コラム「捨てられた主と共にある、捨てられた者のための教会」(北口沙弥香教師)

コラム
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日本盲人キリスト教伝道協議会 雑誌「信仰」2021年9月号 巻頭言  
「捨てられた主と共にある、捨てられた者のための教会」

日本キリスト教団  藤沢ベテル伝道所 担任教師  北口 沙弥香

「イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」マタイによる福音書21章42節

 藤沢にある小さな伝道所からご挨拶を申し上げます。

 日本キリスト教団藤沢ベテル伝道所は、1986年に献堂された神奈川県藤沢市善行にある教会です。主任飯塚光喜が当地に移り住んだのちに始めた「家庭集会」が発展し、教会形成をすることになりました。9月に献堂35周年を迎えます。

 私が今更申し上げることではありませんが、主任飯塚光喜は全盲の牧師です。若い時分に医薬品工場で勤務している際にドラム缶いっぱいの水酸化ナトリウムを被り、その結果失明したと聞いています。戦後すぐの、まだまだ人権意識も配慮も確立されているとは言いがたい時代に「見えていた者が見えなくなる」ということは筆舌に尽くし難い苦労をせざるを得なかったことでしょう。その後の人生は「捨てられた者」の自覚のもとでの歩み、信仰生活と言って差し支えないでしょう。

その捨てられた者としての自覚のもと歩む牧師は、その自認のもと聖書を読み、地道に教会形成をしていくことになりました。その結果、捨てられた実存者である牧師のもとに「捨てられた者」が集められることになりました。社会の中、そして教会の中で捨てられる体験をした人が、文字通り全国から与えられることになるのでした。

このように申し上げる私もまた「捨てられた者」でありました。私は生まれは北海道の北見市で、大学に入学するために19歳で札幌に出ました。大学受験に失敗したという失意から始まった大学生活でしたが、たまたま履修した一般教養科目の担当教員から多大な親切を受けたことをきっかけに教会に導かれました。日本キリスト教団真駒内教会です。

 救いを求めた私の内因的要因は、高校入学直前に両親が離婚し、自己肯定感が崩壊したことです。また、自身の性自認にも悩んでおりました。思い返せばその頃から心を病んでいたのだろうと思います。

  その後、大学4年生の2006年のイースター礼拝で洗礼の恵みにあずかり、2007年3月大学を卒業し、一般企業に就職いたしました。しかし、自己肯定感を涵養できなかった私は社会人生活に耐えられず3ヶ月で退職しました。それから数ヶ月に一度職を変えるような生活をしており、「やりたいことをやらなければ人間は刷新されない」と神学校入学を決意したのでした。2011年、日本キリスト教団の認可神学校のひとつである農村伝道神学校しました。

 2015年に卒業し最初の教会に担任教師として置いていただけることになりました。生活できるほどの謝儀もなかったため友人の紹介で  「重度訪問介護」という福祉サービスを利用する重度身体障害者のヘルパーをしながら教職をするという生活が始まりました。しかし、  2017年度をもってその教会を辞任することになります。辞めたあとはしばらく無任所教師でいいと思っていた矢先、属している教区の委員会でそのことを申し上げたところ「うちは籍だけで謝儀は出せないけれど」という条件で藤沢ベテル伝道所担任教師として置いていただけることになりました。

こうして、現住陪餐会員10名未満、教職3名、その教職の年齢構成はまさしく「祖父、娘、孫」の三世代の不思議な教会が誕生することになりました。

 私が着任してから不思議なことに「孫が友達を連れてくる」ようなことが起こるようになりました。というのも、平素から私はインターネットの世界で細々と発信をしております。「FtXパンセクシャルの性的少数者です」「精神科のお世話になっています」「失恋してもう生きていたくありません」等の自分の弱さを正直に晒すような投稿を繰り返していました。ネガティブな投稿も少なくなく「牧師のくせに」と批判されることも少なくありませんが、そのような正直な投稿を続けていると興味を持ってくださる方が与えられ、当教会に来てくださるということも起こってきます。

 私に関心を持ってくださる方はこの社会の中で生きにくさを感じておられる方です。まさしく「捨てられた者」と言って差し支えない人たちです。捨てられた自覚のある者が捨てられた者を迎え入れるのです。捨てられた者同士が出会う時、自分の捨てられた体験、苦労の体験を語り合い、受け入れ合うということがその中で起こってきます。「ここでは自由にものが言える」というふうに言っていただけることも増えました。

 つい最近、当教会に転入した姉妹から「3人とも『教会を守るため』の説教をしないからいい」という趣旨のことを言われました。そのことを私は本当に嬉しく思います。まさしくそれが、当教会のあり方を象徴しているからです。説教の良し悪し、技量はともかく私たちがこだわるのは「聖書」に対してです。聖書にどのようなことが書かれていて、何が問題にされているのか、聖書本文が当時の人はどのようにそのことを受け取ったのか、そしてその事柄を現代に生きる私たちがどのように考えるべきか、です。教会の規模が大きくなることは素晴らしいことですが、ともするとそれにより「教会を都合よくまとめあげるため」「会衆を喜ばせるため」の説教になってしまいがちではないでしょうか。それは聖書を読んだことになるでしょうか?聖書から聴いて、応答することになるでしょうか?

 藤沢ベテル伝道所は終わりの時まで「捨てられた主と共にある、捨てられた者のための教会」であり続けます。しかし、本当はこの地上にあるすべての教会が「捨てられた者のための教会」であるべきです。すべての教会が真の意味で神の栄光をあらわす器となり、この社会の中で隣人に奉仕するものとなるよう切に祈ります。

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