・タイトル:「中風の人をいやす」
・聖書箇所:マタイによる福音書 9章1節~8節
・担任教師:北口沙弥香 教師
赦しと癒しの物語
本日からマタイによる福音書は9節に入ります。本日はひとりの人を罪の赦しの宣言を聞いていた律法学者がこの男は神を冒涜していると思い、それを心の中で思っているということを見抜かれたイエスは、あなたの罪は赦されたというのと押して歩けというのとではどちらがやさしいかということを問われ、体がマヒしてここにいなければならない人をその権能によって起こし、人に罪の赦しの権能を与えられていることをお示しになった物語を読んでいきたいと思います。
この物語はマルコ福音書の2章1節から12節、ルカ福音書の5章17節から26節に同様の物語が残されています。
共観福音書3つに残されている物語はマルコ福音書がもとになっており、それをマタイ福音書の文脈に、ルカ福音書の文脈に当てはめてそれぞれふさわしく書き換えたといって差し支えないという風に私は認識しています。
特に今回、マタイ福音書においては書き換えが顕著であろうと思います。
マルコ福音書においてこの中風の人は床に寝かされ、友人とともにイエスのところに癒しを求めてくるわけですけれども、その癒しを求めるためにその中風の人ないし友人は何をするかというと、屋根まではがしてそこから病人を釣り下げてイエスのもとに向かわせるということをするわけです。
マルコ福音書の物語においてはそのようなイエスに向かう真剣さ、信仰の強さというものを称賛する向きの物語になっているのに対し、マタイ福音書はそのような屋根をはがしてイエスのもとに向かわせるという描写をまるまんま消してしまって、イエスの権能というものと、イエスの議論に集中させています。
本文に戻りたいと思います。
イエスはこの中風の人に元気を出しなさい、あなたの罪は赦されるといいました。
病気と罪というものを現代においては因果関係のないもの、結び付けてはならないものという風に、もちろん倫理的には思いますが、この時代、病というもの、とくに大変な、重篤な病というものは本人や家族の結果だと考えられていました。
そのことがよくわかるのが、ヨハネ福音書9章1節からの、生まれつき目の見えない人がイエスによって目を見開かされるというあたりの行動です。
大変失礼な物語だと思うのですが、弟子たちは生まれつき目の見えない人を見かけて、あの人が目が見えないのは、この人が罪を犯したからでしょうか、家族が罪を犯したからでしょうか、というようなことを言います。
その言葉を受けてイエスは、本人のせいでもなく、家族のせいでもなく、神のわざがこの人に現れるためだと宣言されて、生まれつき目の見えない人の目を開ける、という奇跡を起こされます。
この物語で何を言いたいかというと、当時の通念として罪というものと病というものの関係を端的に表しているところがあると思います。
罪というもの、また重篤な病や傷害などは罪の結果だというようにどうしても結び付けられて考えられていた。
病というものはもしかしたら天罰に近いものだったのではないかというように、ほとんど多くの人がイエスを含めてそのように信じていたのではないかということがよくわかる言葉だと思います。(19:46)
そのなかで中風で寝ている人を、自分が身体がマヒして動かない人は自分が罪を犯したからかもしれないというそのような気持ちになっていたかもしれないということは想像に難くありません。
ですから、罪という者の罪責感、罪悪感にとらわれている人に対して、あなたの罪は赦されるというこのイエスのよびかけ、宣言はこの中風の人に対する思いやりを感じさせる言葉であります。
それに対して律法学者たちはこの男は神を冒涜していると、心の中で思っています。
冒涜しているとはどういうことなのかということです。
律法学者はイエスは神ではないのに安易に罪の赦しを口にしたことを冒涜だととらえました。
神に対する越権行為だという風に思ったのでした。
赦しは神の特権だという風に考えられていました。
また、赦しというものを得るためには、祈りというものや、犠牲、神殿に捧げものをしなければならないということをしなければならないというように考えていました。
イエスはそのようにはお考えにはなっていなかったのです。
そのような手続きなしで人間は罪から解放されるのだ、自由であるのだということを、そのご生涯を通じて宣言されていた方であると、この物語からも読むことができます。
また、心の中で悪いことを考えているのかとお怒りになったイエスは、このような問いをたてます。
あなたの罪は赦されるというのと、起きて歩けというのとどちらがやさしいか。
そのようにおっしゃるわけです。
罪の赦しということ、また、中風の人が起き上がる、回復するということのどちらがたやすいのかというわけです。
これは修辞疑問で、後半にある、「起きろ」という方が難しいのだという結論を暗示させています。
また、中風の人が起きることができるのだとしたら、罪の赦しという者も自動的に実現されるという考え方もできます。
イエスの言うことは罪の赦しという者を当然に含んでいるのだということです。
どちらがよりやさしいか
確かに、本当に罪が許されるのかということはともかく、口先だけであなたの罪は赦されたというふうに口にするのと、本当に重篤な障害があって、それがあたかも健常者のように元通りの生活ができるようになることのどちらがやさしいかと言われたら、確かに罪の赦しを口にするほうがやさしいに決まっているというのは、その通りだと思うわけです。そのようにおっしゃって、イエスは中風の人に床を片付けて家に帰りなさいと言われました。するとその人は起き上がって家に帰っていったのです。
群衆はそれを見て恐ろしくなって、人間にこれほどの権利をゆだねられた神を賛美したということを言って、この物語は閉じます。
8章では嵐を沈め、悪霊を追い出した力をイエスはお持ちなのだということを、9章からはその権威、権能が癒しの実現という形で表れてくる、そのような物語が続きます。
この物語が何を差しているのかというと、大事なところはたくさんあると思います。
マタイ福音書においてはどうだったのかというように思うのです。
先ほども述べた通り、イエスを求めてきた中風の人の信仰、また、その友人たちの信仰を称賛する物語から、イエスの権能というものを立証しようとする論争の物語に書き換えたきらいがあります。
そして結論として、人間にこれほどの権利をゆだねられた神を賛美した、つまり人間にも人の子であるイエスと同じ権能が与えられている罪を赦す権利をイエスからゆだねられている、神からゆだねられている、そのようなことを書きたい物語だといいたいがための物語であるという風に読むことができます。
マタイ福音書においては人間にというのは自分たちの直近の仲間であるマタイ教団の人間にこのような権能が与えられている、自分たちの教会にこそこのような権能が与えられているという風に考えていたのでしょう。
確かに、言いようによっては罪の赦しという者が複雑なプロセスがなかったとしても、またそのことが必要なしに人間が心から信じることによって与えられるのであれば、私たちは自分たちの罪を赦しあって、出来るだけ前向きに心をとらわれることなく生きていくことが許されているという風にも読めます。
もしかしたらそうなのかもしれません。
でも一方、私たちには罪の赦しの宣言はできても、断罪することは許されていないかもしれないというふうにも、私は読めます。
励ましあいのみ言葉
人間には罪というものがある。
罪ある人間のありようを認めて受け入れることを私たちは神から与えられている権能としてなすべきだという風にも読むことができるのではないかと思うのです。
罪ある人間の現実を断罪することなく、受け入れ、そこから赦しを宣言しあって歩いていこう、そんな教会を作っていこうという話にもできるのではないかという風に思うのです。
神の専売特許であると思われていた私たちのうちにある私たちの共同体にある、それはもしかしたら本当に見て恐ろしくなったという通り、恐るべきことなのかもしれませんけれども、私たちはできるだけ、自分の中のつらいものに脅かされて生きるのではなく、むしろそこから自由になって生きていくことを赦されているというふうに読めるのではないか。そのように思います。
病ということ、罪ということを考えてみたいと思います。
罪というのは本当に皆さんもご存じの通り、「的外れ」ということであります。
神から見た「的外れ」、神が望んでいないことはもしかしてすべて罪かもしれない。
でも。何が神が望まれているか人間にはもしかしたら感知できないのかもしれません。
ですから人間の解釈でこれは神が望んでいないかもしれないということはどんどん罪にされていきます。
本当に、いまこの基準を持ち出すべきでは、現代に持ち出すのはだいぶ問題がありますけれども、正常と異常というものをまだまだ私たちは分けがちであって、正常であることが、正しいことが、強いことが神に喜ばれることであって、弱いこと、正常でないこと、病があること、障害があることなどは神に喜ばれないことかもしれないと思って、喜ばれないことを勝手に、人間のほうが罪だといっているのかもしれないというようなことを想います。
健康と罪と赦し
現代においても病ということ一つを考えても、病が一つの病気が起こる過程において人間の責任というものがどれほどあるのかということを、やはり思うわけです。
風邪にしても、予防のために手洗いをし、うがいをしていても本当に感染するときは感染し、発症するときには発症するのです。
それをあなたが気を付けていないから風邪をひいたのだということを、どれだけの人が言うことが許される立場にあるかということです。
そのように言える人はほとんどいない、また言うべきでないのではないかと思います。
例えば、このごろ生活習慣病と言い換えられるようになった糖尿病などもそうです。
元々大人になったらなってしまう病気なんだというニュアンスを持つ成人病から生活習慣病に名前が変わったということで、生活習慣を正していけばならない病気なんだというふうに、もしかしたら刷り込まれているのではないかと思うのです。
糖尿病というものももちろん、膵臓のインシュリンが正常に働かなくなってしまって、血糖値が上がってしまって、血管がボロボロになり、重篤な障害が残る可能性があるという病でありますけれども、現代では貧乏人ほど太ってしまうということが起こっています。
というのは、血糖値を上げがちな炭水化物が手に入りやすく、野菜や果物や魚という者は貧乏人からしてみたら高上りになってしまって、栄養管理がうまくできないということが起こってしまいます。
腹を満たすためには安くてお腹の膨れるものをどうしても食べてしまいがちになり、本当に食事という者にお金を掛けなられないひとのほうがどうしても体重が増えてしまい、糖尿病の発症する確率が上がってしまうということが起こってしまうわけです。
貧乏人ほど太って、――太っていることが裕福な証拠とは言えなくなっている――ことが、現代では起こっています。その太っていることを、糖尿病になってしまうということを果たしてそれは個人の責任なのでしょうか。生活習慣病という言葉に騙されてはいないか。
生活習慣をもしかしたら気を付けることができるということは、特権になりつつあるというのではないかということを想うのです。
やたら正常というものにとらわれて、正常でないものを以上であるとか、罪であるとかということをもちろん安易には言えないし、人間はもし正常でない、健康でない状態を罪だとしたら、人間にはそれを受け入れ、生きていくことしかできないのではないかと思うのです。
あなたの罪は赦されたといわれたこと、人間にこれほどの権利がゆだねられているということは、人間の現実を受け入れ、その中でできるだけその人に罪悪感という苦しみを与えず、また持たず生きていくための知恵なのかもしれないという風に私は思います。
神の赦しを受けて生きること
本当に神が赦さない罪も、赦したくない罪もあるかもしれない。
一方で人間が勝手に罪だと思っているものもあるかもしれない。
また、その罪という感情にとらわれてしまって身動きが取れないこともあるかもしれない。
また、その身動きの取れなくなってしまっていることに対して、人に対して罪を赦しあう権能が神から、そしてイエスから与えられていること、それは私たちが生きていくために必要な恵みだということを、そのように覚えてこのことを考えたいのです。
もちろん、赦していいこと、いけないことも当然あると思います。
弱い者いじめというものを、私たちは許容できるのか。
この世において弱い者いじめとしか言えないような格差の現実があり、それをあなたの罪が赦されたというのは適切ではないと思います。
しかし、一方でその格差の中で生きるなかで、割を食っている方がこの結果が、状況が自分のせいかもしれないと苦しんでいることもあるかもしれません。
そちらにはあなたの罪は赦されている、むしろあなたには罪はないのだというふうに、私たちは言わなければならない。
そのようにも思います。
イエスが罪を赦されたということ、私たちが生きていくことが、罪が許されていることを感謝して、私たちが生きていく中で仕方がないということを私たちが受け入れあい、赦しあい、互いに励ましあいながらこれからの時を過ごしていきたい。
そのように思う者であります。
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