2021年11月28日 礼拝「ユダの堕落」(河口陽子伝道師)

礼拝説教
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・タイトル:「ユダの堕落」
・聖書箇所:エレミヤ書 9章1節~11節
・担任教師:河口陽子 伝道師

ユダの堕落

「ユダの堕落」……今日の説教題は聖書の小見出し、そのまんまです……
皆さんは今日の所を読まれて、どう感じられました?どういう思いがしたでしょうか?……
ユダというと、新約聖書ではイエスの12弟子のひとりで、イエスを売った裏切り者ユダの物語が有名ですね……
私を含め、多くの方が、ユダの弱さに自分を重ね、「自分がユダだ!」と思わされたのではないでしょうか……

今日の所は、イスラエル民族がダビデによって統一王国となった後、ソロモン王の栄華を経て、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し……
北王国が大国アッシリアに滅ぼされてしまった後の、辛うじて何とか生き残っていたユダ王国のお話です……

そのユダの首都、聖都エルサレム……5章の小見出しは、その「エルサレムの堕落」でした……
その後(あと)も、ずっとエルサレムとユダについての預言が続いて、問われ続けて来ました……
イスラエル民族の民族神、神ヤハウェへの背き、特に神殿が祀られている首都エルサレムの背信、裏切り、堕落、の記述が続いて来ましたので、
「またあ?!」と、「もう勘弁して!」と、嫌気がさしている、嫌になっている方も、おられるのではないでしょうか?

私は、今回最初に読んだ時は、ずーんと頭から重しを乗せられた様な、落ち込む様な、重た~い気分になってしまいました……
自分が全て否定された様に思ってしまったのかもしれませんね……
でも……何回か読み返していくうちに、当時の様子とか雰囲気とか、ユダの国やエルサレムの街に流れる空気……そしてそこで暮らす、営みを続ける民、人々の思いは、どうだったのだろうとかと、色々思い巡らせてしまいました……
ですので今日のメッセージは、私の想像から、こうではなかったか?という部分もあります……
できたら皆さんもご一緒に想像して頂けたら、と思うのです……
遠い古代の小さな国のでき事ですが、ある意味、現代にも通じる普遍性もある、と思うのです……

コロナ第5派感染拡大の波紋

今、コロナが南アフリカでの新たな変異を繰り返したとされるオミクロン株が、強力なデルタ株に置き換わって、飛沫感染を超える感染力で、今までのワクチンでは防げないかもしれない、とまで言われています……
今このタイミングで空港などの水際対策を弱めて大丈夫なのか?と心配になりますが……
他の国々では感染拡大が急激に進んで、暴動まで起きている中で、日本は一旦落ち着いている様に見えていますが……
この2年近くに及ぶ様々な困難や直接関わった方の熱意、努力……一種の燃え尽き症状が出てしまっている看護師の方々……「もう一回波が来たら私は闘えるのだろうか?」と不安を抱えている……
感染した家族を、愛する者を失った大きな悲しみ……自分が移してしまった、助けられなかった、病院にも入院できず、充分な医療を受けさせてあげられなかった……そんな悲しみや後悔や無力感、自責の念……今も家族や大切な人を失った苦しみは癒えません……
助かっても様々な後遺症に苦しめられ、大学にも職場にも復帰できない……
40代でも、言われた時間を時計で表すことが出来ない程に認知機能が低下、気力、体力の消耗……
「回復できるのか?」「元の体に戻れるのか?」「これから生活していけるのか?」……

多くのと不安、閉塞感……無気力、そして怒り……様々な思いの交錯……
こんな悲惨な感染の爪痕、現状と、このエレミヤ書の時代背景が重なって見えて来ました……
今日はそんなところも皆様と一緒に考えていけたらと思っています……

押しのけるヤコブ

今日の所は、8節までは、人間の外面と裏腹な内面、歪んだ心の内側が露わにされます……   
9ー10節は、そんな人間の内実に対して、嘆きの声と、その様に人を大切にしない、尊重しない現実が、やがて民族の完全な没落をもたらす事を預言します……
11節は滅亡後の加筆、後代の付加と思われます……
そんな構成になっています……

3節の「押しのける者(ヤコブ)」は、創世記25章のヤコブの誕生を連想させます……
信仰の父祖アブラハム……これはユダヤ教、キリスト教だけでなく、イスラム教の元祖、父祖でもあります……
その息子イサクの双子の息子が生まれる時、母親のお腹の中で兄のかかとをつかんだという、面白いというかちょっと変わった誕生の様子……
双子の弟の方がヤコブで、アブラハムの孫に当たりますね、のちにイスラエルと呼ばれます……

創世記27章では結局ヤコブが双子の兄弟の兄のエサウを出し抜いて、
長子の特権、祝福を奪い取ったので……
(そしてエサウは選びから捨てられた……)
エレミヤはこの物語を念頭に置いていると思われます……

神自らが試す

6節「見よ、わたしは娘なるわが民を火を以て溶かし、試す」……
「娘なるわが民」はユダ、またはエルサレムの民の事で、前回の8章にも出てきました……
神の民はよく妻や娘に譬えられますが、それは神は民の父や夫、男に譬えられる、という事……
1節の最後に「すべて姦淫するものであり、裏切る者の集まりだ。」とあります……夫である神を捨て、地元に現存する利益追求の豊穣の神バアルに熱狂、狂信、陶酔……
ピラミッド型の権力の頂点か、更にその上を神とする異教の神々……
また太陽や星々、天体を拝み、占いを信ずる神ではないものに靡(なび)いて陶酔、心酔してしまうことを「姦淫」と称しているのですが……

前回も私は、神と人間を男と女に譬える事について語らせて貰いましたが、また、言わせて下さいね……
やはり、男性中心主義、父権性、家長制はいなめません……姦淫という言葉からして女という字が用いられて、元々差別的な言葉であって、男性は何も問われない……
今もまだその流れは断ち切られていない、そんな現状を痛感します……

先日99歳で亡くなられた瀬戸内寂聴さんは熱烈な恋愛をし、夫も子供も捨てた……バッシングは凄かった……
でも、これを男性に置き換えたらどうでしょう?
浮気ばかりを繰り返し、妻も子供も捨てて、家を出て行ってしまって、帰って来ない、行方不明……なんて事は、昔からよくあることではないですか?

寂聴さんは、周りを敵にし、叩(たた)かれ、辛く苦しい思いを一杯した……自分が選んだ道といえ、離れ離れになってしまった子供を思う気持ちはいかばかりだったか、離れているとなおさら、愛しさ、愛する気持ちは強くなる……胸が張り裂けそうな時も度々だったのではないか?と思わされます……
その耐え難い辛さが、痛みがあったから、だからこそ、愛する人を失った人の辛さ、孤独、人間の業とも言える苦しみを受け止め、寄り添う事ができたのだと思うのです……

6節の「火をもって溶かし、試す」も譬えであって……
金属を溶かし、不純物を取り除く様に試してみたが、内面は、内実は……
皆、金属の滓(かす)であって、悪は取り除けなかった、と6:27‐30にも語られていました……
その時は「金を試す者」……預言者がこの役目を負っていた、正に預言者エレミヤの役目、使命とされていたのですが、今度は「わたしは」と神自らが、民を見定めるのです……

「舌」の恐ろしさ

今日の所は言葉を語る「舌」という言葉が2、4、7節と3回も出て来ます、、、これはキーワードです……
(2節)「舌」が「真実ではなく偽りをもって」「悪から悪へと進み」、神を知ろうとしない……真実を望む神の示す方向とは真逆、逆方向へ進んでいってしまう……
(3節)隣人なのにことごとく中傷して歩く……
隣人を惑わし、まことを語らず偽りを語り、疲れるまで悪事を働く……欺きに欺きを重ね、神を知ることを拒む……
(7節)「舌は人を殺す矢」であって「欺いて語り」、「隣人に平和を約束しても、その心の中では、陥れようとたくらんでいる」……
辛辣な表現ばかりですが、ここでも人間の心の内側が問題とされています……「良心、真実はあるのか?」と……

ヨシヤ王の宗教改革が進むにつれ、律法重視が強化されて、神の言葉、神の律法なのに、活気とか、喜びではなくって、淀んだ、沈んだ様な重たい空気、息苦しさ、閉塞感が、実は増していったのではないでしょうか……
改革は進められ、地方聖所、地方の神殿をことごとく破壊し、エルサレム神殿に聖所を集中させ、一極集中、中央集権化を図った……
エルサレム神殿に権力がそして利害も集中し……ユダとエルサレムの階級、階層の、各階層の人々の間における権力と利害の対立が次第に顕在化して来た……

それまで周囲の国々の顔色を伺いながら、何とか生き残って来た小さな小国ユダ……
今日の所は、外敵の圧力もしょっ中……そんな中で、民は安心できない不安の中で、希望も持てない、暗雲が立ち込める中で、内部抗争、権力闘争、権力の争いが、陰湿な形で激化してくる過程、厳しい対立の様(さま)と読み取れるのです……

戦時下の日本も、陸軍と海軍が……海外から圧力を受け、制裁を受け、国民の暮らしがままならなくなって行く中で……国内事情、国益よりも、軍部内での愚かな権力争いが勝(まさ)ってしまった……軍部内の抗争、内部対立が戦争拡大に繋がった……
国民はいい迷惑どころか、否応なしに、無理やりに、そんな無益な権力闘争に、恐ろしい戦争に、国民総動員で巻き込こまれてしまった……そんな悲惨、悲劇の時代……
その戦時下の日本では、隣組、自営団、国防婦人会などの統制組織……
戦時下に相応しくない思想や行動をしていないか、見張られ、密告され、
「非国民!」と、石を投げられ、家の窓ガラスを割られたり、村八分にされたり……国賊として検挙され、拷問で命を落とした思想家も牧師いたのです……

3節に「人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない」とありますが、70年余年の前は、共産主義国の様に、正に「隣人を警戒せよ」の時代だったと思わされます……
申命記(13:7-19)には異教崇拝、異教の神々を信仰する者を密告、摘発……異教の神々を信仰、礼拝する者がいたら、兄弟など最も親しい間柄でも密告を勧め、総括させ、果ては「滅ぼし尽くせ」という恐ろしい記述があります……
「極度の宗教的熱心さは人間を非人間化してしまうのだ」という事実を、おぞましさを、如実に表している、と思うのです……

神の言葉とされる律法……その中身を、真意を、神の思いを、吟味せずに、ただ従おうと、それが信仰だと、そんな思い違いをしてしまうと、律法主義に陥って、独善的、全体主義的となり……恐怖政治にもなりえるのです……
中世の魔女狩りの悲劇を連想させます……

今、私たちの属する日本基督教団でも、教制拡大、信者を増やして行くことが伝道だと思い違いをしてしまい、強権化、硬直化してしまって、教憲・教規を絶対化したり、都合良く矮小化したりして、個人攻撃の制裁発議……
結局自分で自分の首を絞める様な事になってしまうのではないかと、暴走する宗教の恐ろしさを感じ、踏み台にされた人の回復は勿論、これ以上切捨てられない、いえ拾っていく教会にしていかなければ、と思わされています……

ヨシヤ王の改革はユダを再興する!と期待されたのに、弊害も目立って来た……そんな中、勇んで戦いに出たヨシヤ王……民は勝利を確信したかもしれません……そのヨシヤ王の戦死!の知らせは、どんなに衝撃で、人心に、民衆の心に、衝撃的なショック、ダメージを与えたでしょうか!?……

南北に分裂した後も対立していたイスラエルとユダ・……
イスラエル王国が先に滅亡した時も、自分たちユダが、ユダ王国が、ダビデ王朝の正当な後継者なのだから、「北が滅びるのはある意味当然だ!」と思ったかもしれません……
でも他人事ではないのです、「ざまあ見ろ!」ではないのです……

その正当な王が、原点回帰、神の言葉、掟を厳守、と改革を進めて来て、
神に喜ばれ、救われるはずが、敵のエジプトの王にあっけなく殺されてしまった……
「え?!何で?!聖霊が、神風が吹いて助けてくれるはずではなかったの?」
今までヤハウェ宗教を信じて来た民も、自分たちの神ヤハウェに対する信頼も、一気に崩れ落ち、同時に不安で一杯になってしまったのではないでしょうか?「この先一体、どうなってしまうのだろうか?」と……

後を継いだ次の王も、エジプトによってすぐに退位さえられ、エジプトの意のままに動く傀儡政権となってしまった……
エジプトへの貢ぎ物の捻出のため、税は上がり取り立ては厳しくなる一方、貧しいものは益々貧しく、追い詰められていく……人の事なんて知ったこっちゃない……
どんなに禁じようが、不安だからこそ自己保身に走り、天体占とか様々なものに頼り、ご利益がある豊穣の神バアルに熱狂し、大国、強国のエジプトなどの異教の神々を拝み寄り頼む……
「それは、いけない事だ!」と分かっていても、周りがみんなやっているんだから、「赤信号みんなで渡ればこわくない」的な、一種の群衆心理が働いた結果だったのではないでしょうか?

この一週間を振り返って……深刻な難民問題を突き付けられています……
紛争が増え、難民が増え続けてる悲惨な現状……亡くなる方も多く出ている現状……
ベルリンの壁は崩壊しましたが、残念ながら世界では壁が増えている……
神ヤハウェはそんな危うくされた、惨めにされた、捨てられた様な、弱く貧しくされた民、その様な人々に、心を寄せる神であり、痛む神なのです……
そのことを理解せず、分かろうとせず、北から逃れて来た難民となった同胞の事なんて、軽蔑はしても隣人として「助ける余裕なんてない!」「自分たちも危ないんだから、、、」と、ユダの民は思ったかもしれません……

大多数の民は、危機の時だからこそ、甘い甘言で人心を安心させようとする偽の預言者の安易なその言葉を信じ込んでしまう……
だから偽予言者が横行して、「安全、安心」と言われる方になびいてしまう……
残念ながら群衆心理の様なものが働いて、冷静な分析や判断がもはやできず、安易な方を選んでしまう、信じてしまう……「舌」で欺かれてしまう……

このコロナ禍で、ごく一般的な暮らしができていた人たちも仕事が急に減ったり、なくなってしまった……支援の一時金の借り入れをしても生活ができない状況に陥ってしまっています……更にガソリンの高騰が追い打ちをかける……
そんな中で詐欺は益々巧妙になり、男性の声を女性の声に変換して優しい言葉で誘惑、誘導する……母娘で同じ被害に合ってしまい、更に友人たちも巻き込んでしまったという、そんな何とも言えない事例も出ていると聞きました……

涙で崩れおる神

前回の8:18-23……私は「わが民」という言葉から、エレミヤでなく神自身が「わが民の破滅のゆえに」、「打ち砕かれ、嘆き、恐れに襲われ」たと……
「民の傷がいえない」ことに、神が「倒れた者のために」「夜も昼も泣こう」と……涙で崩れおる神の姿がそこにありました……

改めて、今日の最初の1節を見てみたいと思います……
「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら わたしはこの民を捨て 彼らを離れ去るであろう」……これは内容的にもすぐ前の節に続いていると思うのです……
「民を捨てるわたし」とは誰をさすのでしょうか?
「この民」と訳されているこの言葉は、私が見た限りですが、他の聖書訳では「この民」ではなく「わが民」です……
この前の口語訳聖書は「この」も「わが」の表現もなく、ただ「民」となっていますが……でもその口語訳では、9章のすぐ前の3行からが9章となっていて、この箇所と間を置かず繋げていて、一つながりと考えていることが分かります……
新しい聖書では「わが民」となっています……
原文、原語を見ていないので、断定はできませんが、この新共同訳聖書は意訳をしたのではないかと想像できます……それはなぜか……それは、たぶんこの1節の3行の言葉をエレミヤの言葉としたかったからではないでしょうか?それともこれは私のただの勘繰りでしょうか?、、、

「わが民を捨て」ならば、前回同様、私はこれを神の言葉と考えます……
だとしたら……本当に神は、愛する自分の民を捨て、離れ去れるのでしょうか?……
「いいえ、違う!」と、私は断言したい……
「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら」……これは、見いだせないことが前提で語られているのではないでしょうか……

神は自分を捨てた民、だから自分もユダを捨てたいし、離れ去りたいし……なんて、当然の様に思われるかもしれませんが、これも本心ではありません……そんなことはありません……
放蕩息子の様に、どうしようもないわが子だからこそ、「愛しくて手放せない、捨てることなんてできない!」と神の心の声は言っていると思うのです……でなかったらこんなに色々、長々、ずっと、語りかけるはずはないのです……愛しているからこそ、苦言を言い続けるのです……皮肉も言います……けなしもします……罵倒もします……烈火のごとく怒りもします……でも……

イエスが描く神は、裁きではなく悪人を許す神、許しの神です……
私たちの信仰の祖先、元祖は、神の命令を破って楽園を追われた最初の男と女です……
ヤコブも信仰の先祖です……親まで騙す不埒(ふらち)者、双子の兄を捨てたのです……後に自ら進んで和解しますけれど……
そして神をも捨てたユダの民なのです……

ここに集う皆さんは、私を含め、「見捨てられた」、とか、「捨てられた」という経験、そんな辛い思いをした方ばかりではないでしょうか……
でも私たちの信仰の祖先も最初から神を裏切り、血縁を捨てたり、神をも裏切って来た……
私たちはその信仰の末裔です……
私たちは過ちを犯し、「捨てる者」でもあるのです……
たとえそれが、歩んできた道が、間違いばかりの人生だったとしても……
放蕩息子の譬えの様に、神は戻って来ることを首を長くして待っていてくれる、そして戻った息子を、子供を、我が子を本当に心から喜んでくれる、「よく帰って来てくれた」と抱きしめてくれる……
神への帰還、方向転換の前に、大いなる許しがある、既に許されているのです……
たとえ心の中が金滓だろうが、悪だろうが……
だから「あなたは正しい」とか「あなたが悪い」という台詞(せりふ)は、「意味を持たない」、「意味がない!」と私は思うのです……

全能の神とか、歴史に介入する神とか言われますが、本当にそうでしょうか?
「神はある、神はあるというものだ」という創世記の神の自己表現の言葉を思います……
そでの神の自己表示は、存在であって、行動は言われていない……

エデンの園を追放された事、それは捨てられたという事であると同時に、ある意味、自由にされたのではないでしょうか?……
「自由にしていいんだよ……」「自分で考え行動しなさい」、でも「自由にされた者として責任があるのだよ!」と……

今、若者たちが必死になって訴えている環境問題、環境破壊……それは人間が自由を履き違え、利益追求に走り、好き勝手にやって来た事が、跳ね返って来ているのだと思います……人間だけでなく、弱い立場の動物たちをも、死に追いやってきました……
神は「2度と他の生き物を巻き込むことはしない」と誓ったのですから……
神自身は介入しない、巻き添えにはしない、「巻き込むのは人間なのだ」と……
戦争も悲惨な日常も、神は介入はしません……
起こしているのも、酷くするのも人間なのです……「この私たち人間の責任なのだ!」と改めて様々な事象が思い起こされます……

でも……人には聖霊の風は吹くことがある、命の息、息吹も神から吹きかけられる、と思っています……矛盾しているかもしれませんが……
背中を押されたり、逆に止められたり、命の息吹を感じたり、は、もしかしたら、聖霊の働きかもしれないと……

旧約の民は、自分たちの悪のために滅ぼされた、でもそれは自業自得なのだ、と考えました……
でも、前回と今回のエレミヤの描く神はかなり違います……
自ら滅びに向かう民を、愛(いと)おしみ、嘆き、泣く神、なのです……

きっと極寒の中、お腹の赤ちゃんまで亡くなる悲惨な事態に、神は痛み、涙にくれている……
遠く離れて力ない私たちですが、政治に利用され、失わされた命と、まだ残された難民の人々に対して、祈りを合わせる事はできます……祈りは力になると信じて、祈りたいと思います……
それはきっと私たちの内面の壁をも取り去って、神から許された者として、共に生きる事が許され、一緒に、生かされいる者として、歩むことを支えてくれる!と信じます……
あなたの、この私の、ただ中に神がおられて、あなたと私の間に介入して来られる神を、霊の息吹を、感じられ、そして他者と繋がる様に導いて下さると信じて、イエス・キリストの降誕を待ち望みたいと思います……

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