2021年12月19日 礼拝「胎児と共に喜ぶ」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「神の言を受け入れた民衆」
・聖書箇所:ルカによる福音書 1章39節~45節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

クリスマスを迎えるにあたって

私たちの命の源であり救い主である、主イエスのお誕生を心からお祝い申し上げたいと思います。

これからこのクリスマスという年年歳歳金太郎飴のような思いでクリスマスを迎えて、中にはまたか、とか、うんざり、とか、よくわからんとか、いろんなことがおありだろうと思います。

例えばこの時期になるとマスコミを利用してのクリスマスのメッセージをいろんなところから語られているのを聞くわけでありますけれども、初めてお聞きになる人にはそれなりの思いをされたり、思い浮かべたりをするのだろうと思いますけれども、私は少しへそを曲げて、もう一度聖書の中に、クリスマスとは、クリスマスの出来事とは何なのかということを改めて読み直ししながら、私なりのクリスマス観というのを今日はお話ししたいなと思います。

胎児とともに喜ぶ

週報にもありますように、今日のクリスマス礼拝の主題として、「胎児とともに喜ぶ」とあります。

この「胎児」というのはお腹の中にいる赤ちゃんですね。

もちろん普通であれば好きにして空気を吸う一人の身体が誕生する、いわば子になる前の存在がこのクリスマスに踊っていたというのです。

これはとても不思議です。

クリスマスのメッセージというとだいたいがお父さんであるヨセフとお母さんであるマリアに生まれた赤子が抱かれて馬小屋にいた、とか、飼い葉桶に寝かされていた、とか、飼い葉桶に寝かされていたという聖書の言葉も、私からすると飼い葉おけに捨てられた赤子と想像することもできるわけですね。

飼い葉桶に寝かされたイエスという言い方の中に、その中には産んだはずのマリアの姿は描かれていないわけですから、そこにはマリアさんはいらっしゃらないわけですから、ひょっとすると飼い葉桶に赤子が捨てられていたという受け止め方もできると思うのです。

しかし、いずれにしても何かを象徴する、意味づけして作られた話という風に受け取っても間違いではない。聖書はどこまでも正確に書いているわけではありませんから、いろいろな風に装飾をして物語風に変えているわけですから、もしかしたらたとえ話、おとぎ話といったように、真実はわからないのです。そこでこの聖書のルカ福音書の第1章をずっと読むと、また面白いことが書いてあるのです。

エリザベスとマリア

この一人の当時ユダヤ教の祭司、日本で言うお宮の神主さんでしょうか。その祭司にエリザベスというお連れ合いさんがいました。とてもその旦那さんは祭司としてまじめで、一心で正しい人で神に仕える人で、祭司職に全うしておられた人でした。

ところがそのお連れ合いさんであるエリザベスさんは、なかなかお子さんに恵まれませんでした。しまいには、この話をすると創世記のアブラハムの奥さんのサラも年を取って子供ができなかった。神様は様々に工作をするわけですが、それに対して神様はあなたには必ず子供を授ける、といったものの、「そんな馬鹿な」といってサラは地に付してあざ笑ったということが書いてあるのです。

このエリザベスのご夫婦は祭司職であり、神様との律法も守る正しい人であった。

その夫婦の間にお子さんが恵まれなかった。

そしてやがて子供の産めない人とされるわけです。

これは神様は男と女を結びつけることは単なる夫婦生活ではなくて、産めよ増やせよと言って子孫を増やしていくための結婚というわけでもあるわけですから、神様との約束も果たせないですし、何の事情があってか子供が授からなかった「不妊の女」、と名付けられるわけです。

日本でも戦中までは結婚をして3年以内に子供ができないと離婚ができ、離婚させられたのです。

平和憲法になってそういうことはなくなりましたが、戦中・戦前は日本でも結婚をして3年たって出産しなければ結婚を解消させられたという時代もあるわけです。

それは何かというと、子供を産まないことは国策に反するということで離婚を正当化されて、お子さんの産めない女性は家庭から捨てられたわけです。

どんな事情があっても関係なしに女性に関係づけられて離婚させられました。

エリザベスもまた不妊の女、捕虜、神の約束から外れた人になるわけです。

男と女が結婚するということは、かならず子供が生まれるという前提でなり立っているわけですから、それに反する、意味を持たないということで恥ずかしい女というふうにレッテルを張られたわけです。

ところが突然、ご主人であるものが口がきけなくなってしまうのです。

話せなくなるのです。

そしてエリザベスは身を隠すわけです。

そしてエリザベスに赤ちゃんが宿って、そしてとうとう5か月、お腹の赤ちゃんも動き出す、胎動がみられる時期になるわけです。

エリザベスはそれによって神様は決して産めない女として私に恥をかかせなかったと誇らしげにエリザベスは言うわけです。

おそらくこの時間はご主人の方はああでもないこうでもないと責めて責めまくり、口がきけなくなる、神様からストップをかけられるほど言い続けたのでしょう。

面白い事柄の表現だと思います。

ところが、エリザベスからしたら神様はきちんと約束を守ってくださるのだとということの誇りを赤ちゃんが授けられることによって実感するわけです。

いわば神の恵みが自分のものになるということなのです。

要するにこのエリザベスの子供を産むということは、待って待って、期待して期待して、祈りつかれて、レッテルを張られるところまで行ったところに待望の赤ちゃんがお腹に宿った。

これは男の人には解らない、天にも昇るような喜びでしょう。

これは昔で言う年寄りが恥かきっ子だと笑ったものですが、とにかくエリザベスにとって神様は、必ず女の恥を解消してくれるということで喜んだのです。

これを前提にして、これはヨハネの誕生になるわけですが、一方、マリアさんは彼女自身が告白しているように、天使が現れてあなたはめでたい人、神様があなたを守ってくださった。

しかもあなたの身体に身ごもったその赤ちゃんは、ただの赤ちゃんじゃない。神の子だと宣言されます。

これにマリアは戸惑うわけです。

自分の身体に赤ちゃんができたことはマリアしか知りません。

どうして、どこでなぜ自分の体内に赤ちゃんが生きるようになったかということは、マリアの秘密としているのです。

しかし天使がおめでとう、今あなたに宿った赤ちゃんは聖霊によって生まれるものであり、それは神の子となる、そして全世界を収める、朽ちることない命の赤ちゃんであると。

マリアは決して産みたくて産もうとしている赤ちゃんではないということは、マリア自身がよく知っているのです。

なぜならば男を知りませんといいます。

ここでごちゃごちゃ考えてはいけません。

ここの男を知りません、という場合のマリアは女なんです。

しかも男はマリアという女を通してダビデ家の子を産むべく約束した男と女なんです。

その男、神様と約束した男の関係でない子を産むことは、私は男を知りませんというのです。

男というのは、神様との関係で立てられたもの、簡単で言うと1足す1が2であることはわかりますよね。1+1は2であってて、けっして2が1ではないということです。

2-1は1。

でも1+1は2。

これが神様がこれは人が一人でいるのはよくないといって女を作って、男と一緒にさせたという数理論です。

けっして2が1ではありません。

これが神の契約です。

ところがマリアは契約を破ったのです。

契約の外側で子供ができてしまった。

マリアにしては産みたくない、生まれては困る赤ちゃん。

産んだら自分が婚約をしていたヨセフとは結婚できない、結婚を破棄させられることになるわけです。

この例は2000年前のイエスの誕生ではないのです。

私たちが今現在、生きている社会でマリアさんのような境遇にある人はたくさんいます。

私がかつて婦人保護施設でお仕事していた時も、マリアさんの方のような女性の方が何人かおられました。

自分のお腹を痛めて産んだ赤ちゃん。

それは自分が望んで産んだ子ではない。

望まれない子供、望まれない子を産む女性の痛みというものは、これはなかなか取り上げられない。

なぜかというとそこには子供ではない子供がいるから、子供ではないけれども男がいる。

この男というのは神様が一人の女性とともに1+1が2にするために建てられたのであって、そうでないときは意志ではない人が男であり、人が女である神様に建てられて初めて男であり女であり、このあたりの解釈がまだまだ不十分ではないか。

人というと人間、人間というと人と区別をしない。

でも、表現が違うわけですから、どこか意味が違っていないといけないのです。

人間というのは人の間のわけです。

それは1+1が2になるための1、足されるための1。

1が1であれば別に2でなくてもいいのです。

これが私はクリスマスの秘密だと思うのです。

マリアは神様が定めてくださったヨセフとの関係はないはずだから、ダビデ家からイスラエルを支配する神の子が生まれるというのは、マリアにとってはどういう意味を成すでしょうか。

もしも、天使のお告げがなかったら、マリアはヨセフと結婚できなくても子供を産んでいたかもしれません。

しかし、エリザベスは待って待って待って、自分の相手の男である旦那から責められ続け、社会からも恥かき女とされて、あざ笑われてきたエリザベス。

待望の赤ちゃんでした。

これはよく言われることにこの子さえいれば何もいらないという物語もありますが、エリザベスもまさにそうでした。

自分の不妊という体の不調も全部神様は解放してくださった。

これは旦那さんの祭司としての正しい信仰のたまものではない。

エリザベスの祈りと信仰のたまものでもない。

神様は神にはできないことは何一つないんだよということです。

一方マリアは律法に反し、罪を犯された結果として望まない赤ちゃんを授けられた。

これは笑われ者になります。

もしかしたら犯罪者です。

律法に反するのですから、この世では生きていけない立場にさせられます。そ

れはマリアだけではありません。生まれてくる子供も同じです。今

愛の神と信仰と

でも学校にも行けない、国籍までもない、そういうお子さんもたくさんいる。

まさにマリアは本当に神様の道から外れた一人の子供を産む犯罪者です。

その犯罪者であるマリアを、神様は力において包み込むということ。

これはマリアの信仰ではありません。

信仰がマリアを通したということではありません。

信仰はこちら側の問題です。

将来的には親の面倒を見てくれるような経済的にも十分な大人になれるようにと願っています。

しかし、イエスは望まれない形で生まれました。犯罪者として生まれました。

これはユダヤの人からしたらどうなのでしょうか。

居ても立っても居られない、できることなら捻り殺したい。

あるいはどっかに捨ててしまいたい。

現実にそんなことは起こっています。

それは愛がないからです。

聖霊の力、望まれないものを望む。

愛するにふさわしくないものを愛する。

愛されない悲しみのあるものを愛する。

これは信仰でもなんでもないのです。

マリアは私は種のはしためです。

その身になりますように、と祈りました。

その身です。

体です。

自分がやがて産むかもしれない神の子と神様からしるしを受けた子供を産むことのマリアの苦痛を、神はいとおしくも愛した。

クリスマスの出来事は信仰によって起こった出来事ではない

クリスマスの出来事は信仰によって起こった出来事ではありません。

それは愛するにふさわしくない、愛してはならないものを愛する神の出来事がクリスマスなのです。

聖書にきちんと書かれていることを私たちは改めて発見したいと思います。

何が必要か。

それは愛することなのです。

愛されていることだ。

この犯罪に似た、あるいは犯罪である行為を産み出すおとめマリアを神はそっくり愛のうちに包み込んで守るのです。

そこにはこれから始まるであろう母マリアと、子なるイエスとの歩みの中でいろいろなことが私たちに記されるであろう。

それがクリスマスなのです。

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