、力のない者から次々に殺されていく、、、
だから、職業的訓練を受けた「泣き女」だけではもはや足りなくなるから「嘆きの歌を教え 互いに哀歌を学べ」とあるのです、、、
20節からの記述、そこでは「死」は擬人化され、原文は正(まさ)しくその哀歌であり、俳句か短歌の様に抑揚があるリズムで歌われています、、、

人間のしかばね

21節の「人間のしかばね」、、、
NHKラジオ第2放送の「宗教の時間」という番組の「琉球諸島の神歌との出会い」という放送での、宮内喜美子さん、という女性詩人の歌が、心に残っています、、、
「時間が時間を、、、この真っ白な骨の様な珊瑚のかけらたちは、まるで骨の様、ではなくて、本当に骨なのだ、骨そのもの、、、兵士の、自警団の、逃げ惑ったおばあや、乳飲み子、飢えや病で倒れた、自決させられた人々のそれへの無念の骨を、踏んで、じゃりじゃり、と、珊瑚の浜を私は歩く」

愛(いと)おしみ、嘆き、泣く神

私のメッセージの前回もその前の回も、神の涙、泣く神が、表現されているのではないか?とお話して来ました、、、
今日の問題の2番目の部分、、、多用されている「我々」とは誰を指すのか?
16節だけが神の言葉で、17節からはエレミヤ自身の言葉でしょうか?、、、
終わりの18節の「我々」はエレミヤを含む「エルサレムの民」であっても、17節ははたして、どうでしょうか?、、、

少なくともここまでは神ヤーウェの言葉ではないかと、、、「我々は目は涙を流し まぶたは水を滴らせる。」、、、
その「我々」とは不条理にも理不尽にも大切な家族を失う民、そんな辛い告白をしなければならなかったエレミヤ、そして民を捨てざるを得なかった神自身の、それぞれの涙ではなかったかと、、、

もう来週、次回の聖日は来る年、新しい年を迎えます、、、
私たちは「ひとりではない」、、、私たちは、私は、悪の心や行い、罪を犯す、そんな業(ごう)とも言えるエゴを抱えた人間、その一人であって、ひとりではありません、友もいる、「ひとりではない」、、、
そんな私たち、私と、一緒に涙し、寄り添う神、、、隔てなく雨を降らせて下さる神と共に、友と他者と共に、「あんなやつ!」とつい思ってしまう人をも、自分と同じじゃないかと、包み込める様な、大いなる愛を抱き合いたいと思うのです、、、
自分も人から見たらしょせん「あんなやつ!」なのですから、、、
ファリサイ人の様に裁いたり、低い人を作ったり、自分を高くしたり、分離する事は、意味がないのですから、、、

愛(いと)おしみ、嘆き、泣く神を、感じて、感じながら、友を感じて、お互いの重荷が軽くなる様に、歩む年となさせて下さい、と祈りたいと思います、、、

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