2021年9月19日 礼拝「ペトロ、牢から救われる」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「ペトロ、牢から救われる」
・聖書箇所:使徒言行録 12章6節~19節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

使徒言行録を読む

礼拝を担当している私は、新約聖書の使徒言行録、イエスの弟子たちの働きを記録した者を学んでイエスが十字架につけられた後、2000年の歴史を築き上げてきたキリスト教はどういう風にして築き上げられてきたのかという歴史を、一緒にほじくりながら学んでいます。

2000年も昔の話ですから、今みたいな時代とは全く感覚のずれもありますので、想像をたくましくしながら、時には映像的に心を膨らませながら当時の状況を思い出しながら学んでいくほかありません。

今日読んでいただいた問答は、イエスが亡くなられて10年そこそこのころに起こった出来事だと、学者たちは書いています。

イエスを含むイスラエルの人たちを支配していた巨大なローマ帝国の管轄下の中に生活していたわけです。

ですから、国の力は神の力をも勝る強力な力を持った国の象徴的な意味を持って、その前提をもってキリスト教という小さな宗教が産み育てられていくという、ある意味では苦難のキリスト教ともいえるものを学ぼうとしているのです。

ここではヘロデという、聞いたことのある王様が出てきます。

イエスが誕生したということで、彼は自分の権力が失われてしまうのではないかという不安を持ち始めたということを、クリスマスの誕生のところで学んできたことだと思います。国の権力。

今、日本でも一部の政党がいわゆる権力争いをしているわけです。

その権力に乗せているのか、乗り遅れないようにしているのかはわかりませんが、あらゆるマスコミといった天下の公器がそのことに集中して、多額の資金を使って国民の関心を呼び寄せて何かに乗り遅れないようにして、勝ち馬に乗って利益を得ようとすることに、私たちはついついわからなくなって、映し出されるテレビなどに心を奪われ、まるで競馬の競争やオリンピックの勝負を見せられているような錯覚に受け止められていないか、と考えてしまうのです。

私はこんなにマスコミの発達していない時代に少年時代でしたから、とにかく大人の言うことや学校で教わることはすべて正しいものだと思い込まされていたので、何もわからない間に軍国少年などとおだてられ、勝ち馬に乗せられてきた経験がありますから、それを別な意味で体験させられるということの怖さがうろうろしている自分を感じさせられます。

そういう経験を経ながら、使徒言行録12章のペトロの経験とも言えるものをルカが皮肉も交えてローマ帝国を批判するというような部分を読んでいます。

結論的に言えば、使徒言行録12章6節から19節までの中心は11節にあります。

「ペトロは我に返って言った……」という箇所。

これは仲間であるヨハネの兄弟であるヤコブが当時の国家権力者によって殺されるわけです。
そしてペトロは牢屋につながれるわけですから、苦難の中にあるわけです。

その彼があるとき、ローマの権力から逃れるように天使、神の働きのよって脱獄するわけです。
そこで初めて本当のことが分かった。

それは主が天使を使わせてヘロデの手から、またユダヤ民衆の目論見から、私を救い出してくださったのです、というところが、この文章の中心になるのではないでしょうか。

それまではペテロはされるままのおとなしい、夢を見ているような、自分の現実が現実にならない、虚像の自分の中に行かされているということなのです。
実像ではなく、虚像の中に生きている自分が今、神の助けによって解放された、救い出された、実像に戻ったということです。

居眠りしていた兵隊たちの間に天使が現れ、ペテロのわき腹をつついて起きろ、起きろと、脱走兵としてではなく普通の人のように、怪しまれないようにして出てきなさいと言われたわけです。

現実に帰る、という福音

要するに、普通に帰ってきたわけです。
幻、虚像から実像へ戻された、という、それが本当の事だったのだと我に返った。

それを神の救いと受け止めたのだというのです。

そして天使の手から離れて、かつて仲間であったヨハネの母であるマリアの家に行って、戸を叩いた。

そうしたら女中さんが出てきて、声を聞いたらどうもペテロの声だ、間違いない、もしかしたら死んでしまった、とらわれてどうにもならない、祈ってもどうにもならない、祈りの無力さの中に女中や弟子たちもいたのだと思うのです。

ところが、叩く音は幻ではなく、現実です。

そして女性の人が出て行ったら、どうもペテロの声だということで、あまりの驚きに入り口の扉の鍵をあけることを忘れるほどに驚いて、弟子たちのところに赴いた。

すると弟子たちもそんなことありえないと、お前ら少しおかしい、という風に男の人たちからは言われるわけです。

これはちょうどイエスが墓に収められてマグダラのマリアや母マリアたちがイエスの身体に油を塗ろうとお墓行ったら、イエスの身体はなかった。

驚いて弟子たちのもとに行って「イエス様はいらっしゃいませんでした」と言ったら、「そんなバカげたことはあるか」と言われた。

聖書の中の女性差別

これもまた女性差別だと思うのです。
女性の言うことは信じられない、信じてもらえないということです。
ここには純粋に女の言うことなど信じられない。
それでこの女性は間違いないのだというのです。

これはどういうことなのかと言うと、ここには女性の言い分などは信頼できないということ以上に、この弟子たちが生前イエスが語られたように、人の子は多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に復活するのだという預言を聞かされ続けた弟子たちでさえも、本物のペテロの復活を女性たちが証言したにもかかわらず、この弟子たちはそれを信じようとしなかった。

ここに私は二重の差別があると思うのです。

女の言うことなんか信じられるかという差別と、復活するなんてことはあり得ない、という差別の両方があったと思うのです。

聖書に差別があるというのは、不敬罪になるでしょうか。

マグダラのマリアたちも信じてもらえませんでした。
だから彼女たちは口をつぐんで黙り込んでしまった。

ここでも、この固有名詞の入っている女中さんの言うことを信じてもらえない、いくら言っても信じてもらえない。

彼女たちも口をつぐむわけです。

そして男たちが慌てて戸を開ける。

戸を開けるということも、女ではなく男がしているのです。

女の力では開けられなくて、男だから開けられたという理屈も成り立つかもしれません。

しかしそんなに女性の人が開けられないような頑丈な戸なのか、ということはあり得ないわけですから、ここでは女性の言う事なんか信頼できないということが示されている、ということと同時に、その男性たち自身も、本当の意味では神の言葉を信じていなかった。と言いうことからすると、これは同罪かも知れない。

開けてみたらペテロが立っていた。

彼らもひっくり返るほど驚いたということです。

国家というもの

私たちは国家という権力のもとで、保護されていると同時に、酷使されている。

もはや宗教の力などで国が守れるわけがない。

毎日のように次の最高の権力者になるひとの選びの論争がなされています。

やっぱり、権力を欲しいのでしょうか。

どの候補者の話を聞いていてもどうも聞かされる国民に向かって語られれているとは思えない、内容の乏しい話です。

この人たちに国の権力を任せたら、また歴史は繰り返すのだろう。

今月末で権力を放棄する総理大臣は、自分の権力を振るいすぎて思うように思い込んで、その行使しようとした権力に自分の首が締まった。

それでもたとえ半年でも、1か月でも、権力の座に座りたいと叫ぶ醜さを私は聞いていて、腹立たしさを感じました

今、スキャンダラスに取り扱われている皇室の一人の女性が、まるで駆け落ちとも見えるありさまで結婚しようとされているのを聞いて、彼女がかつて在学していた大学の宗教主任がこういうことを言いました。

あの話が持ち出された直後に、彼は何と言っていたか。

「私たちの大学が皇室に近づいた」

このことに誰も反論もしなければ、批判もしないのです。
私は耳にこの言葉が残っています。

やっぱり宗教も、権力、権威に近づくことが誇りなのか。
イエスの十字架に誇りはあるのでしょうか。
権力はあるのでしょうか。
神から捨てられた十字架に、神に近づくすべはあるのでしょうか。

ヨハネの兄弟を殺し、イエスを殺すことによって、それを待ち望んでいるものに喜びを与える。

権力が国民に迎合する。

牢につながれているペテロが、神の力によって、しかもユダヤ教にとって忘れてはならない過越際にペテロの解放が起こった。

これはまさにユダヤの人たちにとっては喜びの福音である。

それがまた一国家の、我々もそうかもしれませんが、国民の命と財産を守るためには巨大国と手をつなぎ、恐ろしい核の保護の中で、万が一の時には鉄砲をもって相手を殺すんだ、それが安全なんだと、私たちもついついなんとなく、泥棒の入らないように鍵を閉める。

そういったことをやっていると思うのです。

小さな祈りと福音

しかし、福音はその鎖を解き放って、平常心にかえって、平常の洋服を着て、着飾ることなく、解放の道ぞなえをしてくれるのが福音なんだ。

権力によって人を抑圧し、その権力はいつかは滅びるのだ。

私たちの小さな祈り、何の役にも立ちません。

何の力にもなりません。

しかし、神は私たちの祈りを聞いていてくださる。

途方に暮れ、迷いに迷い、過去の記憶さえも失ってしまいそうな一人の姉妹を今日、聖書に照らし合わせるように、私たちの心に遣わしてくださっている。

電話を戴いた時には自分の耳を疑うかのように驚きました。

私たちの小さな、どこにも届かない祈りが、この小さな胸に本当のものとして示されていることをぬか喜びすることはできません。

今日は本当に、神の業としてしか思えない、ひとりの姉妹の再来が福音とは何なのだ、鎖を解き放つ神の力とは何なのかということを体現させられた今日の礼拝を、感謝したいと思います。

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