2021年9月12日 礼拝「風を叱る」(北口沙弥香教師)

礼拝説教
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・タイトル:「風を叱る」
・聖書箇所:マタイによる福音書 8章24節~27節
・担任教師:北口沙弥香 教師

風を叱るイエス

本日はマタイによる福音書8章24節から27節、嵐に飲まれる船の中で眠っておられるイエスが、起き上がって風と湖とをお叱りになると、嵐は止んですっかり凪になったと証言する、わたしたちにとっては大変不思議な聖書の物語についてひととき心を向けたいと思います。

これとほぼ同じ内容の物語、マルコ福音書の4章35節、ルカによる福音書の8章22節から25節にあります。

マタイ福音書は先の19節から22節をマルコ福音書に挟む形でQ資料からの格言を引用しました。

またその物語に、マルコ福音書の話の流れにのっとって8節から奇跡物語を続きとして読むことができるようにしております。

マルコ福音書の話を遮って弟子の覚悟を問う記事を、マタイ福音書は入れ込んだのでありました。

つまり、イエスが船に乗り込まれると聞いて弟子たちも従ったとあります。

そのような流れでお話が戻るわけですけれども、旧約聖書では人間に脅威をもたらす荒海、暴風、というものが神によって鎮められるという表現が出てきます。

例えば詩編の中の77章17節、89章10節、ヨブ記の38節の8節から11節などです。

その際、神が海や波を叱りつけるということも表現の中に出てきます。

詩編104編の7節、106篇の9節などに、そのことが出てきます。

神はご自分が造られたこの世界において、権威を示し、荒海をも暴風をも嵐をも鎮められるという権能を持つ者であるということが、そのような旧約聖書の言葉によって告白されるのですが、そのような神の姿と、イエスの姿、風を叱って嵐をおさめる神の姿、神の子の姿が重なるというのです。

奇跡物語の中で人間として、人間の癒し人として人を愛され、かかわってこられたイエスの姿とは対照的な霊的、天的なイエスについての表現の記事だということを言うことができると思います。

この記事、マルコ福音書のもとになった物語の4章35節以下では、「なぜ信じないのか」という弟子たちの無理解ということを際立たせるような書き方をしていますが、マタイ福音書ではあえてここは「従う」という言葉に置き換えられています。

信仰を持っても嵐に逢う現実

18章22節以下でイエスに従うことの厳しさが述べられているわけですけれども、この物語の中では、イエスが先に進み、弟子たちがそれに従うという構造になっています。

イエスに従うならば平穏無事というわけではなく、イエスに従っていれば何もかも自分にとって安全で大丈夫だということもなく、やはり嵐に逢うのだということがここに暗示されています。

マタイ福音書の時代においては、ドミニアス帝の治世の時代と重なります。

そこではどのような迫害であったか想像するしかありませんが、いわゆるキリスト教徒に対する迫害というものがだんだん強まって来て、マタイ福音書の編み出されていった教会共同体にもその痛みや恐ろしさが迫っていった時代であると、言われています。

また同時に、自分たちがユダヤ教からだんだん分離していくその過程で。元の共同体からの圧迫や圧力、論争というものが起こる時代でありました。

そのことがきっと念頭にあったでしょう。

そのような苦難の避けどころがイエス・キリストであるということ、そのことへの信頼がこの記事にはあふれている。

そのように読むことができるでしょう。

また、マルコ福音書の違いでは、「なぜ怖がるのか……」と嵐に対して怖がる弟子たちにイエスはそのような言葉を掛けます。

マタイ福音書においても大変印象として厳しい言葉ではありますけれども、この部分はマルコ福音書では「信仰の無いもの」というニュアンスの言葉になっております。

「まだ信じない」ということは、信じていないことをある面でイエスは厳しく問われた、ということです。

ここではマタイはあえて信仰の薄い者たちよと、信仰がゼロではないことを強調します。

意図的な書き換えと言ってしまえばそうですが、揺れ動く迫害の時代の中、隣人が隣人にならなくなっていくその中、揺れる世界の中で、薄い信仰があればいい、薄い信仰でもイエスに従うべきだという励ましの言葉のようにも聞こえます。

現代人である我々にとって、奇跡物語というものは大変難しい物であります。

奇跡は起こらない

奇跡が百発百中で起こってくれるなら、なぜこのように苦しまなければならないのかということを、やはり思ってしまうわけです。

しかし、奇跡物語に対して、また奇跡に対してそのような過剰な期待をしてしまうということは、もしかしたら人間としての分をわきまえていないのではということも思うのです。

奇跡というものは、起こらないから奇跡なのです、

起らないことが神の力によって神のみ心によって起こった時に、私たちはそれを感謝して受け取るべきであって、それ以上のことは望むべきではないのかもしれません、

神と人というものを、もしかしたら分ける物語であるということも、もしかしたらこの嵐を鎮める物語にも込められているのかもしれないとも思います。

奇跡というものは難しい、しかし、奇跡物語に込められた意味というものを奇跡を信じられなかったとしても、私たちは受け止めることができるのではないかということを思うのです。

それは揺れる船という現実に逢って、そこに静かに眠っておられるイエスを発見し、揺れながらも信仰を持ち続けようという、そのような事柄についてです。

いくら信仰を持っていたとしても、私たちは現実の中で揺れながら生きています。

私たちには今はやっている疫病を神の力によっ乞い願っても、今すぐ治めることはできません。

今すぐ終わってほしいと思いながらも、もう犠牲になる人がいなくなってほしいと思っても、それは止めることができないのです。

奇跡を願うこと、癒しを願うことは大事なことでありますけれども、そのような現実が横たわっていることを同時に覚えます。

しかし、そのような現実に揺れながらも信仰をもって何が神のみ心に近いのか、どうすれば愛し合って生きることができるのかを探して生きるのです。

私たちは戦火の絶えない世界に生きています。

1%のマイノリティのすべきこと

疫病の事、戦争の事だけではないのかもしれませんが、私たちの持っているキリスト教信仰は日本人の人口の1%未満だといわれています。

カトリック、プロテスタント、またはたからは区別のつかない、いわゆる三大異端も含めて1%と言われているわけですが、その1%のキリスト教、もし世の中がひっくり返ってしまって、今戦争が起こってしまったらどうなるんだろうということをどうしても考えてしまいます。

私たちは第2次世界大戦中、大きな過ちを犯しました。

それは宗教団体法によって小教団が大教団にならなければならない状況に追い込まれ、日本基督教団が成立したわけですけれども、その中で私たちはできる抵抗をするのではなく、私たちの教団はできる抵抗をしたのではなく、むしろ積極的に積極的に戦争に加担していくことになりました。

礼拝の中で宮城遥拝をし、また、アジアの当時植民地とされている中国・韓国の教会にも神社参拝をするように言ったり、また戦闘機を献品したということも挙げられます。

その中でも私たちの教団は、いわゆる6部、9部の方々、ホーリネス系の方々を裏切り、国の手に引き渡し、厳しい弾圧のさなかに放り込むということをしてしまいました。

そのことは70年前の出来事で、今の私たちには関係ない、むしろその時がまた起こっても、その時は抵抗するのだというふうに、私も本当に申し上げたいし、おっしゃるのかもしれません。

しかしどうなのだろうか、そのようなことが本当にできるのだろうかということを考えます。

何かが起こった時にどこにしわ寄せが来るのかというと、少数者であります。

キリスト者の全体が小さいものというのはまたおこがましいことなのかもしれませんが、日本のなかで神社を参拝したくないという、天皇を神だというふうに拝みたくないというふうに言えなくなってしまうかもしれない、戦争反対だということを言えなくなってしまうかもしれない。

むしろ戦中のように何もかもキリスト教徒のせいにされてしまって、すべて悪いことはあいつらのせいだという風に言われてしまうかもしれない。

そのことに耐えられるだろうかということを思うわけです。

聖書はそのような揺れ動かしに対しても、イエスの信仰を棄てず、むしろその小さな信仰によってイエスを愛し、神と人を愛せということを証言し、私たちに勧め続けます。

むしろ揺れ動く現実のなかで、なるべく被害を出さないこと、事態を大きくしないこと、もっと言うと二度とあのようなことを繰り替えてはならないということを実現することができるようにすること、それが私たちに求められているのではないかと今、思います。

日々の生活のなかで

また、そのような大きなことではなくて、私たちの人生の中でも揺れ動かしというか、嵐というか、そのようなこととしか言えないことがあります。

人生の様々な時期に、何か事故があって事件があってストレスを抱えなければならないことがあります。

そのようなことを聖書は激しい風、嵐と例えているのではないかと思うのです。

嵐はない方がいいに決まっていると思います。

人の心に大きな傷が残るような事件や事故というものもない方が良いと思います。

しかし、それらはどうしても起こってしまうのです。

揺れ動く湖、激しい風というものも私たちにはあるということを認めつつ、その中で何を思い、何を選び、時には主よ助けてくださいと小さな信仰で叫ぶこと、叫びながら生きていくことが私たちに勧められていると、この奇跡物語は教えてくれているのではないかと思うのです。

嵐の中忠実に生きたイエスが十字架にかかるまで忠実であった人生を全うし、それが神と人を愛したがゆえに、人間はイエスを十字架送りにした、ということも言えるわけですが、その嵐を凪に変えてしまった出来事が、イエスの復活の出来事ではないかと思うのです。

この場合凪に変えられたということは、神が最終的にはすべての責任を負ってくださり、また、イエスの人生は極めてそれでよかったのだということを示すがゆえに神はイエスを復活させてくださったということを信じます。

私たちの人生はこれからも嵐が続くでしょう。

その中で私たちはイエスのことを大事にしたい。

神を愛し、隣人に奉仕する生き方を大事にしたい、そのように願います。

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