2021年10月31日 礼拝「真(まこと)の神を求めよ」(河口陽子伝道師)

礼拝説教
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・タイトル:「真(まこと)の神を求めよ」
・聖書箇所:エレミヤ書 8章13節~23節
・担任教師:河口陽子 伝道師

迫り来るバビロニア帝国来襲の預言

「ダンから敵の軍馬」、荒馬が首を振りながらの「ぶるっブルブル」と、前足を高く上げのけ反り「ヒヒヒヒヒヒーン」と、甲(かん)高い「いななき」で、「全地が震える」、全ての大地が震撼させられる……
荒馬の足で撒き上がる土煙の中、邁進する巨大な大軍、その地響き、地鳴り様な震撼が、恐ろしさが伝わって来る様です……
その軍馬の大軍の怒涛のごとき進撃、北の強国バビロニア帝国が猛烈な勢いで攻め上って来る、そんな恐怖を覚える。
本当にエルサレムの「都とそこに住む者を食い尽くす」勢いです……

「ダン」はイスラエルの最北端の町、日本で言ったら北海道の稚内に当たるでしょうか?
北からの敵に最初に晒される町、として4:15でも「聞け、災いをダンから告げ」とありました……
「ダン」は、列王記12章の記述によると、「ダン」で金の子牛像が祀られた事から、「異端、異教の祭儀の町の代名詞」、とされる程なので、「裁きの最初の対象となる」との意味合いもあるかもしれません……

「お前たちの中に蛇や蝮を送る」の蛇も蝮も複数形です。
蝮は新しい聖書協会共同訳では「コブラ」と訳されています……両頬が膨らんだ毒性も強い大型の毒蛇……
一方で私なんかは、頭にターバンを巻いた蛇遣いが縦笛を吹くと、コブラが籠や壺から頭を出してくるというイメージも湧いて来て、猛毒のコブラでも蛇遣いによって操られるだ、というそんな感覚にもなります……
でもこれは、バビロニア帝国の大軍を複数の沢山の「蛇や蝮」または「コブラ」に譬えて、
「わたしが」と語るイスラエルの神ヤハウェイが、エルサレムの民に、お前たちにとって唯一の神であるこの「わたしが」「お前たちの中に蛇や蝮を送る」んだ!
だから、どんな蛇遣いでも、「呪文も」、魔術も、功を奏しない、全く「役には立たない」んだ!と……
命を落とし兼ねない猛毒のコブラなどの毒蛇たちに譬えられる程の、命を奪う危険な強大な勢力、恐ろしい大軍を仕向けたのは「このわたし、神なのだから!」と……

異教の神々的な天体信仰、星占い、とか魔術とか、
「そんなまがい物ではない!偽物の神々とは私は違うのだ!」
というイスラエルの唯一神自身の主張がある!と思うのです……
実際、太古の時代は、解毒する血清もまだなくて、毒蛇にかまれたら一溜りもなかったでしょう……
エレミヤが語ったのは正に「命が取り去られるぞ!」という神からの恐ろしい宣告だったのです……

恐怖に怯え固まるエルサレムの民

(14節)だから「何の為に我々は座っているのか。集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。」と……
もはや「それぞれが小さく体を丸め、震えながら身を潜め、息を潜めている」か、
もしくはエルサレムの「城壁の中に集まって、みんなでその時を待つ」のか、選択肢はそのふたつしか残されていないのだ!と……

でも、14節の1行目と2行目に続けて語られる、この「黙っていよう」と(「神が我々を」)「黙らす」は他の訳では「滅ぼされよう」と(「神が我々を」)「滅ぼす」と訳されています……
原語のヘブライ語までは調べていないのですが、「黙る」と「滅びる」とは日本語では意味が違いますが、滅びてしまったら言葉は出せなくなってしまう訳で、原語では同じ言葉なのでは?と思われて来ます……
「集まって」「黙って」「そこにいる」……これはもう、恐ろしい敵の大軍の襲来、北から責めて登って来て襲われる!……いよいよ一貫の終わり……
もう神に「滅ぼされる」ことを、死を覚悟せよ!という切羽詰まった、切迫した感緊張が伝わって来ます……

先回お話しした戦中のテニアン島での玉砕……洞窟に住民が集まって隠れていた、そこに米軍がどんどん迫って来る、その迫り来る恐怖の様と重なります……
サイパンも沖縄も他(ほか)の島々もそう……
逃げ場を失った住民たちの恐怖は……
その中で必死に家族を守ろうとしていた住民たちの緊迫した緊張感……
日本軍に自決を迫られた時の絶望感……

(15節)「平和を望んでも、幸いはなく、癒しの時を望んでも、見よ、恐怖のみ。」とは預言者エレミヤの言葉ではありますが……
絶対絶命の時を迎えた者たちの、祈らずにはいられなかった必死の祈りと、それが適わず、突きつけられた、「避けられない現実だったのだ!」と思わされるのです……

毒の水

その前に置かれている14節の終わりの2行の言葉「神が毒の水を飲ませられる。我々が神に罪をおかしたからだ。」……
この「毒の水」……
前々回の私の説教題「頭を丸めよ」の所でお話したナジル人についての記事が民数記6章には載っていますが、「毒の水」は、そのすぐ前の5:11からの記述されている神がモーセに告げられた掟、律法が関連しているのではないかと考えられます……

長いので、簡単に纏めていいますと、それは、
夫が嫉妬心から妻の浮気を疑がった場合、夫は妻を祭司のところへ連れて行き、祭司はその女性に呪いの誓いをさせて、聖水に幕屋の床の塵(ちり)を入れたその水を、呪いをくだす水、としてその女性に飲ませてみる……
もし、女性が浮気をしていた場合は、その呪いの誓い通り、その水は苦い水となり女性を衰えさせる(「毒の水」と化す)……
もし、浮気をしていないならば、呪いは免れ、子を宿す……と言ったものです……
そして最後の31節は「男は罪を負わない。妻は犯した罪を負う。」との言葉で締めくくられています……

罪に問われるのは女性のみ

そもそもこの規定は、夫と妻の立場が置き換わる事など想定されていません……
これは家父長制の男尊女卑の、遠い異国の、太古の昔の、侮蔑的な規定、律法であって、お話しにもならないと、あきれはすれ、果たして今の私たちは笑い飛ばす事はできるでしょうか?

明治憲法下の日本でも「姦通罪」という法律があって、女性とその相手だけが処罰の対象でした……男性はいくら浮気をしても罪にはならないのにです……江戸時代でも、江戸幕府でも、将軍はお世継ぎを生むために正室と、側室が何人も、、、その体制保持のために大奥という組織までありましたが……

明治時代にも、今やっている大河ドラマの渋沢栄一、今度は新札の、お札の顔になるそうですが、彼は同じ家の一つ屋根の下で、正妻、本妻と言われる戸籍上の妻と、お妾と呼ばれる女性と一緒に暮らしていた……
若い時から女性遍歴も隠し子も数知れず、お妾さんは本宅だけでなく、他の場所、別宅にもいたそうで、女中さんにも手を出したとか……

今度のお札の顔になるもう一人の人物、明治から昭和の初期にかけての細菌学者、北里柴三郎もその点では負けず劣らずだそうです……
明治の国家を築いて英雄視されているそうそうたる人物たちもそう、首相になった伊藤博文など、明治政権の主力なメンバーもしかり……

キリスト教の世界でも……世界各地で起こった聖職者、神父たちの少年への性的虐待(これは裁判が続いているそうですが)……
そして私たちプロテスタントの世界でも……セクシャルハラスメントは教会の中でも聞かれますし、
神学者の大御所、多くの牧師たちから神の様に崇められるバルトも、妻と女性秘書と同じ家で一緒に暮らしていた……
あの、黒人差別と命の危険を感じながらも闘い続けた、主張し続けたあのキング牧師さえ、女性にはだらしなかった……
要するに「男の功績は女性問題に勝る」、いえ勲章の様に語られると言ったら言い過ぎでしょうか……
そんな現実が太古の昔からずーと歴然とあると思うのです、、、

一方で、妻であったり、イエスの母マリアの様に婚約中の女性であったり、またヨハネ福音書7章の「罪に定められた女性」に対しては、神の掟の律法も、国で定めた法律も、そして世間までもが、厳しいのです……

今コロナ禍で新宿歌舞伎町の路地裏に佇(たたず)む女性が増えています……何時間も立ち続けても、それでも稼げなくて、ネットカフェにも泊まれない、食べられない時もある……一日お握り一個、路上で寝るしかない時もある……
知的や精神の障がいがあったり、親の事情で養護園で育てられたり、夫の暴力から逃げ出して来たり……様々な事情を抱えて、それでも必死に生きてきた……
このコロナ禍で風俗でも働けなくなって……身を売るまで、ここまで追いやられた……
警察に検挙されるのは女性だけ……男性は逮捕もされない、罪に問われない……
不平等極まりない現実が、まだ歴然とあると、突きつけられます……

今日は国政選挙、衆議院議員選挙の投票日です……
そもそも戦前には女性には投票権はありませんでした……
選挙権もなくて、男性より劣る者として、囲われたり、買われたり、夫に、男に服従する者として、悔しい思いを一杯いっぱいして来た先輩女性たちの分まで、気持ちを込めて、その悔しさ、悲しさ、惨めさ……そんな思いを感じながら、気合を入れて投票しなければ、と思わされるのです……

エレミヤ書は預言書でありながら詩編詩人の様な詩的な描写、ヨブ記の様な心の描写もあって、預言書でも知恵文学に近づいてると思うのです……
でもエレミヤは、神と民との関係を、夫と姦淫の妻に譬えた預言者ホセアの影響を強く受けていて、
神と民の関係を、荒野(あれの)の時代は、新婚時代の夫と新妻の蜜月の関係に譬えたり、官能的な豊饒神、利益追求の神とされるバアルや、星々などの天体占いとか異教の影響を受けて、自分たちの唯一の、弱さを抱えた者の、抑圧された者の、その痛みを放って置けない、「真(まこと)の神」ヤハウェを忘れ去ってしまう、その事を、妻の裏切り、背信の行為に譬えるのです……

この「毒の水」にもその夫の妻の関係性と見ている、その視線が滲(にじ)み出ている様に、私には思えるのです……

エレミヤの言葉?神の言葉?

(19節)エルサレムにあるシオンの丘、その「シオン」にエルサレムが譬えられています……「シオンの王」とは神ヤハウェを指してします……
旧約聖書では、エルサレムの住民を「シオンの娘」とよく譬えられますが、
今日の後半の部分、19節、21、22、23節で「娘なる我が民の」「叫ぶ声」「破滅」「傷」「倒れた者」と何回も「娘なる我が民の……」と語られています……
特に20節からは民の側にの立つエレミヤの悲嘆、涙にくれるエレミヤ……

「民の罪を糾弾するだけでなく、そのために民と共に泣くところに、預言者の中でもエレミヤの独自性がある」と解説される所なのですが、本当にそうだろうか?と私は疑問に感じてしまいます……
預言者が「娘なる我が民」とエルサレムの民の事をまるで神の様な言い方をするだろうか?と……皆さんはどう思われますか?……

今まで私は「ここはエレミヤが代弁した神の言葉」、「ここはエレミヤ自身の言葉」、と分析してきましたが、その様にはっきりと分けるのは難しい、分けられないのではないか?と、今は思わされています……
18~19節も18節の「わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる」だけがエレミヤの言葉だとされるのですが、そこも私はそこだけエレミヤの言葉というのは何か不自然な気がしてしまいます……
後代の挿入か?
もしかしたら、「嘆きがつのり、心が弱りはてる」のも、エレミヤではなく神かもしれない……

もしくは怒ったり、憤ったり、裁いたり、父権的な神でも、その心の内は、思いは、心の奥底は?と神の心を思い計ったエレミヤの言葉だったのかもしれない、と思うのです……

21節の「打ち砕かれ、嘆き、恐れに襲われる」のも、23節のエルサレムの「倒れた者のために」涙を流さずにはいられないのも、エレミヤが感じ取った神自身ではないのかと……
我が民の背信の罪故に、裁きを下す神でありますが、それは苦渋の決断であって、内心は、「イエスを捨て去った程に、涙に堪えがたい悲しみ、苦しみを民と共にする神なのだ!」との表現ではないかと……
これは考え過ぎでしょうか?……
エレミヤの感受性の鋭さ、豊かな感性、そして自己をも深く見つめる内省、それだからこそ、神の内省まで踏み込む事ができたのではないかと……

民の傷を癒す神

22節の「ギレアド」はヨルダン川の東岸の地域の名、一面濃い森林で覆われた、豊かな森林で知られた地帯……その森のエリコバルサムという低木から作られる薬効のある乳香で有名であったとの事です。
だから薬である乳香があれば、傷は癒されるはずなのに、
「ギレアドに乳香はないというのか、そこには医者がいないのか。なぜ、娘なる我が民の傷はいえないのか。」と……
神は泣くほどにエルサレムの民の破滅に心砕かれ、嘆き、民が迎える悲劇にその恐れに苦しまれる……
そして「民の傷を癒す本当の医者はこのわたし、このヤハウェなのだぞ!
それがなぜ分からぬ!」と訴えている……
神ヤハウェへの回帰、立ち帰りを、戻って来ることを、何度も何度も諦めずに求め続けた神……
「真の神はこの私なのだ!私を求めることが唯一の救いの道なのだ!」
「他の間違った物、偶像に目を奪われるな!それは破滅の道!でしかないのだ!」
と民を思って悲嘆にくれる涙ではないでしょうか?

「医者」と聞いて……マルコ、マタイ、ルカの3つの福音書にある、イエスの真性の言葉と言われる、あの有名な言葉を思い浮かべた方もおられるのではないでしょうか……
マルコ2:17やまたイエスはマルコ10:18の「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と、、、
またマタイ5:43~45「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。……父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らして下さるから」と……

イエスの語る神はマタイなど裁きの部分もありますが、多くは放蕩息子の譬えの様に離反も過ちもどうしようもない自分をも、全てを包み込む様な、「許しと慈愛に満ち溢れた神」です……
そしてイエスの行動は、論戦はしても武力は用いない……

被爆者故坪井直さんが若者に託した言葉

生涯をかけ、世界各地で核兵器廃絶を訴え続けて来た坪井直さんが先週24日の日曜、96歳で亡くなられました……
被爆者団体の代表として、5年前にオバマ大統領と直接言葉を交わし、平和のために訴え、お互いに抱き合った事が印象的でした……
広島で被爆し、全身に重いやけどを負って、およそ40日間意識不明となった……
「ノーモア広島!ノーモア長崎!ノーモア被爆者!」とずっと核廃絶を訴え続けて来た……
次の世代に託す言葉は「不撓不屈!」「ネバーギブアップ!」だと力強く語って来た……
憎しみを乗り越え、平和へと、原爆を落とした国の大統領と笑顔で向かい入れ、「ともに前へ(進もう)」という呼びかけ……
でも、「まだこれから、すんなり行こうと思ったら大間違い」
「これからだ、これが一歩だと」……
正にネバーギブアップ、不屈の諦めない粘り強さです……
「自分の思いをぶつけるだけでは伝わらない」
「憎しみを出しても人に通用しなければ、わかってもらえなければ意味がない」
「そういう意味で乗り越えんとね、いつまでたっても『アメリカ憎し』になる」
「(憎しみが)腹の底にないかといったら ある それを乗り越えんとね、平和はない」
「若者よ、遠くを見よと」
「自分たちのすぐそばで起こっていることによっていたのでは、人間はすたれていくよと」と語られていた……

その言葉と平和への熱い揺るがない強い意思……
託された者として坪井さんの言葉を噛みしめながら、自分のものとなる様にそんな歩みを、希望を諦めずに、「粘り強く諦めない者」でありたいと思うのです……
そしてその歩みは、この私の、自分自身の近くから、
「憎しみを超えて、前へと」「平和を求めて歩む者」でありたい、
と切に願う者です……

神様、
今日は宗教改革記念日、私たちプロテスタントにとっては、とても大切な日です。
私たちは、聖書を読んでいると言いながら、聖書を学んでいると言いながら、教会に集っていると言いながら、あなたの望む歩みを一歩でも進めているでしょうか?、、、そう私自身が問われている!と強く感じます。
宗教改革とは、大きな改革は勿論そうですけれども、私たち一人ひとりが、
その信仰を、その神とイエスを、その理解を、日々改めて感じ直して、それを強さに歩んでいくものではないでしょうか?

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