2021年12月14日 礼拝「わたしが求めるのは、憐れみであっていけにけではない」(北口沙弥香教師)

礼拝説教
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・タイトル:「わたしが求めるのは、憐れみであっていけにけではない」
・聖書箇所:マタイによる福音書 9章9節~13節
・担任教師:北口沙弥香 教師

徴税人という罪人

本日はマタイ福音書9章9節から13節、マタイという徴税人の弟子をお招きになったイエスは、ともに食事をしているわけですけれども、それを律法学者に揶揄される、そのあたりから学んでいきたいと思います。

イエスは中風の人を癒されたそのあとに、通りがかりにマタイという人を見つけました。
その人は徴税人で、取税所に座っておりました。
取税所というのは、徴税人の事務所のようなところだったと考えます。
当時、ヘロデ・アンディパスの支配するガリラヤと、その兄弟の支配するトランスヨルダンと、ヘロデ大王が亡くなったのち、4つに分割統治されていました。

そこの教会には通行税の徴収所があったようです。

マタイもそこにいたのではないでしょうか。

イエスはマタイがそこにいるのを見出します。

そして私に従いなさいとイエスに言われ、マタイという徴税人は立ち上がってイエスにただちに従ったのでした。

その後、イエスはマタイと食事をします。

マタイだけでなく、ほかの弟子たちも、また徴税人や罪人たちも大勢やってきたと書いてあります。ファリサイ派の人たちはこれを見て弟子たちに「なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人たちと食事をするのだ」と驚きます。イエスはこれを聞いて「医者を必要とする人は丈夫な人ではなく、病人である。私が求めるのは憐れみであっていけにえではないということがどういう意味か、行って学びなさい。そして私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであるということだ」とおっしゃいました。

徴税人が大変嫌われていたというのは、教会生活が長い方でありましたら常識の一つであると思うわけですが、なぜ嫌われていたのかというところが大切なところだと思います。

ローマ帝国支配下の属州イスラエルの民の住むところでも、ローマ帝国の支配下にあったわけですけれども、ローマ帝国と民衆の間に徴税人というものを間に置くわけです。

そして徴税人は一定地域の徴税権を前払いをして買うわけです。

面白いですよね。

事前入札で競争させて買って、競り落とした人がその地域の税金を集めるというシステムになっていたというわけです。

実際にその地域から取り立てるわけですが、その徴税人がどれだけとるかというのはある面ゆだねられていたわけです。

そして入札分以上に取り立てた分はその徴税人の収入になったわけです。

そのため、しようと思えばローマが税金として取ろうとしていた以上にさらに上乗せして取ろうとすることもできたのです。

だからこそ過酷に税を取り立てて自分の懐に収めようとするものもいたでしょう。

それが嫌われた理由の一つであります。

それ以上に、経済的な理由だけではなく、イスラエル人であるくせに異教徒に仕えて民を苦しめる売国的な職業とみなされていました。

徴税人は異教徒であるローマ人と主従関係にあるなど、付き合いがあるわけですから、イスラエル人から見てけがれているという風にみなされていました。

その様な二重の理由から徴税人は憎まれ、けがれたものとさげすまされていたわけです。

徴税人の罪

あるラビの言うところによると、徴税人が悔い改めるには不当に取り立てた額に5分の1を加えて民衆に返済しなければならないという風に言った人もいたそうです。

しかし、不特定多数の人たちから徴税するわけですから、徴税した分を返してさらに5分の1を足して返したところで正確な額を返せるわけがないのです。

だから徴税人は悔い改めることができない永遠の罪人だとみなされていたわけです。

一方、イエスと徴税人マタイと弟子たちと食事をしてきたのは罪人が大勢と書いてあります。

罪人というと律法の定める生活のできない、守らない人ということになりますけれども、それにとどまらず、生活態度が不道徳、不品行、高利貸などといった人々を罪人といったそうです。

イエスはそのような罪人たちの仲間になり、弟子にするということをしました。

そのことがファリサイ派の人たちの反感を買うことになりました。

食事をすることが反感を買うことになるわけですが、イスラエル人にとって食事とは何かということを考えさせられます。

彼等にとって食事とは神に与えられた食物を神への感謝と賛美で聖別して食するという、一種の礼拝行為であったともいえます。

ですので、律法に忠実な人たちや熱心な人にとっては罪人と食事をしないということ、そして罪人によって食物が汚されないようにできるだけ家で食事をするということをしていました。律法を唱えない罪人と食事をすることは偶像にささげた犠牲を食べるようなものだとしていたようです。

ですから、罪人と食事をするということがいかに常識に外れており、また律法に反した行いだとされる、そのようなことをイエスはなさったのでした。

罪人と関わり、罪人と食事をする。

その様なことが反感を買うわけです。

その様な常識、罪人とともに、罪人を仲間にし、罪人と食事をするという、そのことをしないということが常識であったのに、あえてそのことをするということをされたのがイエスという者だったというようにも言えます。

この物語、元の物語がマルコ福音書2章13節から17節、ルカ福音書では5章27節から32節がもともと同じところを示しています。

もっと言えばマルコ福音書からの引用借用でマタイ福音書もルカ福音書も編んだところであります。

マタイ福音書においてマルコ福音書と異なるのは、徴税人の名前がラビからマタイに変えられたところです。

なぜこのような書き換えをしたのか、よくわかっていませんが、また、使徒マタイと徴税人マタイが重ねられているということにもなっています。

もしかしたら使徒マタイと徴税人マタイは別の人だったかもしれないのですが、そういう混同も後々マタイ福音書ではなされていくのです。そしてもっと大事なのが、旧約からの引用が挿入されているところです。

ホセア書の言葉

マルコ福音書にはなかった旧約引用がマタイ福音書には見られる、それがこの「私が求めるのはいけにえではない……」という箇所です。

この言葉はホセア書の6章6節からの引用です。

神が憐れみ深いことは神の本性であって、イエスは罪人と交わることで神の憐れみを体現しているということを、この引用で示そうとしています。

この引用はマタイ福音書においては12章7節にもう一回出てきます。

麦の穂を安息日に摘んで食べていた弟子たちを律法学者、ファリサイ派は咎めるわけですが、その中でこの言葉を引用し、神の招きや赦しについてイエスの口から説かれます。

マタイ福音書の著者にとって、神の招きとは何かということを一言で表すのだとしたらこのホセア書の言葉というこだわりというものを感じさせます。

神が憐れみ深いのであるから当然に罪人を招くのだというマタイ福音書の教会理解、福音理解というものがこの引用によって現れているというのです。

私はこのように思います。

罪ということを定義するのはもしかしたら神ではなく、人なのかもしれないということです。

罪というものをどのようなものを罪というように決めるのかということは、人間社会の必要から起こされるものであって、それは神は本当は誰も罪というようには定めてはいないのではないか、というようにも思えます。

正常とか、あるべき姿と考えられているところから外れているものを罪と呼んだり、平均から外れている人を罪人と言ったりしているだけということです。

その様に考えるならば、神を罪人が招くのは当然といえば当然といえるかもしれません。

神が人間が考える罪があるからといったところで、その罪人のことを放置するはずがない、あきらめることはないということです。

罪人を招かれる神

むしろ、その罪人を神ご自身が招いておられる、そのようにも言えるのではないでしょうか。

教会はクリスマスの準備をするアドベントの時を迎えています。

クリスマスを迎える4週のうち、私たちが教会のこと、教会とは何か、イエスとは何だったのかということを考えるときでもあります。

神がイエスを私たちのもとに送ってくださった、その意義を改めて考えたいと思います。

私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであると、イエスはこの物語の最後に言われました。

神がイエスを送ってくださったのは、罪人を招くためであります。

この世にあって、罪人だと揶揄されている人を救いに招くために神はイエスを送りました。

自分が神の救いから漏れているのではないか、そのように考えている人にこそ、神はそのようなことはないということをあえて告げるのです。それは神自身がかつて聖書を通して私が求めるのは憐れみであっていけにえではないといわれた通り、神は人間の常識を超えるほど憐れみ深いからです。

もし教会が罪人を招かず、受け入れがたい人を受け入れないのならば、それはこの世のほかの組織、集まりと何ら変わりがないことになります。

それは神の宮の教会としてふさわしいことでしょうか。

私はそのようには思いません。

神は罪人を招くのです。

そしてイエスは罪人を弟子としたのです。

私たちはアドベントの時、改めてそのことを思い返し、教会というものはどのようなものであるかということを想いたいのです。

教会のすべきこと

私たちはともすると付き合いやすい人たちだけと付き合いたいと思うことがあると思います。

常識的で、清潔感があって、言葉が通じる人とのみ付き合いたいと思ってしまうのかもしれません。

罪人とされた人は、決してそんな人たちではなかったでしょう。

また罪人とされた中身が時代において少しずつ中身が変わったとしても、どうしてもこの世の平均から、常識から外れてしまった人というものは、いつの時代もあるわけです。

そのような人を神は招くというのです。

繰り返します。

もし教会が罪人を招かず、受け入れることができないとしたら、それはこの世の組織と変わらないでしょう。

それは神の宮の教会としてふさわしいでしょうか。

そのことをアドベントの時、改めて心に刻みたいと思います。

イエスは十字架につけられるほど、あえて言うならば人間としては罪人と付き合うほど非常識な人間でありました。

その非常識さを神は良しとされた。

そのことが十字架と復活の出来事ではないしょうか。

イエスの人生のことも、このアドベントの暗闇の中、生かしていきたい

私たちは次の主日で前倒しのクリスマス礼拝を祝います。

イエスが世に来てくださったことを心から喜びたい。

その前に、教会の役割とイエスの生を思い起こしたいのです。

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