2021年10月24日 礼拝「キプロス宣教」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
この記事は約9分で読めます。

・タイトル:「キプロス宣教」
・聖書箇所:使徒言行録 13章4節~12節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

パウロの物語の始まり

イエスの弟子たちの働きがいよいよイエスの愛弟子であるペテロの場面から、キリスト教本番ともいえる、キリスト教の中では大悪人であったパウロの登場になりました。

その中で初めの働きが、異邦人伝道、エルサレムをはじめとしたユダヤ人世界、イスラエル世界から、一歩踏み出した外側へのキリスト教の運び屋として、パウロが出現します。

その最初の出来事が、キリスト教にとって最も恐れられたパウロの、最も信頼したのがバルナバという男なのです。

信頼に足るパウロではなく、信頼してはならない人間を最も信頼したこのバルナバのふるさとに、彼を伴って福音の働きを開始する。

色々憶測すると、こんなことも考えられそうです。

エルサレムを中心としたユダヤ人世界。

その中では受け入れてもらえないという、いわゆる前科があるわけです。

使徒言行録第9章では、サウロは劇的なイエスとの出会いを通して、人生も人格も変えられてしまった出来事は、どこまでもパウロの個人的な経験であり、どんなに書き残してもパウロを明日から信頼するというわけにはいきません。

例えば、一時は自分たちの味方のようにしてくれていた人が変わった言葉を使うものを捕まえてしまうような人も、その場所では仲間であるわけです。

我々の正義に変わって、彼なりのいいことをしているのです。

簡単に言うとパウロは村八分にされるわけです。

今度は味方であったところから村八分になってしまう役割を、パウロは担っているのです。

今日の味方は明日の敵、といったようになるのです。

しかしこれらはパウロの個人的経験であり、どんなに説明しても、受け入れられるというためには命を懸けて証をして自己証明するしかありません。

そのためにバルナバはあえてユダヤ社会から外へ飛び出して、未知の世界に彼を導きだすほかに方法がありませんでした。

その最初の出発点が、バルナバの故郷だったのです。

考えてみるととても面白いです。

ところがその後に起こるのは耐えられないことです。

同じユダヤ人でありながら偽預言者とされる人がいるのです。

彼はその土地の、今風に言えばなんとか県といった、自治体の人と接近している人でした。

これは政治的な問題も絡めて宗教的な立場も兼ね備えた人もいたのです。

予想屋さんと、占い師さんと

日本では今、選挙真っ最中です。

恐らく立候補された人たちは寝るに寝られない日々を過ごしていらっしゃると思います。

私の個人的な経験です。

戦時中にも選挙はありました。

この選挙の始まると、候補者たちは面白いことをするのです。

昼間は勝手なこともできませんし、車を走らせて呼びかけに向かいます。

一方、夜中になると候補者は自分の運勢を占い師に見てもらうのです。

どういう運勢なのかは本人は話しませんからわかりませんが、とにかく気になって後援者などの声よりも、占い師や拝み屋さんに運勢を見てもらうのです。

これは戦後日本で言えば内閣総理大臣になりたいといった人も祈祷師などのところに行って、何をどうしたら運勢が上向くかを見てもらうのです。

とても自分にはわからない世論を政治家はとても気にするのです。

もちろん世論に欺くことがあれば運勢は傾いていきますから、傾かないようにするわけです。

一方昼間は予想屋というものがあり、選挙事務所には彼らが出入りするのです。

そこで「あそこの事務所はどんな情勢だ」といった予想を事務所を渡り歩いては聞かせるのです。

その予想屋さんに所長が適当にあしらうことはできないのですが、お金を支払わないとその予想屋は隣の事務所で悪口を言うのです。

ですから、たとえわずかでも予想屋にお金を払うのです。

そういったことがパウロの時代にもあったのです。

天罰

キプロスにいた総督たちも世論を気にする者ですから、一生懸命世論の動向を聞いて受け入れられているのかどうかを気にするのです。

そこには魔術的な王様をゆするなどしてお金を巻き上げるといったことも平然とやっていたのです。

このパウロとバルナバがアンティキアの方から行ったとき、その情景を見たわけです。

そのことをパウロたちは邪魔ものにしたのです。

それは総督がパウロたちの話を聞こうとしたとき、魔術師は邪魔をしていたのです。

それに対してパウロは「お前は悪魔だ」と言うのです。

王様の求めるものを邪魔して、妨害したこと。

それを悪魔だと言ったのです。

そこまでは良いでしょう。

しかし、その結果、主の手が彼に下って目が見えないものにしてしまうのです。

これは聖書論もいろいろとあって、私も原典を読んだわけではありませんが、翻訳によってずいぶん薄められたり意図が変えられたりするのです。

変えられないところは目が見えないものになれ、ということです。

それも天罰として神の手が下って目が見えなくなって、行動の自由が奪われるという、嘘をついたりした罰として、彼の視力を失わせたということです。

これは結果論です。

目的は決して彼を完全に盲目にしてしまうということではないのです。

パウロが恐ろしい形相で睨んで魔術師が盲目になるまでの間に理由があるのです。

これはパウロ自身がダマスコで経験したできごとなのです。

彼もまた目が見えなくなり、誰かの力を借りないと行動できないようにされてしまったのです。

これをどう読むか。

これは私の独断ですが、見えなくなる、聞こえなくなるなどは、その人が神に犯した罰なのか、ということがまず一つの疑問です。

そして神様はその悪い嘘をついたことなどは神様の罰を受けなければならないのか、ということです。

我々の病気や障害など、予想できず自分が望井んでいるわけでもないことはいろいろありますが、なぜこの人がなってしまうのか。

殴ったりするような人はとにかく丈夫です。

しかしやられる人はどこか弱いのです。

人に威風を与えるような強さはありません。

イジメやすい、いじめられやすいということです。

それは天罰なのでしょうか。

人間そのものは聖な存在ですから、その人がどうであろうと神様の目から見れば罰せられても不思議ではない状態ではあります。

もしそこに因果応報的に結び付ければ罰せられて、病気になって当然と言えるでしょう。

それが天罰であろうと何であろうと。

「天恵病」

それから悪いもの、弱いものを悪くし弱くすることは逆に神が神であろうとする証として、ひとりの人間を不幸にするということです。

この物語を聞いていると、そう思わざるを得ません。

例えば12節のところに見えないものにしろと言ったら見えないものになってしまったシーンがあります。

それを見た総督が神様を恐れて信仰に入った。

いい悪いはともかく、人の持っているものを奪い取ることによってこの総督を信仰に導くという、相手を不幸にすることで自分を幸せにするような二段論法的なものも見られなくはありません。

人の振り見て我が振り直せという言葉がありますが、まさにそうです。

そうすると、キリスト教もほかの宗教と違わない、因果応報的な自己責任的なものが派生してこないかと思うのです。

悪い状態になりたくないと、人の姿を見て自分は神に救われていくということが、この物語で語られてはいないかと思うのです。

名前は忘れましたが、有名なハンセン病の歌人がいますが、その方もハンセン病は天恵病だと、天の恵みの病だと、自分の病気を賛美していることで有名な人がいらっしゃいます。

むしろ病気にならなかったら、神様と触れることはなかった。罪びとのまま一生を過ごしたかもしれない。

今、自分はハンセン病になって、不自由になったことで自分は十字架の神に出会ったんだという逆説的なことも言うことができるのではないでしょうか。

そういうことからすると、パウロと魔術師のやり取りから、私たちはよくも悪くも受け取れる出来事なのではないかと。

これが絶対なのだということは言えないのではないかと思うのです。

善の意味

人の悪や不幸を見て自分の善を知るなど、比較をいろいろ考えられますが、そこで考えられるのは何か。

人をごまかして嘘をついていい顔をして落とし穴に陥れる。

私も経験のあることが一つあるのですが、ある時に白いステッキを持って道を歩いていて、道の途中であるお子さんを連れたご婦人がいらっしゃいました。

そこはだいたい1メーター半の歩道だと思うのですが、歩道の真ん中でご婦人は赤ちゃんを低い乳母車に乗せてどなたかと話し込んでいました。

私は歩いていましたが、どちらかがよけなければ通れません。

その時に「ごめんなさい」とおっしゃったので、そこに人がいることはわかります。しかし、そこに赤ちゃんがいることは感覚的にはわかりません。

だからご婦人の横を通ろうとしたら赤ちゃんを乗せていた乳母車にステッキがぶつかってしまいました。

ステッキがもし赤ちゃんの身体にぶつかってけがをさせれば傷害罪になってしまいます。

そのご婦人は「ごめんなさい」と謝ってはくれましたが、どいてくれないのです。

勝手に通れと言わんばかりに。

これをどういう風に理解したらいいのか。

もちろん赤ちゃんやご婦人にステッキなどがぶつかったりせずに何とか通ったわけですが、こういう事ってあると思うのです。

そしてそういう出来事の内容を深めるため、11節、12節の内容というのは私たちにとって深刻な教材になると思うのです。

福音の喜びとは

特に福音の喜びとはあるのでしょうか。

主イエスは十字架にかけられて殺されて、三日三晩陰府の世界を経験されたと聖書に書いてあります。

しかし、死んでしまった人間にとってそれは陰府の経験と言えるのだろうか。

イエスにとっては一生陰府の世界かもれない。

目が見えるようになって、歩けないものが歩けるようになって、生き延びることができるという保証があるならば、闇の世界であろうが我慢もできます。

しかしそれが最後まで陰府の世界だとするならば、一体福音とは何なのか。

単なる気休めやごまかしなのか。

だとすると、この魔術師とあんまり五十歩百歩変わらない、我々の働きを、ここで立ち止まって考える必要があるのではないか。

ハンセン病の人が私の病気こそ天恵病と言い切れる強さは、今の私には持てない。

持てないお前は不信仰だ、総督はそれを恐れて信仰に入ったではないかとおっしゃるかもしれない。

それは人の不幸を見ての人の在り方であり、人の病のよそ目で見ながら、そうでない自分の生き方を選んだのではないか。

聖書というのは、すべてが万事いいことづくめではありません。

人間を躓かせたり、陥れたりするような内容を持ったものが聖書です。

しかし、それはすべてのものから捨てられ、侮辱され、軽蔑された十字架という出来事なしにキリスト教を理解することはできないし、それを理解することによってはじめて神の手のなさる出来事を受け止めていかなければならない。

恨みつらみではない。

それでも愛しなさい、受け入れなさい、赦しなさい、と言っている。

それが愛である。

そんな思いをしながら過ごさせていただいたことを、感謝する次第であります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました