2021年9月26日 礼拝「偽りの平和論」(河口陽子伝道師)

礼拝説教
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タイトル:「偽りの平和論」
・聖書箇所:エレミヤ書 8章1節~13節
・担任教師:河口陽子 伝道師

神の御告げ

「その時、と主は言われる」……
今日からこのエレミヤの言葉から始まる8章に入ります……
「その時」で始まる今日の8章の初めから3節までは、
前回の所、7:29から繋がっていて、続きの部分と考えられます……

「主は言われる」、これは「ヤハウェの御告げ」とも訳され、こちらの訳の方が原訳、元々の訳に近いと思うのですが、これは預言書には良く出て来る定型句、定型表現です……
預言者エレミヤが「神の御告げ」と宣言し、
「これからこの私エレミヤが語る言葉は、神の御言葉、御告げなんですよ!ですから、よーく聞いて下さいよ!よーく聞いて、神ヤハウェの真意を、思いを、掴み取って下さいよ!」
という意味を持つものだ、と思うのです……
前回の繋がりで、エレミヤが語る、神の言葉を聞いていくことが、
求められていると思うのです……

これまでの振り返り

この前の所までの内容を振り返りますと……
イスラエル、ユダの神ヤハウェの神殿、神の面前とも言える場所なのに、
そこに異教の神々の偶像を置いてそれらを拝んでしまう……
家庭では親子で協力し合って金星の女神を拝んだり、占いを信じたり、どこでも神ヤハウェを裏切って来た……
神の言葉に耳を傾けず、神の命じた道を歩んで来なかった……

更に、昔から周りの国々で広く行われていた、忌まわしい異教の祭儀が
ヤハウェ宗教に入り込んでしまって、幼い娘、息子を、火の中を通らせるという、恐ろしい幼児犠牲が行われて来た……
それはソロモン王の時代は異国の妻の影響から……
そして国家が北と南に分裂して、イスラエル王国が先に滅亡……
今、辛うじて存続している南のユダ王国で、
そんな不安定な不安の中だからこそ、他国の侵入により自分の国が亡びてしまってはならないと、国の存亡の危機の時に、特に人身御供、人身供犠が行われて来た、と思われます……
ヨシヤ王の少し前の王たちの時代に、王自ら自分の跡継ぎの子どもを火の中に通らせる……おぞましくも悲惨な行為、儀式……
でも、国王も国を守らんとする必死の思いで、一番大切な我が子を捧げて、国という大きなものを得ようとしたのではないか?と前回の所を振り返って、改めてそう思わされるのです……
(でも、それでも犠牲にされる幼い者たちの命は?人生は?とモヤモヤして来る……自分の最も大切な命でも国の命より大切ではないのかと……)

しかし神ヤハウェは、「もはや鳥や獣の肉を焼いて捧げる動物犠牲もお喜びにはなられない!」(7:22)とエレミヤは語ります……
ましてや「幼い人間の子供を焼き殺すなんてとんでもない!」「最悪!」
「最も忌み嫌うことだ!」と……
私もそう思いますし、エジプトから苦しむ小さな民を救い出した神、小さく弱い者を救う神なら、激怒するのが当前だと思うのです……

だから「この罪深いユダ王国の首都、聖都エルサレムはその報いを受けるのだ!」と……因果応報、悪を行えば悪が帰って来る、これが旧約聖書の根底に流れる思想で、エレミヤもその強固な土台の上に立っているのです……
でも、それは王自らが自分の跡継ぎを焼き尽くす捧げものとして、火で焼く、とのおぞましくも罪深い犠牲の上に成り立つのではない!
と、言いきったのではないでしょうか?

犠牲が大きい程、国が、国体が、平和が、守られる!との、犠牲を必要なもとし、正当化する犠牲の論理……それを突破する画期的なものだったのではないのか!?と私は思うのです……
人の命を大切にしない、人よりも国家を、国益、国の利益を、優先させる、その犠牲論は、その報いは、結局、自分たちが受けるのだ!と、因果応報的ですが……

エルサレムは外敵の侵入を受け、民の死体、屍は鳥や獣に食い尽くされる……と戦争の悲惨な末路をエレミヤは預言するのです……
結婚式とか祝い事なんてやってられない!、もしくはその喜びの場面も攻撃の憂き目に遭い、殺戮の場となり、この美しかった都は廃墟となると……

掘り出される骨

(8:1)「その時」、「ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される。」……
この国の、王も、高官も、預言者も、エルサレムの住民も、神の望む道を歩んでは来なかった……道を外れてしまった……
「軍馬が戦場に突進する様に」(6節)、もはや乗り手のコントロールは全く利かず、間違った道を無謀に突進、衝き進んで行って、戻っては来ない……

(2節)「彼らが愛し、仕え、その後に従い、尋ね求め、伏し拝んだ」のは、
神ヤハウェではなかった……
そうではなくって神ではない偶像「太陽や月、天の万象」だった……
だから、本来なら弔い、大事に大切に埋葬されるはずの遺骨が、死者の生きた証の様な存在である遺骨が、「墓から掘り出され」、偶像の前に「さらされ、集められることもなく葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる」……
何と言う皮肉、何という惨状でしょうか……

今、皆さんと読書会で学んでいるエゼキエル書の37章では、
谷に捨てられた様に、多くの枯れた骨、絶望の象徴かの様なその無残な枯れた沢山の骨に、神は「筋を置き、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。」……
まるで創世記(2:7)で語られた「人を形造り、その鼻に命の息を吹き入れた」様に「生き返る」……再び新しい生を与えられる……復活させられる!という、エルサレムの復興の預言、希望が、語られていました……

その物語と真反対、生身の生きた人、一人ひとり、その人の歩んで来た生が、営みが、生活が……そこには喜びも悲しみもあったはず、戦争ばかりで困難な時代であっても、その時代を生きたそれぞれの物語があったはず……
その生身の人間の生きた証とも言える骨が、痛ましく、無残に、ごしゃごちゃにされて「まき散らされて肥やしとなる」と……

エルサレム神殿は崩壊、破壊され、多くの民が、女、子ども、お年寄り、病であったり、体が不自由な人、そんな弱い者たちから、容赦なく蹂躙され、犯され、無念の内に恨みながらも殺されていった……
せめて子供だけでも守ろうとして、必死で、命乞いをし、抵抗し……
相手を恨む間も、そんな余裕もなかったかもしれません……
無残な殺戮、虐殺……月日が経って骨だけが残った……
そんな地獄の中で、生き残った僅かな人たちも、家族を亡くし、家を失い、土地を奪われ、離散の民、難民となって他国に逃れたり、または遠い異国に連行される……

人類への預言、歴史の現実

これはエレミヤのエルサレムへの預言であって、それだけでなく、その後のずっと続く人類への預言でもあって、今までこの世界が歩んで来た歴史の現実でもあるのだ!と思わされるのです……

米軍の誤爆で、家族全員を失ったアフガニスタンの男性……中国に進撃した日本軍によって、家族間でレイプを強要されるという地獄、銃剣で皆殺しにされた家族……ひとりだけ助かった少女……
朝鮮半島では日本軍が村の住民を教会に集め、閉じ込め、火を付けて焼き殺された村民たち……奇跡的に逃れ助かった少年……
従軍慰安婦とされた少女たちが証拠隠滅の為、拳銃で皆殺された……
その重なった死体の下で助かった少女……
東南アジアのジャングルに送られ、水も食べ物もなく、飢えとマラリアで次々と死んでいった日本の若き兵士たち……共食いもあった……生きたかった……
米軍が迫る中、逃げ込んだ洞窟で、泣く子が「うるさい、殺せ!」と日本軍に命じられ、愛する我が子を手にかけ殺した若い母親たち……
最後まで目をかっと見開き母親である自分を見つめていたその顔が忘れられないと、その事実を話して下さったテニアン島の玉砕の中、奇跡的に助かった老女の証言……

みんな地獄を見た……生き残った自分を責めた……申し訳ないと詫びながら今まで生きて来た……その惨事を、それだけは繰り返してはならないと、証言を続ける方たちも……
未だそのトラウマから逃れられず、夢で苦しめられたり……
その重さを一人で背負いながら、息を潜める様にひっそりと暮らして来た方たちも……罪責に苦しみながらも、亡くなるまで心の中にしまい込んだままの人たちも少なくなかったと思うのです……

だから(3節)「残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものになる」……
これは大変重い言葉だと、感じています……
それでも、この世の地獄を、その惨状を、辛うじて生き残った方たちは、
殺された多くの命、生きたくても生きられなかった惨状を、普通の人間が鬼と化していまう戦争……
最も悲惨で憎むべき戦争を戦下を生き抜いて来た……
もうこんな戦争は二度と起こしてはならないと、こんな思いを他の人にさせてはならない!との思いを持って、家族を失い、天涯孤独の中でも必死に生き抜いて来たのではないかと想像するのです……

偽りの平和論

今日の説教題、タイトルは「偽りの平和論」です……
11節の「乙女なるわが民」の「おとめ」はエルサレムの事です。
「平和」は「平安」とも訳される言葉です……
神は「我が民エルサレムの破滅を、手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う。」……この部分(10b~12)は前の6章(13~15)の繰り返しで、重要だから繰り返されると思うのですが、
改めてこの時代のエルサレムで、この日本で、このコロナ禍で、どうなんだ!?と思わされます……

渡り鳥でさえ本能で渡る時を知っている、戻って来る。
それなのに、(8節)「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で主の律法を持っている』と。」
「皆、利をむさぼり、……皆欺く。」……モーセの十戒の「欺くなかれ」を
皆が犯していると……
律法を知りながら、神の定め、神の律法、神の摂理、神の道理、神の道備えを知りながら、神に近いと言われる預言者や祭司の方が神に最も遠くなり……
本能だけで自然の中で生きていて、神に遠いと思われる鳥たちの方が神に近い……そんな皮肉が込められていると思うのです……
必ず帰って来る!そんな思いもあると思うのです……

この日本ではどうでしょう?
「賢者」と言われる程の学歴も学識もあり、大学の最高権威、トップと言うべき東大……それも優秀な成績で卒業したかもしれない、官僚たちが、「偽る筆をもって書き、それを偽りとした」……
残念ながらこの国ではまだ「賢者は恥を受け、うちのめされ、捕らえられ」てはおりませんが……
公文書偽造の罪……トップの意向で、集団で、悪が行われたのは間違いない!と誰もが思う処です……
でも、国のトップがらみの犯罪でなくても……残念ながら私の住む団地でも、総会の議事録に重要な発言が抜かされていたり……
教会においても、総会議事録から意図的に意見が載せられなかったり……はあるのです……

そうやって手軽に治療して、表面上は問題がない様に見せかけて、
「通常通り」、とか「平安の内に執り行われた」とか、取り繕う……
そんなふうに問題がなかった様に見せかけていたら、
本当の平安や平和、和解も、遠のいてしまうのではないでしょうか……
「忌むべきことをして恥をさらし」……「倒れつまずく」だけだと……

(13節)「私は彼らを集めようとしたが」……
「ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。」
こう神の言葉を告げるエレミヤ……
それより約百年前の預言者イザヤは、
「神は、よく耕して石を除き、イスラエルが良いぶどうとして実るのを待ったのに、実ったのは酸っぱいぶどうであった」とイザヤ書5章(1~7節)で批判しています……
エレミヤは、甘いも酸っぱいもない、「葉はしおれ、実がならなかった」と更に辛辣です……

他の預言書では、「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」(ミカ4:4)
「あなたたちは互いに呼びかけて、ぶどうといちじくの木陰に招き合う」(ゼカ3:10)
とある様に、いちじくやぶどうの木の下に憩うことは、平和、平安のしるしで……
でも、今の状態は、脅かす者、大国の脅威、という不安の中で、そして頼るべき神に背いたままでは、「平和、平安、それが得られない状態なのだ!」と訴えていると思うのです……

殺すなかれ

十戒の「殺すなかれ」(出エジプト20:13)を改めて思わされます……
まき散らされた骨は殺された者たちです……

宗教改革に燃えたヨシヤ王は「サマリアの町々で異教の神々の聖なる高台の祭司たちを一人残らずその祭壇の上で殺し、人の骨をそこで焼いた」(列王下23:19~20)との記述もある様に、正義、という名目で「殺すなかれ」の十戒は破られる……戦闘もそう……大儀、正義の戦争も、平和のための戦争もあり得ません……
平和のために武力行使を厭(いと)わない積極的平和主義……平和のための戦争なんてあり得ない……

軍馬は戦争の象徴とも言われます……
拡大し続ける軍備、暴走する軍部、軍事政権……
ミャンマーの無抵抗の自国の民に向けて発砲、容赦なく殺す軍部の暴走を思わされます……

伝書鳩は必ず自分の家に帰って来ます……
イエスが洗礼を受けた時、鳩のように聖霊が下ったと……鳩は平和の象徴でもあります……

突き進んでいく、力を使う、暴力を振るう……一度走り出したら止まらない……
そんなものではなく、本能のまま、自然のまま、神の下へ帰って来る……
そんな小さいけれど決して諦(あきら)めない、そんな私たちでありたいと思うのです……

7.コロナ禍で
コロナの恐さ、恐ろしさですが……
この病は、いかに人と人の間、国と国の間も裂いていくか……
互いを分断化、孤立化させて行きます……
同じ国の中でもワクチン接種をめぐって騒動となっています……
対立ではなく、遮断ではなく、神の言葉を聞く様に、相手の言葉を聞いていくことが大事なのだと改めて思わされます……
聞いていくことで、たたえ相手が理不尽、不遜な物言いをしたとしても、その考え方の元となる背景が見えて来るかもしれません……
相手を知ることに繋がるかもしれません……
もしかしたら相手の中に、自分に通じる共通のものが見つけられるかもしれません……
それを恐れては「賢者」にはなれないと思うのです……

重症化したり亡くなる人はなかなか減っていかない
自宅療養者が2万人もいる現状、どんなに心細く不安で孤独な中で我慢をしいられているのか……
そしてこの病は、いかに人と人の間、国と国の間も裂いていくか、互いを分断化、孤立化させていく……
同じ国の中でもワクチン接種を巡り騒動となっている……
(対話が大事と言われますが……残念ながら、対話によって、もっと不信や分断や増していってしまう場合もあります……)
対立ではなく、遮断ではなく、神の言葉を聞く様に、相手の言葉を聞く事が大事なのだと改めて思わされます……
聞いて行く事で、たとえ相手が理不尽で不遜な物言いをしたとしても、その考え方の基となる背景が見えてくるかもしれません……相手を知ることに繋がるかもしれません……
もしかしたら、相手の中に自分に通じる共通なものが見出せるかもしれません……それを恐れては賢者にはなれないと思うのです、、、

また、コロナ禍で生活ができない人が増え、自らを傷つけ死に至る人も……家庭に引きこもったが故に児童虐待も増えている……
被害者は勿論、加害者の心も平安でも平和でもない、抑圧感や不安や不満を抵抗できない弱い者に向けている……
ネットでの誹謗中傷も増加して相手を追い詰める……決して言ってはならない言葉が安易に沢山繰り返される……そんなおぞましく悲しい現実がある……

それでも、困難な中、知恵を絞ってコロナで苦しい異業種がタッグを組んで新しい取り組みをしたり、困窮者を声を聞き救おうとNPOの方々も必死の活動を続けています……
私たちは、孤独な者どうし繋がることができる……
分断ではなく、垣根を越えて……攻撃ではなく、否定し合うのではなく、傷つけ合うのではなく、同じ不安を抱えた者どうし、いたわり合うこともできる、分かり合える接点も必ずあると信じたい……

正しい者はだれ一人だにいない……失敗しない者もいません……
4節の様に、倒れて、起き上がれなかったら、助けてといえる社会……
どんなに神の道から離れても、人の道から外れても、時間がかかっても、遠回りをしても神の許に帰って来ればいいんだ、神はそれをひたすら待っているのだと、思うのです……

イエスに繋がるぶどうの枝になって、その元で憩える場を作って、生きてる事を喜び合いたい、と思うのです……
だれもその存在を否定したり、置き去りにしたり、捨てたりはしない……
それが今の私にとっての平安であり、平和だと思うのです……
コロナがそれを教えてくれていると思うのです……
破滅ではなく平安を、平和を、そして命を守っていくために……
13節「私は彼らを集めようとした」……神はこの教会に私たちを集めて下さっている!という喜び、平安を感じ取りたいと思うのです……

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