2021年8月22日 礼拝「異邦人教会の誕生」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「異邦人教会の誕生」
・聖書箇所:使徒言行録 11章19節~30節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

パラリンピックという差別

この24日からパラリンピックが行われるわけですが、原則として無観客でありながら、学校の子どもたちは教育的な意味をもって参観させるという、真に正当な、不可能を可能にしている障碍者の人たちの能力や意気込みを教育の場面にしようという目論見で子供たちに観戦させようとしているわけです。

すでに神奈川県内でも、こんどの高校野球でも選手たちがコロナに感染したことで出場を辞退したりしている学校がすでにあるわけです。

しかしその責任は誰がとるのでしょう?
高野連でしょうか、学校でしょうか、子どもたちひとり一人でしょうか。

あいまいなままにしているということを考えると、パラリンピックの選手側に立たされている側からすると、そういうことのために障害を持つ人間の持つ力を見世物にされることのつらさを私は感じるのです。

そうすると義足の人が走り幅跳びをした、といったことをやればできる、あの人たちすらもできたことがなぜおまえにできないのだ、そういう評価をするためのオリンピック競技であるとするならば、これほど差別的なことはない。

それから、子どもたちをそういうところへ入場させて見せる、観覧させる。

これを聞いた時、いまだに行方が分からないアフリカであるテロリストが何千人もの子供たちを誘拐していまだに解決していない事件がありますが、それにそっくりだと思うのです。

教育を口実に、安心安全の子どもたちを不安の中に連れ出して、もしも一人でもコロナに感染したときに文部大臣は責任を負うのだろうか、割腹するのだろうか。

そういうことに対して私たちは声をあげようとしない。

これは暗黙の賛成、と言われても仕方のない、自己責任共に共同責任を負うということが、人間、人であると思います。

人は一人でも生きていけます。

しかし人間は人を超えて生きるためにはもう一人の人が関係して人間になるわけですから、それがなくなった時は単なる生きものとしての人間でしかないのです。

このことを基本的な姿勢が欠如したときに、なぜか材料にされていくということの虚しさ、つらさを考えざるを得ない。

大切な箇所

先ほど読んでいただいた使徒言行録11章の19節から30節まで、とても大事なことなんです。

ここでは異邦人という、聞きなれない言葉が出てきますが、例えばオリンピックの選手の中から難民申請をして難民として日本などで生活したいという人が出ているわけです。

私たちはあまり感じていないですね。

ああそうか、くらいで、不幸だな程度で過ごされるわけですが、先ほど読んでいただいた個所では異邦人とされる人たちの中では、例えば在日韓国・朝鮮人が挙げられます。

戦後彼らは日本にいるのが嫌なら帰れと言われて帰った人たちもいますが、イエスの時代もそもそもイエスという人物は並外れた気ままで勝手で自分よがりな暴れん坊だったのかもしれません。

社会の秩序を破るかのような彼を何人かの人たちはそこにイエスの行為、ありかたを聞きながら、そうじゃないんじゃないかと思うようになった何人かの人たちも殺されたり迫害されたりしたわけです。

その中に最初の殉教者としてのステファノがいるわけです。

話によるとステファノは土の中に首まで埋めて尋問するという殺し方で尋問されたようです。

テロリストとされる人たちがアフガニスタンの政権を握って人々が散らされるということが起こっていますが、そういったことが聖書の時代でもあったわけです。

いわゆるディアスポラ、流浪の民にされたわけです。

ですから、エルサレムという神殿を中心とする地域に住んでいるユダヤ人の他に、周辺の国々に散らされた、捨てられた人たちがたくさんいたわけです。

そこへ自分たちの先祖ともいえる、悪い奴と言って殺したイエスは、実は私たちの救い主になるのではないかと思うようになって、そうだそうだと認められることで、自分たちの考えていることは正しいのだと、これはほおっておくわけにはいかないと始まったことが、いわゆるエルサレムの中心主義から、異邦人社会へキリストは悪い男ではなく、捨てられた者の友達であり救い主だと信じる信仰運動が生まれた、と語っているわけです。

そこにかつてはイエスを救い主とした奴らは異端者だと暴れたサウロという人物が、死後のイエスと出会って回心をするわけです。

そこで生まれ故郷で隠遁生活をしていたわけです。

そこにバルナバという男がサウロを見つけ出し、彼を押し立ててキリスト教の伝道者とし育てていったということが書かれています。

その時にローマ帝国の大火災が起こるわけです。

敵対者が指弾されるとき

その時の皇帝はネロと言いますが、その犯人はキリスト者だということでキリスト者の迫害が起こるわけです。

その想像は今でもします。

真相はわかりませんが、コロナは中国の武漢でおこったと言われています。

恐らくこの同じアメリカでもローマで起こったとは言わない。

最も驚異のある競争相手の中国を名指しして彼らを責めているわけです。

関東大震災のあとの放火事件に関してもいわゆる朝鮮人の放火だろうと、朝鮮人虐殺が起こったわけです。

イエスの時代もローマの大火や飢饉というのは当時の迫害を受けていたキリスト者が起こしたのだと大迫害を計画するわけです。

それに対して、神様から捨てられたとされていた人たちは、何が起こったかわかりませんが、ローマ帝国にあったエルサレムの教会の人たちが、苦しい生活を強いられていた捨てられた異邦人を含むひとたちを含む人たちを何とかしようと資金を集めて教会を助けようとしていたということがこの物語の出来事です。

喜びに満ちた献金

ここで驚かれるかもしれませんが、どれだけの資金を集めて送ったのかは知りませんが、これは喜びを満ちた人たちの献金なのです。

これが言いたい。

お金の額やしてくれた人たちよりも、この人たちが喜びを悲しむ者たちと共有したことが聖書のなかに書かれている。

今私たちはコロナというものに閉塞化しているわけです。

中には教会生活が成り立たないような貧しい教会もあるはずです。

大きな教会も含めて頬被りをして沈黙を守り続けているということは、イエスが主である喜びでない教会。

資金はあっても、それが欠落したときにそれは喜びも恵みもみんな自分の枠の中にしまい込んで大きい、多額とほくそ笑む教会だとすれば、私はコロナというものがおそろしいといいうことと同時に、学ぶべきものもあるのではないか。

自然をどうとるか

西から東に風が吹く、何の意味もありません、

ただ被害をもたらすだけかもしれません。

しかし、自然もまた、神の想像の産物だともし理解するなら、そこには無意味さはない。

いい面と悪い面があるだろう。

私は良い面を見つけていくか、悪い面を呪うか、それは我々に与えられている。

台風にあるわけではありません。

我々が受け止め、どう理解し、反応するのかを学ばせてくれるのが、このコロナだろうと思うのです。

それは原始時代の歴史を2000年も昔の、電車もバスもなかった時代の事ではなく、地上から月の世界まで飛び立つことのできる今、このことをわからなければ、コロナは単にいけないものというマイナス思考ではいけないのではないかと思わされて、そういうことを皆さんがとしを召すことによって、家族や命のことを折に触れてつぶやいていた先輩方の声を聴きます。

まさに形や様子は同じでなくても、先輩の嘆きの声の中に、私たちの生きる道があるのだなと思いつつ、喜びと感謝をもって礼拝をおささげしたいと思います。

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