2021年10月17日 礼拝「世界宣教の基地」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「世界宣教の基地」
・聖書箇所:使徒言行録 13章1節~3節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

キリスト者として生きる

私どもがいまこのようにしてとりあえずクリスチャンとしての生活をしているわけですが、それはキリスト教という世界宗教の本質に心ゆすぶられて自分の生涯を少しでも真の者に近づけたいという思いがあって、おそらく教会生活送られているのだと思います。

しかし、世界にはいろいろな宗教があります。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム、仏教……数えきれないほどの宗教があって、生まれたかと思うと何年か経つと歴史から消え去られてしまった宗教もたくさんあるわけです。

したがって私どもはどの宗教が自分の生きる人生を賭けることができるのか、自分の人生に当てはめて身を置いたり、心を傾けたりするということがあり得るわけですが、幸か不幸か、私たちはイエスという一人の人物のなされた行為と、そこで語られた言葉とを一番ものさしに合う人として受け入れて生活しているわけです。

そういうキリスト教というのがどういう風にして生まれて来たのか、実際にわかったようでわかり切れないというのが実情です。

外国の宗教ですし、ましてや場所や時代が違うわけですから、正確に理解することは困難だと思うのです。

困難だからゆえに私たちは追い求めて、研究して、歴史的背景や成り立ちを勉強せざるを得ないのが私たちの現代の学ばされていることだろうと思うのです。

それが一つの手ほどき、とっかかりが聖書に書かれているイエスという人のお弟子、使徒と呼ばれる人たちです。

使徒たちの語られたこと、意見したこと、去ったこと、を通して、キリスト教はこんな風にして生まれて来たんだな、ということを垣間見ることが許されているわけですが、そういう意味では、私たちにとっては本来、関心と興味のある書物であると思います。

分かりにくい使徒言行録

ある人は書物としての聖書という本を書かれているのもあるのですが、いずれにしても世界の宗教の一つとなったキリスト教が、どのようにして誕生したのかということを見るのも面白いと思うのですが、この一つのとっかかりとして使徒言行録を学んでいるわけですけれども、どこを読んでも華々しさというものは全くありません。

あ、これだというきっかけもつかみにくいのが実際だろうと思います。

花々しさ、これだと言って指をさせるような誕生の出来事というのは見つからないのです。

クリスマスというのはキリスト教の誕生のきっかけで、お祭りとしてはわかるのですが、本当の意味を理解し把握するというのはとても困難なように感じます。

先ほど読んでいただいた使徒言行録の13章1節から3節の短い文章で何のとっかかりもつかめないような内容の文章であります。

ここでは特定の人としてイエスをキリストと承認し、そのキリストは世界の救い主であるという筋書きを、いかにだれがどのようにして世界宗教を生み出すきっかけになったのかを垣間見るきっかけとなったのがここに登場するのはサウロ(パウロ)。

その存在はどうしてもかき消すことのできない、むしろパウロを語ることによってキリストが証されていくという、そういう筋書きのとっかかりをつかむことができると思うのです。

そこでサウロという一種の特殊な人の、人となりがどうだったのかというと、キリスト教の発祥時においては最も危険な、最も恐れられた人物だということが書かれています。

初めからサウロという人は、イエスをまさに人生の導き手として思い込んでいる人たちにとって、最も危険な、信用どころか恐ろしい悪人であるという風に書かれています。

しかも彼は神の名において殺人を実行した男と言われているわけですから、これほど恐ろしいことはありません。

自己正義の強いサウロ

コロナのせいとは思いませんが、毎日誰が殺された、ということをマスコミは取り上げていますが、毎日のように人の命が奪われているわけです。

パウロの再来のような感じがする最近のニュースを見聞きしながら、人間って、どうしてこのようなことをせざるを得ないのか、やむを得ずしているのだと思いますが、そのようなことと比べれば、サウロという人の行為は、自分だけは正しいという自己正義、正しくないものを排除するという、凝り固まった自己正義だったと思います。

これほどまでに凝り固まった自己正義の男は居なかったと思うのです。

事件が起こると場合によっては精神衰弱であったとか、いろんなことを言うことが始まるわけですが、サウロの場合は何度も、しかも神の名において自己正義を発揮するとなると、それは逆に言えばみんな恐れている人たちがサウロを放り出さなければ自分たちの安心や平和を得られないほどの人物であるわけです。

皆さんにこういう経験はないかと思いますが、私どもの小さいころにはこんなことがありました。

差別的になるのですが、犬殺し、ということはご存じでしょうか。

犬殺しというものを職業にしていた人たちがいました。

その人たちというのは、街を歩く服装も違うし、なんとなく感じが違う人のように思っているわけです。

その人たちが街を歩いていると、みんな窓を閉めたり、玄関のカギ閉めたりした経験があります。

恐らくサウロもそうなのだと思います。

当時のユダヤの人たちはサウロが来るかもしれないとなると、戸締りをして震えながらサウロの通り過ぎていくのを待っているような状況の男だったと思うのです。

ですから、信用するとか、そのような男ではなかったようです。

そこまで聖書は書いていませんが、おそらく手の施しようのない、サウロのような人物を生み出した神は、サウロのようなものを自由に歩かせていたということです。

宗教の世界というのはそういうこともあるわけです。

どの宗教にもあると思います。

ですから、本当に宗教を信じられない人たちにとっては、宗教なんて怖くていやという人たちもいると思います。

恐らくキリスト教も当時はそうだったと思うのです。

その氷山の一角としてサウロという人がいたんだと。

しかもサウロという人は自分のことを完全に律法を守るうえで負けることはなかった、宗教を理解する能力も人には負けなかった、と、いろいろな負けるものが一つもなかった、と、自己正義の強い男であったことを自負していた男です。

サウロを変えたもの

このサウロを改心させたのがパウロのような人たちによって殺されたイエスであった。

いわばパウロのような人たちによって捨て去られたイエスであった。

これがキリスト教の本質だと思っています。

捨てられた者によって救われる宗教。

つい最近北口沙弥香さんがお書きになったメッセージに、捨てられた者が捨てるものによって救われるという逆説が今何人かの人たちに読んでいただいて、改めて痛みを覚えて読んでくださる方たちもいらっしゃるし、改めて自分の視点を変えようとして読んでくださる方など、いろいろな読み方をしてくださっていてうれしいと思っています。

パウロは捨てる側です。

神にとっては加害者です。

しかし、加害者を赦した神は、このパウロによって葬り去られたわけです。

その神が、捨てたものの救い主となられた実証はどこにあるのか。

それは今読んでいただいた文章の中の、自己正義に徹底しているパウロではなく、徹底的に自己否定したパウロを信頼したバルナバなのです。

バルナバはこの後すぐにキリスト教の世界からは消えてしまうのですが、最も排除されるべきパウロが捨てたものによって救われて、世界宗教の中心的な活動家になったということが、これはほかの宗教には見られないことがこのキリスト教というものの本質を生み出しているんだという、これが聖書の中心だと思っているのです。

バルナバもまた、このサウロに近づくために非常に足踏みをした人物であるわけですが、バルナバはサウロの偉さとか、サウロの信仰などに信頼を得てサウロの同伴者になったのではない。

そこには聖霊という神の力が働いた。

したがってこのサウロもバルナバも、ユダヤ人宣教から異邦人伝道に踏み出す力は、決して彼らの自主的な行為によってなされたことではなくて、どこまでも他動的に、聖霊の働きのみでなしえたということが、このキリスト教が内側から外側へと飛び出す力になった。

踏み石とキリストの誕生

それと同時に忘れてはならないのが、地上から宗教国家であったユダヤ教が崩壊をして世界に散らされた、捨て去られたユダヤ人たちが、捨てた神の福音の媒介となって外側へと広がりとなったのです。

捨てられたユダヤ人の存在が、キリスト教を世界的に広めていった、いわば踏み石になったということを忘れてはならないのだと。

決してキリスト教が風が吹くように宣教が広まったというわけではなく、そこには棄てられたユダヤ人の小さな存在が、踏み石となって世界に広がっていったのだという、踏み石とされたユダヤの人たちを、私たちは聖書の中で忘れてはいけないことではないか。

そのユダヤ人の存在は、まさに我々一人一人にあるのだ。

それが世界の宗教の踏み石となったことであり、そのことで自発的ではなく他動的に聖霊の委託を受けて、按手を受けて派遣された。

これが宣教者の召命なのだと。

私たちはなんとなく名誉的に牧師になったとか、伝道師になったとか、中には牧師になればくいっぱぐれないなど、いろいろなものがあってなるということも聞かれますが、もともとは神の助けによって、神に委ねられて、預かり知らされたものとして押し出されていった。

そこには恐らく迫害されたキリスト教、あるいは迫害し続けてきた人を媒介して迫害されてきた人への伝道が始まったんだ。

それがキリスト教の誕生。

我々も伝道者になるということは、決して自分の名誉や利得や打算ではなく、そこには神から委託された責任というのがある。

それが揺るがないものになって初めてこの世にあって牧師、あるいは伝道者が信用されていくんだ。

伝道に携わる者の使命と責任

信用されない教師、牧師というのは、私は決して適任だとは思わない。

私たちはどんな貧しい者であっても、そこに神から委託された愛と誠とをもって働く牧師がまさしく神の聖霊にふさわしい伝道者であるのだということを、この1節から3節の短い文章の中に凝縮されているように思うのです。

何事にもよらず、憎たらしいと思っても、やはり愛し続けるということが苦しみの中にあるのか、どんなに苦しくても、どんなに二の足を踏むようなことがあったとしても神から押し出された聖霊の愛の力に生きるということが、伝道者の使命でなければ、それは召命感としては生まれてこないのではないか。

もしかすると私たちの周辺にはこんな私を信頼してくれる人はいないかもしれない。

憎まれることはあっても信頼される人は居ないかもしれない。

しかし、私たちは神に信頼されて押し出され、委託されたものとして立たされているんだ。

それを証明してくれたのは、サウロというよりかは、むしろサウロを最後まで同伴者として信頼してくれたバルナバという隠れた存在。

自分の立場も名誉も一切なくなってしまうバルナバが、サウロをサウロたらしめるのだ。

そこには絶対の信頼と愛があった。

私たちはその信頼と愛を持って、伝道者の一人として立たされていることの使命と責任を自覚していかなければならないのではないか。

そこには抵抗も迫害もあれば恐怖もあるかもしれない。

私たちはその責任と使命を担わされている。

信徒さんたちにも祈られているのだということを忘れずに、使徒言行録を読み続けていきたいと思います。

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