2021年12月5日 礼拝「神の言を受け入れた民衆」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「神の言を受け入れた民衆」
・聖書箇所:使徒言行録 13章43節~47節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

使徒言行録を学びながら

イエスの弟子である使徒たちの働きを学びながら、振り返って自分のことを考えてみると、あまりにも雲泥の差があるなとつくづく思わされているわけであります。

それと同時に、使徒といえども傲慢で、優秀で、そして誰にも負けない、もしかすると世界一俺だけがいるような、そんな錯覚さえも起こすような弟子の姿を、いま私たちは学んでいるような気がします。

それは、ユダヤ教の一派であるパリサイ派の人たちである集団の、学識高かったパウロ、自分以外、自分の信じる宗教以外はすべて悪だ、滅ぼそうと叫び、狂ったとまで言われるほどのたくましいパウロが、貧しい大工の子であったイエスという一人の人間のありさまに出会って、方向を完全に変えさせられてしまったというのです。

しかも方向の向けられた行く先は、決して今までのパウロではなかった。苦しみと迫害と、軽蔑などを受けるような生き方に追いやられ、向けられたという物語が、いま私たちに問いかけとして語られているのです。

パウロの心情を正確に理解することはできませんが、もし私がパウロだったとすれば、こんなはずではなかった、もしかすると間違っていたのではないか、という思いに駆られたかもしれません。私ならかられます。親から生まれ、なんとなく育てられて、人並みに社会に出て、あとはこれで自分の力で社会に貢献し、勤め先の会社にも恩を着せるような働きをしようとして社会に出たわけですが、どん底のような、価値のない、親孝行どころか親不孝な状態にまで突き落とされた経験からすると、パウロの心情も分からなくもありません。

憎いのは誰か。神か。

とはいえ信じていませんでしたから、そんなことを想ったところで無根拠なのですが、わけあって今は、愛されるどころか消えたほうが愛されるかもしれない自分の境遇を考えた時、パウロの在り方はどことなく似ているように感じるのです。

もしかすると迷い出て、自分の生きたいところに行く、自分のこうあったらいいという声に向かってしまう。

どうもおかしい。

一体俺は自分の人生を選択する能力も知恵も失ってしまったのか、と途方に暮れるようなパウロの人生ではなかったか。

しかも、あんなものはいらない、あれは我々を欺くものだといって磔にして殺してしまった。もちろん自分が手を下して殺したわけではない。

ある権力のあるものが、権力に乗じて殺してしまった。

ざまぁみろ。

その殺されたものが、あなた方の救い主だといわれても、あぁそうですか、とは言い難い自分の中にある自己過信のようなものが邪魔をして受け入れられない。

一度死んだ者は生き返ってくるわけないわけですから、死人に口なしということで収まってしまう。

ところが、パウロは収まるどころかいくつもの邪魔な世界、迫害の人間世界に定められた道として派遣された、私たちは果たして派遣されたというような意識や意欲があるのだろうか。

たやすい道

なんだか知らないけれどこちらの道の方がたやすい、安心だからと思って自分の選んだ道として歩んでいるように思えてならないのです。

それは本当かもしれません。

しかし、自分の持っている本当さが、確かに本当なのか。

本当だと信じている自分は本物なのか。

どこかで計算をしながら、打算的に、新聞の世論調査を聞いているとこっちよりあっちの方がよさそうだから、というあいまいな、誠実さのないアンケートにうんざりするのです。

私たちがあの十字架につけて殺し棄てた、しかも唾を吹きかけ、棒で殴り、磔にしたイエスをいまさら救い主だなどという方が自分をごまかして、それを信仰という名札をもって世の中を通ろうとする、自分のごまかしに時々気づかされてしまうのです。

どこの教会にいても金太郎飴のような同じ説教を聞かされ、語っている人は浮かない顔をしている。

別の教会に行くと若い人も年寄りもたくさん入っていく。

多数決という魔術から言うと、5~10人の教会よりも大きな教会の方が助けてもらえるかもしれない。自分の思うようなことが通るかもしれない。もしかすると望まなくても望みを超えたものが与えられるかもしれないという貪欲を隠して、たくさんいる教会に足を踏みいれることもなくはないだろう。

何もかも自分の選択で、スーパーマーケットで買い物をするように。

私の経験から、若いころからあるデパートにネクタイを買いに行ったのです。

ネクタイは大体デパートの出入り口に飾られていますから、それをくるくると回しながら選ぶのです。

ところがデパートに入ってネクタイ売り場に行って、売られているネクタイを見て、いいなと思うのです。

しかしぶら下げられているネクタイを見ると、同じものはありません。

より取り見取りですからどれを選んでもいいのです。

最後には適当な時間に買って、うちに持ち帰って自分の洋服と合わせると、一番合わないものを買ってしまうのです。一番合うのは最初に買ったものなのです。それで後悔する。

同じだと思うのです。

世の中には甘い口で、ごもっともだという口で勧誘する宗教がたくさんあります。

最近では電波で飛ばしてかゆいところに手が届くような、ぞくっとするようなさそいの言葉もあるようです。

ついついそれもくすぐられて、自分は正しい、自分は選択する常識、見識があると思い込んで、それにはまり込んでしまう。

はまり込むときは正義の丸出しです。

間違っていると思い込んでいるときははまらないのですから。

間違っていると思ったときの善意が、完全に過ちを犯す。

そして誘惑の溝を自分が差し出してしまうということを、よく私たちは聞くのです。

善意と悪意

先週もそういうことで苦しんでおられる方からの電話がありました。

自分の所在地も、名前も、電話で声を出すことが怖くて出せない、宗教恐怖症のようなものに怯えておられる方の電話でした。

私はその方が悪人だとは思いません。

誘惑するよりも誘惑される方が善人だと。

その善人さを自負した時が誘惑に負ける時なのだと。

それは選び、選ばれる善意です。

パウロが苦しめられているのは、その善意に満たされていたユダヤ教徒でした。

2000年前のパウロの状況がこれほどまでに発達し、人間がいらなくなるほどにロボットが発達して、人間の代わりになるほどの科学の時代に、パウロと同じような現実があることを、うぬぼれてはならない、私は知っている、彼は知らない、だから彼を説得してやる、正してやる。これほど傲慢な善意に満ちた悪はない、と思えてはならないのです。

パウロが方向を変えたのは、善意でも何でもありません。

一人の大工の子であったイエスという捨てられても誰からも惜しまれないものを、自分の方向を決める機会として定められ、押し出されたというパウロの心境に、私たちはどうしても共感することの力を持たない、自分の情けなさを、私は若い一人の方の電話を通して、今日も本当は朝の8時から待ち続けていました。今日でなくても訪ねてきてくださることを信じています。

そんな方を迷いから解放してやろう、正しい道へ導いてやろうというおごった思いはありませんし、そんな力もありません。

むなしさの中にその方と共感できる歩みへとなしうることができれば、それ以上のものでもそれ以下のものでもないんだ。

それはあんたには善意がない、私には善意があるとお叱りを受けるかもしれません。

善意の裏には、悪意がしっかりと結びあわされていることの自覚をもって、うぬぼれではなく、謙遜に過ごすことが、私は本当の愛なんだと思います。

今朝も国立大学の3つも卒業された上に、ほかの大学で勉強されている方のお話を伺いました。彼にはもったいないなぁ、こんなにまで勉強したのにと思うほどのうらやましさと、自分の持たないものを持っているだけの妬ましさを感じたかもしれません。

パウロはユダヤ人あなたたちの信じているユダヤ教の聖典の言葉、イザヤ書の言葉でもって、キリスト教のキの字も、仏教のブの字も、イスラムのイの字も知らない地の果てまで福音の光として派遣されていることを告白しているパウロの心情と、私自身の心情とを比べれば比べるほど、何かどこかに違和感を感じながらも、やはり小さくあれ、弱くあれ、貧しくあっても、私たちもまた、異邦人への光のはたらきとして召し出されていることの自覚に立って、この一年、来年を歩んでいきたいと思います。

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