2021年8月8日 礼拝「覚悟」(北口沙弥香教師)

礼拝説教
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・タイトル:「覚悟」
・聖書箇所:マタイによる福音書 8章18節~22節
・担任教師:北口沙弥香 教師

先生と律法学者

本日はマタイ8章18節から22節の、イエスが二人の弟子に、弟子とのやり取りによってイエスの弟子である覚悟を、その覚悟がどのようなものかを伝えている物語を、聖書箇所として選んでおります。

イエスは自分を取り囲んでいる群衆をご覧になって、弟子たちに向こう岸に行くように命じたと書かれております。

向こう岸に行くようにという言葉から、ここは、もちろん場面がはっきりしないわけではありますが、ガリラヤ湖畔にイエスとその弟子たちはいるということを聞いているものに伝えている、そのような場面設定がされております。

具体的にどこにいるのかわからないけれど、ガリラヤ湖畔にいるということを聖書の、聖書と同じ時代を歩んでいる人にはそのようにわかるということです。

その時にひとりのイエスに好意的な律法学者が近づいてきて、「あなたがおいでになるところならば、先生、私はどこへでも従って行きたい」というようなことを言います。

それに対してイエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもないのだ」と、肩透かしを食らわせるようなことを言います。

もう一人の、また別の弟子が近づいて、「主よ、まずは葬りに行かせてください」と言います。

「葬りに行かせてください」ということは、この人はもしかしたらお父さんが死んだばかりなのかもしれません。

それに対してイエスは、「私に従いなさい。死んでいるものだけに自分の死者を葬らせなさい」と、これまた辛辣な、もっと言えば常識的に外れていることを言われます。

このような短い問答が二つ重なることで、イエスの弟子とはどういうことかを聞くものに促す、という物語です。

嵐の奇跡に続く物語

この部分、18節はマルコ福音書の4章35節であります。

そのあとにルカ福音書の9章57節から60節の言葉が続くという形になっています。

実は18節の言葉、マタイ福音書においてはその後の23節のイエスが船に乗られたときに嵐が起こってそれを鎮める物語に続くようになっています。

この群衆を囲んで向こう岸に行くようにと命じられていることと、嵐を鎮めるという物語の間に、マタイ福音書、ルカ福音書に共通するイエスの言葉が挟み込まれているという言葉です。

マタイ福音書の18節の19節、22節、ルカ福音書の9章57節と62節、9章の57節から62節のイエスの言葉がほぼ、ギリシャ語でも一緒であるという風に言われています。

確実にイエスの言葉資料からとらえたものではないかという風に学問的には結論付けることができます。

嵐を鎮める物語の前に、イエスの弟子たるはどういうことかをイエスの短い言葉で指し示すという、そのような形式であることをまずは覚えたいと思います。

イエスのことの短い節の中で、二つのことを言っているわけですけれども、一つ目の言葉はイエスに従おうとする律法学者がいて、その人のイエスに対する従順を示したことに対してのイエスの返答です。

マタイ福音書においてイエスのことを「先生」と呼ぶのは弟子たちではなく、敵です。

むしろ律法学者が「先生」と呼ぶときにはイエスを陥れようとする場面が思い浮かびます。

福音書の後半にイエスを試そうとして律法学者が近づき、あれこれ議論を吹っ掛けるという場面が出てきますが、その時にも律法学者はイエスのことを「先生」、あるいは「良い先生」と言って近づいてくるわけです。

ここでもイエスに近づいてくる律法学者は、イエスのことを「先生」と言ってきます。

この「先生」という呼びかけで、この律法学者はイエスのことに関心をもち、イエスに従いたいとは願うけれども、イエスに従えなかったものということを象徴しているのではないでしょうか。

イエスは狐には穴があり、空を飛ぶ鳥には巣があるけれども、人の子には枕する所もないと、イエスに従おうとした律法学者に答えます。

「人の子」

人の子には枕する所もない。

人の子というのは、福音書においてはイエスの自称、一人称ということになるわけですが、そうすると狐にはねぐらにする穴があるし、鳥には巣があるけれども、自分には家も無ければ枕するところもないのだということを言わんとしているのです。

ここで人の子ということについて確認したいと思います。

もちろん、先ほど申し上げた通り、福音書においてはイエスの自称であります。

イエスが本当に自分のことを生前「人の子」と自称していたのかは定かではありません。

むしろ、あとから申し上げる結論のところから考えると、天皇におけるかつての一人称「朕思うに~」の朕、イエスの権威付けをさせるために福音書記者たちがイエスに自称させた一人称ではないかという風に考えられるわけです。

「人の子」という言葉だけでは人間の子ども、人間、ということを逐語的に訳したものであると言えます。

例えば聖書では、もちろん今から出てくる言葉は厳密にはアラム語ではなくヘブライ語ですが、感動的なところでは詩編の8編5節の言葉がありますが、神の技に対しての人間の技の小ささというものを対比させ、神のすばらしさを賛美するのが詩編8篇ではございますけれども、ここで言う人の子はまさしく人間ということであります。

月も星もあなたが作っておられたのに、そのような力のあるあなたご自身がこんなちっぽけな人間に配慮をくださるとはいったいどのようなことなのかを感動をもって伝える詩であります。

ほかに旧約聖書において人の子が挙げられるのは、エゼキエル書2章1節です。

ここではエゼキエルのことが人の子と読めるところが出てきます。

2章1節に神の言葉があります。

ここでの人の子は文脈上、明らかにエゼキエルのことを指すという風に読むことができます。

エゼキエルに「自分の足で立って預言をしろ」ということを促す神の言葉です。

そのような意味で本当に人間という意味、人間の子どもという意味で「人の子」という言葉がまず使われます。

そのような人の子。

時代が経つにつれ特別な意味が与えられます。

ダニエル書の7章13節以下に天敵の存在としての人の子ということが紹介されています。

どうやら終わりの日には人間のようで人ではない力を帯びたものが天の雲に乗って来るのだという風に信じられたようです。

そのダニエル書における人の子というものがイエスの預言であるという風にみなされ、福音書記者もイエスに力を持たせる呼称として、イエスの自称として大事な時には「人の子は」とイエスに述べさせた、ということができるのではないかと思うのです。

マタイ福音書の意図としては間違いなくここでの人の子、暮らすところもないと言われた人の子は間違いなくイエスのことであるということができます。

「死者に葬らせなさい」

もう一つ、次の言葉、「父を葬りに行かせてください」と言った人に対し、「自分たち死者に葬らせなさい」という辛らつな言葉を浴びせるイエスについてです。

どうやら当時も十戒の第5戒に「父母を愛せ」という掟があります。

その言葉から、父母が亡くなった時には弔いをするのが当然の義務として課されていました。

子どもたちには埋葬に出席する義務があったのでした。

その義務を超えて、葬りなんてしないで私に従いなさいとイエスはいうのです。

イエスの弟子であるかということは、今までなにをしてきたかという事よりも、その時その時でイエスに迫られること。

それがこの世の掟を超えてどうするかということも含めて、その都度その都度決断を迫られる。その決断に対して応答することによってイエスの弟子たるかどうかが決まっていくということをここでは言わんとしている、そのようにも読めます。

どこへでも行きますと言った律法学者には、私が行くところには枕するところもないのだよ、つまりどこにも居場所がないんだという、まず自分の父親を弔いに行かせてくれというものには死んだ者は死んだ者たちの仲間にやらせればいい、あなたは私に従いなさいといわせるイエスの問答。

マタイ福音書の意図としてはその通りだと思います。

しかし私はここでマタイ福音書の意図を外して考えてみたいと思います。

イエスと律法学者の問答にマタイ福音書では置き換えられていますが、どこでも行きます従いますという人に対して狐には穴があり、鳥には巣がある一方で私には枕する場所もないという言葉は、私は先ほど肩透かしと申し上げましたが、何処かずれているような気がします。

ということは弟子とは何かとか、誰か相手がいたから語られた言葉ではなく、元の文脈は他の文脈で語られた可能性があるのではないかと思うのです。

人の子を読み替えてみる

そしてあえて人の子ということをイエスの一人称ではなく、人間という意味で取ったらどうかということを考えるのです。

イエスではなく、人間には枕するところがない者がいるのだと考えるのです。

人間の中に配慮を受けられず、うち捨てられているものがいる。

その人たちのことをイエスは現実にわきまえてこの言葉を投げたのかもしれないと想像します。

そしてその言葉の隣に、死んでいるもの~と並べられています。

元の想像されている語録資料はこの世には現存していません。

したがってこの言葉たちが並べられていたという確証はないわけですが、マタイ福音書やルカ福音書では並べられているということが、私には大変興味深く思えるのです。

人間に枕するところはない、住むところがない、現代で言うホームレスのようになっている人たちがいるという言葉の後に、死んだ人間は死んだ人間に任せよという言葉が続く。

それはどういうことかと言うと、人間としての当然の義務とされている親の葬式を当然に上げられない人がいるということを、イエスは現実のこととして念頭においたのではないかと思うのです。

そう想像するならば、父親を葬ることができる掟をまもれる現状恵まれている人よりも、自分の親すら葬ることのできない人を優先させることがイエスに従う人だという風に読むこともできるのではないかと想像するのです。

自分の親を葬れない人たちを覚えて

社会的義務である親の葬式すらあげることのできない人たちを、現実の中で解っているイエスと共に歩むのが本当のイエスの弟子なのではないかという、もう一つの読み方ができるのではないかと思います。

コロナ禍前から言われていたことではありますが、日本の葬式というものは死んでから病院に営業にやって来て、大変な時にろくに説明もされず、相場だからと法外な価格設定のお葬式をされてしまうという話も聞きます。ほとんどの葬儀屋さんは良心的な価格でやってくださっているのだと思うのですが、1回の葬式にかかる金額というものはなかなかだと思います。

5年ほど前に私は母方の祖母を送っているわけですが、祖母の見取りから骨になるまでを送ったものの親族として体験することができたわけです。

もともと付き合いのある葬儀屋さんにお願いしていて、近所のセレモニーホールを利用しました。

祖母もホームにいたものですから社会的つながりも弱くなっているし、友達も多くない方でしたからそんなに来ないと思っていたのですが、見栄っ張りな所もあり、一番広い斎場を準備してもらいました。

そこにはもちろん立派な祭壇も設けられ、普段から付き合いのある浄土真宗のお坊さんに戒名もつけてもらってということも含めて、私の年収の3分の1以上の金額が1回で飛ぶのです。

正直恐ろしいと思いました。

実際には払えないこともないですし、法外にも感じられる葬式代もそこまでではないと感じつつも、やはりそこには心臓の飛び出すほどの金額という現実があるわけです。

その中でそのことを思う中で、葬儀代を払えない貧困があるということを思わされるわけです。

私の友達に生活保護を受けている人がいます。

葬祭費がどのようになっているかを調べることはできなかったのですが、どうやら本当に市区町村によっては生活保護を受けている人が亡くなってももしかしたら棺代も出してもらえないのではないか。

社会から疎外された人は最後までそのような目にあっていくということを不安がる友人がおりました。

そこで社会的実践として当然とされていることが当然にできないという現実がすでに怒っているということを感じます。

イエスの言葉の意味

イエスはどちら側にいたのかということをやはり考えるわけです。

死んでいる者たちに死者を葬らせなさい。

恵まれて死んだ人はその仲間に葬ってもらえばいいのだ。

私は葬式すら挙げてもらえない様な人たち共に生きるのだと、後半の言葉を読むのなら、イエスはやはりそのような人と歩んだのではないかと想像するのです。

どこにも行くところがないよということをマタイは言わせた。

一方で社会的なつながりのある人はつながりのある人に任せればいい。

私たちはむしろつながりの切れてしまった人の所に行くのだという決意の言葉をよめるのではないかと思うのです。

イエスの弟子としての覚悟

イエスの弟子になるとき、社会的なつながりを重視する人たちにとって不都合なかかわりをして行くこと、社会的なつながりの切れた人と再びつながっていく、というのはやはりある時には尊敬されない、ある時には白い眼で見られるということも起ってくる。

それでもイエスに従うのだということだということはできないかと思うのです。

そこには弟子としての覚悟が必要になってくるということではないでしょうか。

マタイ福音書のストレートな趣旨ではないという一方で、私たちはそのことを大事にしなければならないということではないでしょうか。

私たちは誰の味方であるべきでしょうか。

もちろん強いものの味方ではなく、むしろ持てない者、社会の中で不都合を抱えている者の味方でいたい。

私はそう思います。

それがイエスの弟子であることを、イエスの仲間であるということを表す生き方であろうと思います。

時には本当に難しいし、つながりたいと思うことで心にむずかしさを遺すこともあるでしょう。

それでもそう願ったときに、イエスのことが本当に解ってくるのだと思います。

イエスに従うことは安易なことではありません。

安易のことではないことを私たちが選ぶとき、その厳しい言葉が自分の言葉として読みたい。

そのように思います。

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