2021年10月10日 礼拝「悪霊追放」(北口沙弥香教師)

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・タイトル:「悪霊追放」
・聖書箇所:マタイによる福音書 8章8節~34節
・担任教師:北口沙弥香 教師

イントロダクション

本日はマタイによる福音書、8章28節から34節に残されているイエスが異邦人のガラタ人の街に着かれ、墓場につながれている二人の人を癒し、悪霊をブタの中にいれ、追い出すという、大変不思議な奇跡についての証言を読んでまいりたいと思います。
この部分、もとはマルコ福音書5章1節から20節の物語です。

同じ物語がルカ福音書の8章26節から39節にもありますので、共観福音書の著者たちはこの物語をイエスの物語として大変大切にしてきた、残さなければならない証言として扱ったということが言えると思います。

マタイ福音書もマルコ福音書を無視できなかったし、イエスを語るために大切な証言としてこの部分に残したと言えるでしょう。

ただし、マタイ福音書のこの部分の記述は大変簡潔なものです。

マルコ福音書では悪霊に着かれた人々とのやり取りが本当に鮮明で、ある面で悪霊に取りつかれた人々へのイエスの愛情を感じさせるものであります。

例えば、悪霊から名前を聞き出し、というところに、その人の人格を認めるというような気持ちが現れている物語だと思いますし、また、ついていきたいと願う人々を「あなたはそのまま残りなさい、この場で宣教しなさい」ということを告げたとマルコ福音書では言うわけですが、マタイ福音書にはなく、その面で簡潔だということが言えます。

また、マルコ福音書での違いは、マルコ福音書ではこの悪霊がつかれた人のところゲラサ人の地方と書かれています。具体的にはマルコの5章1節ですけれども、それマタイ福音書ではガダラという風に書き換えています。

ガダラはガリラヤ湖などの約10キロメートル離れたところにあるヘレニズム都市だそうです。

ゲラサは50キロメートル離れているということなので、湖に近いガダラの方が地名としては正確なのだろうとマタイ福音書の著者たちは考えたと言えるでしょう。

また、マタイ書では悪霊に取りつかれている人を2人にしています。

そのような違いがあります。

ある面で病に癒された人、悪霊に取りつかれた人を癒した、その人が見えなくなるくらい隠してしまったともいえるのかもしれませんが、そのような通解をしてしまうくらいイエスのことを前面に出す、イエスのことを神学的に証明したいという意図が、マタイ福音書にはあるかと思います。

嵐を鎮めるということで外部からの天災を鎮めるイエスという人は、悪霊を追い出して人間を癒す権能もある方だと、このようにイエスを全面に押し出すという形で簡潔に表現しようとしています。しかも悪霊を追い出して鎮める先が、先に治めた湖であるということです。

そういう意味では悪霊は二回湖に沈められて滅ぼされてしまうということも言えるわけです。

このように物語を簡潔化することで神の子イエスの権能というものをことさら強調しようとするところが、マタイ福音書の表現の仕方であると言えるのではないかと思います。

統合失調症を想起させる箇所

この墓場で悪霊に取りつかれた人はもちろんこのころには病名というものはありませんし、精神医学というものもないわけですが、現代に生きる私たちにとっては、きっとこの人たちは統合失調症なのではないかという風に思ってしまうわけです。

病が悪霊の仕業なのか、という古代の見方と、脳の体質や癖であったり、脳内物質が人間にとって都合の悪いことをしでかすからこうなってしまうのではないかという現代の見方。

そもそも物の捉え方が古代と現代では違うということが言えると思います。

医学というものがなかったというのは適切ではないのかもしれません。

現代のところで言うところの西洋医学のものの見方がなかったときのものだと言うのが正確だと思いますけれど、そのようなものの見方がなかった時代の、古代の文章に対して、現代的にはこうですよと言ってしまうのは、もしかしたら乱暴なのかもしれませんけれども、しかし私たちはすべての病が悪霊の仕業だということは信じられないわけです。

何にせよ、悪霊のせいにするのか、人間の脳内物質の体質のせいにするのか、どっちのせいにしてもこのような方は確実に昔からいらっしゃったのだということを覚えたいと思います。

またそのような方がどのような扱いを受けざるを得なかったのかということも合わせて覚えたいのです。

こんなことを思い出します。

有史以来有病率の変わらない病

私は2011年から2014年まで、町田の農村伝道神学校の神学生をしておりました。

神学校の夏休み期間に集中講義があるのですが、牧会心理学というクラスがあって、ある私立大学の大学病院の精神科の医師が奉仕に来てくださって、1年次から4年次まで、また聴講の人も含めて精神科と牧会の合わさるところからケーススタディをしようといった、教会にこういう方がいらっしゃったら私たちはどのようにかかわるのかということをみんなで話し合う形式のクラスがありました。

2日から2回に分けてそのような話をするわけですが、出るだけで同じ単位を重複して受けられるので、1年生から3年生まで出席した記憶があります。

同じ内容、同じ講師、しかしメンバーが変わるので話し合いの内容も変わるということを体験しました。

ある時、その講師の先生はこんな風におっしゃいました。

統合失調症だと思しき方が教会に来られた時の事例について考えた話し合いだったと思うのですが、このように言われました。

「有史以来統合失調症の有病率は変わらない。いるはずの人がもしいないのだとしたら、それが間違っているのだ」

その言葉でこの人は本当にキリスト者であることと医者であることを両立させて誇りをもって、神学校で時間を取られるけれど、お金にはならない仕事の筆頭のようなものだと思うのですが、それでも情熱をもって、真剣さがあるからこのような話をしてくださるのだなと、身をもって感じさせられました。

有史以来統合失調症の有病率は変わっていない。

いるはずの人がいないことがあるのなら、それは問題である。

このような趣旨の発言だったと思います。

あるはずの人がいないとするならば、それはこの物語のようにその人が墓場に追いやられてしまって普段はいないことにされてしまっているのではないかということだと思うのです。

この物語で墓場にいる人は、墓場にいないからいた人というわけではなくて、むしろ墓場に追いやられ、居場所がなかった人なのではないでしょうか。

そのように思うのです。

存在するはずの人がいないとするならば、それは墓場に追いやられている。

そのことを痛感する事件がありました。

コロナで明らかになった一部精神病院の暗闇

それこそ本当につい最近知ったのですが、精神科病棟ということで名高い東京都立松沢病院という世田谷にある病院があります。

精神科を中心とした総合病院ということが正しいのでしょうが、精神病や精神疾患を見るためにほかの科が併設されているというのが正しい表現なのかもしれません。

その病院が4月からコロナ患者を受け入れています。

どのようなコロナ患者かというと、他の精神科病院でコロナ感染に逢ってしまって、そこの病院で見続けることができなくなってしまった患者さんです。

精神疾患を持っていると、たとえばマスクを着け続けることができないとか、手を洗うことができない、そのような自分の努力で感染を防ぐことができないということが起こってくる。

想像に難くないことだと思いますが、そのような事例があるわけです。

一般のコロナ病棟に移るのが難しくなっている。

そこで松沢病院は4月から精神科かつコロナ専用病棟をつくって受け入れるようになったのです。

そうなってくると、他の精神科病院でクラスターが発生して緊急搬送されるということが起こってきます。

そのような患者さんの状況がとんでもない状況で、明らかに人権というものが無視されてきた対応をされているというのが、体の状況でわかってしまうということがあるのです。

例えばお尻の骨の部分が出てしまうほどの褥瘡があったり、骨の部分が壊死してしまっている、皮膚のしたで筋肉が壊死してしまってるといったことが、運ばれてくる患者さんの中にいるというのです。

患者さん本人から聞いてみると、元居た病院はどういうところなのかというと、大広間にコロナになった人を閉じ込めて南京錠を掛けていただとか、築60年以上の古い病棟の畳敷きの部屋に布団を並べて大部屋に陽性の患者と陰性の患者を混在させたまま寝かせていてクラスターが発生したといったこともあったそうです。

本来、精神病や精神障害の患者さんを長く閉じ込めておくというのは、理にかなったことなのかということを問われるのです。

症状がどこで寝かせても一緒だったら、病院の中にいなくてもいいということも言えるのです。

しかし、やはりそこは多数派の都合、健常者の都合によって見えないところに追いやられていく。

墓場に追いやられていくという状況を私たちが作り出しているということを思わなければならないという風に痛切に感じます。

現代にもこのような墓場と言わざるを得ない状況があるのだということを、この事件から身に染みて感じるのです。

精神科の病院でコロナクラスターを発生させたにも関わらず、病名すら公表せず、責任を取らない病院があるわけですが、そのような病院を違法だから潰してしまえと言ってしまったら、もしコロナが治って元の病院に帰れない人々はどうなってしまうのだろうか、ということを短期的には考えなければならないだろうと思うのです。

ですから、安易に病院をつぶしてしまえともいえないという真綿で首を絞められるような現実があるわけです。

墓場にいる人はいたくていたわけじゃない。

繰り返しますが、墓場にいる人は墓場にいたいからいた人ではありません。

墓場に追いやられた人であり、墓場にいざるを得なかった人です。

マタイ福音書においてはイエスの権能を表しました。

それがマタイの意図としては、終末において裁きを行うものとしての権能であり、悪霊を追い出すということでその権能を先取りしてみせたという描き方をしたいという意図があったのかもしれません。

しかし、イエスの権能はそれだけではないでしょう。

イエスの神にしたがってなされたここでの権能は、むしろ墓場を解放したことではないでしょうか。

墓場につながれた人を解放して、本来その人が生きるべきところに戻したということではないでしょうか。

イエスの権能は墓場につながれるほかなかった人を、本来生きるべきところに戻すことです。

その人が人間として幸福な姿でその人として生きていくことができるところに戻っていく。

そのような助けをすることがマタイ福音書の意図を示されてあらわされるイエスのキリストとしての権能ではないか、そのように思わされるわけです。

残念ながらこの世にはまだまだ追いやられ、墓場にしか居場所がない人がいるということをまずは覚えたいと思います。

イエスはこのような墓場を解放し、破壊し、墓場なんてないということをなさろうとしたがために、また十字架について殺される前にそのことに忠実だったということを覚えたいと思います。

どうしたら私たちはこの世から、この社会から墓場を取り除き、神の国を実現することができるでしょうか。

そのような答えは一朝一夕に現れるものではありません。

しかし、そのような理想を私たちが描くことは、大事なことだと思うのです。

イエスにならって生きようとするとき、私たちは無視せず、握りしめてこれからを作り上げていきたい、と願います。

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