2021年11月21日 礼拝「パウロの説教」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「パウロの説教」
・聖書箇所:使徒言行録 13章26節~42節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

牧師泣かせの説教

まず私たちは神様の招きに応じるという大義名分をもって、牧師という仕事を任されているわけですが、この説教者を泣かせるもの、いやになってしまうもの、やめたくなるという衝動に駆られることも、たびたびあるものです。

他の方たちは誇りと自信をもって信仰をもって語られているのだろうと思うのですが、私はしょっちゅうそういった匙を投げたくなる衝動に駆られることがあります。

この取り上げている使徒言行録、イエスの弟子たちの働きを記録した、そしてルカのキリスト理解を加えて編集された一つの本として使徒言行録というものがあるわけですけれども、必ずしも歴史的に一日一時間のずれもない正確なものではないらしいということを学者たちが言っているのを聞くと、ますますこれを解き明かそうとすると、自分の中で混乱を起こし、合わなくなってしまうのです。

昔、私たちが子供だった頃、夏休みになると夏休み帳という薄っぺらい帳面みたいなものを渡されて、何月何日晴、などといった天気予報を書き、今日は何をやったかといった宿題みたいなものを書くのですが、書き忘れてしまうのです。

そうすると3、4日たってみると前の日の天気がどうだったかとか、といったことがわからなくなっているわけですから、いい加減なことを書くわけです。

そして夏休みが終わって学校に持っていくと先生から時々言われるわけです。「お前の天気予報、違っているぞ」と。そのたびに減点されたりしたものです。

なるべく正確にとは思ってはいるものの、使徒言行録もルカにとっては必ずしも正確ではないものなのです。

ですからこれを解き明かす先生方は本当にご苦労らしく、だいたいの先生たちは使徒言行録は説教では取り上げたくない、いやになってやめたという方もいらっしゃるようです。

特に先ほど読んでいただいた使徒言行録13章あたりからは難しいです。

難しいというよりも、よくわからなくなっていくというか、何をここから導き出して説教の言葉にしていくかということが難しくなってくるようです。

それを前提に匙を投げるわけにもいきませんので、それなりに解釈してお話ししたいと思っているわけです。

先ほど読んでいただいた使徒言行録13章の26節以下では、ちょっと気がついたこととして、兄弟たち、というのはパウロがバルナバと一緒に異邦人伝道をするわけです。

エルサレムを中心としたユダヤ教の圏内から出て、圏外へと出て、伝道を始めるわけです。そのパウロにとって第1回目の伝道旅行で、あるユダヤ教の教会を借りて礼拝をするわけですが、教会の方から何か来ている人に励ましの言葉をしてくださいませんかと言われて、パウロは先頭に立ってお話をするわけです。

これもよくよく考えてみると模範説教なわけです。

これはその前の13節ではイスラエル民族としての完成されたダビデという、神に選ばれた、神に忠実な王様ががあって、それのさらに完成者としてのイエスの誕生というのが、13節から25節まで書いてあるわけです。これはつまり王国、王権のわけです。

神に選ばれ、完成した王国の支配者としてイエス・キリストというのがダビデから末裔として生まれるんだという言い方をしているわけです。

ここでは王国です。イスラエル民族という一つの国づくりとしての完成が描かれているのです。ところが26節以下になるとがらりと変わるのです。

アブラハムが出てくるのです。

アブラハムと言えばユダヤの信仰の祖として王国ではなく、アブラハムという個人となり、一人一人の個人の在り方がこの26節からは語られるのです

そして今度は王国という一つの権威と権力をもった一つの支配者としてのイエスではなくて、今度はこのアブラハムというユダヤ民族の信仰の元祖と言っていいアブラハム物語が始まってくる、つまり個人となるのです。

一人一人のありようをパウロは話をするわけです。

ところが話の中でイエス・キリストによって完成させられたはずの王国が、支配する人によって、その完成者であるイエスを拒否して、堕落していった。

最後にイエスを磔にして殺してしまったのだよ、というわけです。

そこでパウロはこういうのです。

これは私たちもついつい読み過ごしてしまうところなのですが、何度も読んではっと思わされた箇所があるのです。

ダビデという人が亡くなるわけですが、そのあとダビデ王国を継承していった人が罪を犯して、完成者であるイエス・キリストまで拒絶して殺してしまったということが書いてあるわけですが、ここにこういうことが書いてあるのです。

37節以下、「しかし神が……」

これはダビデは死んでしまったけれど、イエスは決して朽ち果てることはなかった、「だから兄弟たち、知っていただきたい」とあるのです。

これだけは忘れないでください、といって語っている。

「この方による罪の……」イエスを殺した人たちをも含め、イスラエルが滅亡していくわけです。それは罪の結果としての滅亡というように語られているのです。

その罪はこの方によって赦しが告げ知らされた。

「あなた方が……義とされていなかった」といっています。

律法ではあなたたちは救われず、赦されなかったのだと、律法を守って何かを得ようとしてもそれは無駄だったのだと。

「信じる者はみな、この方によって義とされるのです。」

私たちは平気で読み過ごしている部分があるかとは思いますが、信仰によって救われるというのは旧約の話です。ところが、パウロはその信仰もこの方によって、赦しも救いもないんだという新しいパウロの発想だけは知っていてほしいというのです。

「この方」によってでしか義とされないもの

そうしないと信仰というものによってのみ正しいとされるという誤解が、イエスが十字架にかかって死なれてから千何百年もたった宗教改革時代までずっと続いてきました。

信仰さえあればいい。

だから病気にしても何にして、何もかもが信仰が条件となっていました。

信仰がどうだといってなじられ、信仰することによって救いも喜びもなにも無くなり、いやになってしまうというようなこともあるわけです。

これは私たちが聖書を読んでいても思うのです。

もう嫌になってしまいます。

そして自分の信仰は何だったのか、これでよかったのか。

なんか教会においでになる皆さんんに後ろめたさを感じてしまうのです。

信仰の弱さや不確かさなどに苦しむのです。

それが神の言葉である以上は文字の一つひとつの中に意味を持っているということを私たちは考えなければなりません。

牧師になったからには神学校で何年間か勉強して、原文であるギリシャ語などを勉強してやるわけですが、しかしそれに捕らわれて文面の解釈がおろそかになってしまうということもあるのです。

それはそれで大事なのでしょうが、その言葉一つ一つに語られたものの人格があるのだということを学び取らないと、説教もおざなりになるといいましょうか。

パウロも13節からずっと模範解答でもあるのですが、例えば神学校を卒業して説教を頼まれると、完璧な教科書的な模範説教をするのです。

ところが模範解答をした自分と、模範解答として取り上げられたもの、人に隔てを感じるのです。

自分でうまいこと言ったと自己満足してしまうと、信仰もイエスという方を通してというところが抜けてしまい、自分の信仰の優越性というものに自分がうぬぼれ、はまり込んでしまうということが、もっとも牧師にとって誘惑だと思うことだと思うのです。

その語られる言葉の中に、イエスというものが介在していることがついつい忘れてしまい、自分の信仰ぶりに熱が入ってしまい、自分が素晴らしい説教をしたと思い込んでしまう経験が、どなたでも思う経験だと思うのです。

パウロの説教は13節以下で、1冊のキリスト教神学書が出来上がるほどの内容をもったパウロの説教なのです。

いろいろ批判があるわけですが、ダビデという神に選びたてられた王様は、神は自分の意に沿った選びの王様であったわけです。

だからイスラエルの人にとっては名誉であり誇りでもあったのです。

しかし、そのことによってイスラエルの人たちはおごり高ぶってその王国を滅ぼされてしまうような道を行ってしまった、ということです。

それがバビロン捕囚という、決定的な滅びの現実に遭遇するわけです。

そしてずっと先、イエスという人が生まれるのですが、イスラエルの人たちは受け入れなかったといっているわけです。

そして自分たちはモーセの律法を守ればいいんだと思ったのです。

ここにも守れる人と守れない人、あるいは守るのが楽なものと守り切れないことが律法の中にあり、守れない人、守りたくない人もいるわけです。

ですから律法によって決して人間は義とされることはないんだということをパウロは言っているわけです。私たちは信仰の行為によって救われたりなどと自分の側に引き寄せて髪をとらえようとしているという間違いに気づかないのです。

やはり信仰という大義名分的なものがいつでも条件化されてくるのです。

今日はHさんの記念礼拝として礼拝をお捧げしているわけですが、Hさんのお父さんはクリスチャンの方でした。

ところがお母様が若くして亡くなられて、お父様が二度目の結婚をなさるわけです。

その相手があるお寺さんのお師匠さんのお嬢さんで、すでに二人のお子さんがいらっしゃる方と結婚されるわけです。

そうすると今度はHさんのおうちにはお子様がいられないということで、家から離れて行ってしまう、それぞれの道を歩むようになります。

Hさんは途中で様々な悪の手に導かれ、若くして視力を失ってしまいます。

そこに一人の農家の男性が現れ、結婚されました。結構大きな農家だったようですが、Hさんは教会に通うようになります。

信仰が与えられれば自分の視力も回復されるのではないかと思い込んでおられたようです。

しかし思い通りにはなりません。

その時、ある教会であなたの信仰が足りない、私欲を捨てよといわれてしまったようです。

あとで私のところにいろんな書物を送ってくださいましたが、一冊何万円もするような聖書辞典やハングルの聖書などが入っていたのです。

普通の人ですら読み切れないのに、視力のない人が読み切れるはずがありません。

結局ご主人からはだいぶ叱られたようですが、なかなか離れられなかったようです。

自分の信仰の足りなさはみんなが認めます。ましてや障害を持っていたりすると、信仰にしがみつかざるを得ません。

宗教は人の不安を狙う、付けこむ宗教の悪質性もあります。

しかし、私は誤解だと思っています。

先ほどの言う通りこれだけは知っておいてほしい、イエス・キリストによる、キリストがすべてなんだ、ということを教会は本当に語っていたのだろうか、我々も分かりきっったこととして無視するようなことを教会でもやってきたのではないかというのを私はとても思いました。

たまたまHさんの追悼記念に出会って考えさせられました。

義とされるものを大切にした説教

この方によらなければ信仰は意味を持たないんだといっているわけです。

あなたの信仰が意味を持っているのではなく、イエス・キリストによらなければ何の意味も力もないんだということをパウロははっきりと模範説教の中で語っている。

それだけは分かってほしい、ということがパウロの説教でした。

そうでないと信仰というものが自分の誇りになってみたり、相手を裁く力になってみたりすることになってしまいます。

これらは信仰ではありません。

信仰は一つの行為を生み出すわけですが、これも宗教改革の時代にカトリックが免罪符を発行を通して、信仰を試したということです。

信仰が深ければ、地獄なのか天国なのかは免罪符を買えばいいんだということを損得勘定のようになされたことではなく、すべてのものはイエス・キリストによらない限りその信仰はむなしいんだというルターの言葉が、必ずしも私たちの説教の中に生かされているとは思えないということを、パウロの説教を通じて目覚めさせられた思いで読んだということが、私の思ったことです。

私たちは決して信仰を武器にしたり、誇りにしたりすることではなく、誇りはイエス・キリストです。

その中でどこまで私たちはイエス・キリストを正確に知っているか、知らされているかがパウロの説教を通じて語られているということを、私たちはもう一度、心を改めて学び取りたいし、そのことを気づかずにHさんのような若い人がこの世の生を途中でやめなければならないような状況に追いやってしまったのではないかという反省を込めて、この方によって、この方を力にして、私たちはそれをあずかって歩むことが、本当の信仰者であるということが、パウロから学び取れることだと思います。

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