2021年9月5日 礼拝「ヤコブとペテロの運命」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「ヤコブとペテロの運命」
・聖書箇所:使徒言行録 12章1節~5節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

35周年に当たって

いまから35年前、ひとりの小さな信徒の祈りに押し出されて、このところに本当にみすぼらしい教会が建てられて、35年の歩みを続けてまいりました。

そもそも、教会とは何なのか。教会を立てるとはどういうことなのか。
色々考え方はあるのだろうと思いますが、みんなが集まって聖書を読み、讃美歌をともに歌い、祈りをともにして主の恵みをともに与る喜びを味わうのも教会の一つの在り方なのかもしれません。

私が神学校へ入り、まずびっくりしたことがいくつかあります。
それは、キリスト教神学というのを、言葉では知っていましたが意味をよく知りませんでした。
教団から先生がこういうことをおっしゃいました。

「神学とは教会に奉仕する学」であると。
これは私にとっては目から鱗というか、そういうことがあるのかと。
神学とは教会に奉仕する学である。

そして、教会は社会に奉仕する場所なのだという。
私にとってはショックな一言でありました。
この時の先生の声まで記憶しているほどにショックをうけた言葉でした。

そんな中で35年の歩みの中で、困難さというか、時にはやりきれなさというか、力が抜けてしまいそうな様々な出来事を経験してまいりました。
去って行かれる方の中には生唾をひっかけて去って行かれる方もおられましたし、涙を流して去って行かれる方もありました。

全て私の至らない宣教活動の中で相手を躓かせたり、悲しませたり、あるいは生身を解き放つ結果として起こったこととして、本当に眠れない夜も何度かありました。

そんな中でこれは教会とは直接関係ないのですが、ある立派なお医者さんのお連れ合いさんでいらっしゃる方が、我々視覚障害を持つ者のために熱心に本を朗読してくださり、カセットテープに吹き込んでくださる方がいらっしゃいました。

とてもきれいなお声の方で、教養のあるような感じの方で、一度お会いしたいと横須賀に出かけました。
そしていろいろ話をしていた時、こういうことを言われました。
皆さん考えてみて下さい。

~を示唆する、という言葉がありますね。
その言葉をどういう風に記憶しているのかわかりませんが、その方は「ししゅん」と読まれるのです。
でも、それは「しさ」と読むのではないですか、というと、「ちゃんと『しさ』と読んでいますよ」というのです。

でも朗読テープを聞くと「ししゅん」というのです。
私は人間の脳がどういう構造をしていてそうなるのかはわかりませんが、そのことを話題になった時、その方からこう言われました。

「私はこの年まで健常者として当たり前に生きて来たのですが、ところがここへきて自分は一生懸命奉仕をしているつもりでした」ついついそれが奉仕の尊さをいつの間にか自分の誇りに帰られてしまっていると思うのです。

そうするとそれに対していろいろ言われると自分のプライドを傷つけられてたまらないことになってしまうのです。

「私はちゃんとした当たり前の視力をもって間違いなく読んであなたたちに聞かせようとしているのです。それなのに読むことができないものから注意を受ける、間違いを示されたということは、侮辱にすら感じる」

と。

みなさんがどう感じられるかはわかりません。
それに似た経験はたくさんありました。

目が見えない先生はどうやって勉強するんですか、どうやって本を読むのですか。
これは教会のある婦人会で質問を受けました。

もちろんその方にとっては知らないことばかりだったのでしょうが、知らないということはおっしゃらず、自分たちとは違った生き方をするものへの不思議さや奇妙さをお持ちだったのかもしれません。

ことごとに献上であることが強いと前提して考えると、強いものが弱いものによってうんぬんされるということは強さの侮蔑だ、と取られてしまうという認識が社会構造を作り出しているのだと思うのです。

いまさらこの歳になってあなたから聞かされたくない。
どう見てもあなたは教師らしくない、牧師らしくない、世俗的だ。

この伝道所には本当のキリスト者はいないとまで言われました。

宗教がある意味で非俗化したときにそこに必ず対立が起こるのだと、これまでの様々な宗教団体がこの世にあって滅んでいった歴史を紐解いていくと、宗教が非俗化したときにそこに対立が生まれ、戦いが生まれ、どちらかが滅び去っていくという運命を担っていくことが、真の宗教なのか。

我々日本人は仏教の歴史の中で一つの文化を形成してきたことを考えると、あの仏教が比叡山という高貴なところから下山して世俗化していった後年の弟子である親鸞の仏教の世俗化が、むしろ仏教として受け入れられていったことを考えていくと、果たしてこの伝道所が世俗的でキリスト者らしくなくて、と言われることが何なのか、考えさせられるわけです。

使徒言行録の時代

そこで使徒言行録の第12章のなかで、そのころという時代背景があるわけです。
私はここでヤコブとペテロというタイトルをつけたのですが、イエス時代、イエスが亡くなって10年から20年たった時代にクリスチャンとされた人々に対して当時のローマ帝国の迫害を受けて、当時のローマの支配者であったヘロデ王がヤコブというヨハネの弟が殺されることで喜んだと書いてあるわけです。

これには複雑な歴史的背景があるのではないかなと思うのです。
私なりに憶測と妄想を加えてこういうことだと思うのです。

イエスの時代は福音書に書かれている通り、悲惨でなんとも言えない混沌とした社会情勢の仕組みの中にあって、ヨハネという預言者的な存在の彼にとって、荒野――我々の社会――に向かって天国は近づいた、と叫んだ。

要するに不正はやめろ、と彼は宣言をしたわけです。

これはある意味では当時のローマ帝国の支配と腐敗と横暴さに対する宣言ですから、ある意味では不正を見破られる、責められる立場にあることは、彼らにとっては最も危険というか、避けなければならない宣言であるわけです。

ところが、ヨハネの弟であるヤコブはヘロデによって殺されたことで、当時の人々にとっては喜びであったという。

人が殺される、ユダヤ人であるヤコブが殺されることに喝采するということがどういうことなのかということなのです。

一方でもう一人の、イエスの弟子であるペテロは殺されないのです。
牢につながれて獄中生活に入るのです。
なぜここで区分されるのか。
なぜペテロは殺されないのか。

ヤコブといった二番手三番手の人間が殺されたのか、という歴史的背景はとても面白いと思うのです。

どうしてヤコブは死んだのか

ペテロを中心としたエルサレム集団のパリサイ人などの人たちは半々にローマ帝国に協力している人たちです。
税金などで半分協力している人たちなのです。
ですから協力しているユダヤ人集団、エルサレム集団をローマ帝国は滅ぼすわけにはいかない。

だけどもエルサレム宗教をも支配するローマ帝国の支配に対して正しくないというヨハネ集団は、ローマ帝国にとっては敵でしかありません。

このあたりの社会的、政治的なからくりの中でかろうじてペテロ集団だけが行かされたということなのです。

このあたりがとても難しい、一口では結論の出ない歴史的な現実があったと思うのです。
この政治的な問題の現代化というものが、実はつい2~3日前、日本の政界で起こったことととても似ているなと思いました。

聖書から学べること

毎日毎日テレビなどでコロナの感染状況を報道されるわけですが、重症者とされる人たちが毎日増えた減ったとというのですが、重傷者が増える数と、自宅放棄ともいわれる自宅待機者の死亡者の方が、重傷者の数よりも多いことが、テレビもラジオも一切報道しない。

そして重傷者が千何百人、自宅待機者が十何万人、そして亡くなる方は自宅待機者の方が多い。
重傷者とされる人たちがどれくらい亡くなるのか、私たちの耳には入ってこないわけですが、あのあたりが自分の首を自分で斬らざるを得なかったという支配者のある種の無能、というよりも悪だくみの結果として、自らの首を自ら切らなければいけなかったということを、私たちは聖書の出来事を通して学ぶことができるのではないだろうか。

やがてローマ帝国のヘロデも亡くなります。
そして殺されたはずのエルサレム宗教は、世界の宗教として公認される。

この不思議さ、歴史に対する神の介在のみえないすがたを、私は感じるのです。

今朝もある宗教学者がコロナの関する痛みの共感という話を指定らっしゃましたが、その中にはキリスト教的な信仰を否定しながら、キリストである神というものをその話の中に潜ませていると私が感じたことを話されていて、この教会というのは大きいから宣教に成功した、集まらないから宣教に失敗したということは、神の身体への侮辱だと。

「教会の大きさ」はバロメータではない

大きいとか、小さいとか、たくさんの人が集まるとか、それが成功のバロメータのようにしてすることは、私は神の身体としての教会に対しての侮辱を含めた発言ではないのか。
イエスの十字架のもとから、どれだけの人が群がったのか。

本当の意味での救いに与った人たちは、どんな姿でとこへと向かったのか。
そのことの現実を、今私は政治の現実の中で見せつけられるような、錯覚であればいいのですが、もしかすると事実として、私たちの心の中に刻まなければならない。

教会はそのことに痛みを感じなければならないのではないか。

それもまた神の恵みだと言ってしまっては、犠牲になった方に対する十字架の意味するものがふき取られていく、捨て去られてしまうということを私たちは考えなければならない。

そのことに小さな教会が小さなままに建てられていることの方が、主のみ旨にかなって福音的ではないのか。

決してこれは自画自賛する在り方ではなくて、イエスご自身の宣教使命の中にそのことが秘められていることを学びつつ、現実の社会で起こっている人間の悪だくみさを私たちは冷静に見抜いていくことが、そして100人の教会の人たちが沈黙するよりも、数人の教会が発言することの方が100人に勝って大きな声になるのだということを、私たちは改めてこの日を覚えながら感じさせられた次第です。

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