2021年8月1日 礼拝「異邦人も聖霊を受ける」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「異邦人も聖霊を受ける」
・聖書箇所:使徒言行録 10章44節~48節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

どうってことない箇所の読み方

驚きと恐怖と、それにも増した感謝の思いを抱きながら、私たちは歴史を学んでいるのであります。

私たちが手元に持っている聖書は、旧約聖書と新約聖書の両方が載っています。

旧約聖書と言えば天地創造からユダヤの人たちの奴隷解放の約束といったものが書かれていて、しかしそれに拘束されたものからはみ出た、あるいは排除された人たちへの神の愛をお示しになるために、キリスト、あるいはイエスというものをこの世にお使わしになって、一種の革命的な出来事が起こったということが聖書の中に記されているわけです。

さきほど読んでいただきました使徒言行録10章44節以下は、字面だけ読んでいるとどうってことありません。

イエスの死後、イエスの最愛のお弟子さんであったペテロが、エルサレムを中心とした田舎、サマリア、エチオピアといった国にイエスは福音の主だといううわさを耳にしたペテロは、それを確認しにエルサレムから地方巡業をするわけです。

そこでいろいろな出会いがあるわけです。

その一つがユダヤ教にとって最大の敵である、武器を持ったローマ兵がいたわけです。

その隊長さんであるコルネリウスに出会います。

この隊長さんは初めからキリスト教で言う神様を信じていたとは思えないわけです。

どういう神様を信じていたかわかりません。

もちろんユダヤ教で言うヤハウェという神様を信じていたとは言えないわけです。

イタリア・ローマの人からすれば敵国の神ですから、イタリアの人たちがユダヤの人たちの信じているヤハウェという神を信じているとは思えないわけです

しかし、それとなくコルネリウスというひとは、自分で作っている神様なのか、あるいはイタリアで流布されている神様を信じていたのか知りませんが、彼はとにかく信仰深く、慈悲深く、人にやさしくしていたひとりの軍隊の隊長であったことだけは間違いない。

これはコルネリウスの側から見たコルネリウスです。

これを逆に敵とみているユダヤの人から見ると、これは許しがたいことです。

しかも我々を抑圧する者が自分と同じ神を信じているとしたら、ユダヤの人からすれば納得のいかないことになるわけです。

その納得のいかないローマの兵隊であるコルネリウスが、どうもエルサレムの側からすると自分たちに近いあり方をしていると認められるわけです。

その確認をコルネリウスはするわけです。

お会いしたい、と。

こういう出来事を我々の世界からすると許しがたいわけです。

依然としてユダヤの人たちは強烈な支配下にあるわけですし、土地も、お金も、仕事もとるローマ軍に対して、憎しみこそあれ、愛はないのに、自分たちと同じ神を信じて近寄ってくるということは我慢ができないのです。

しかしこの出来事が、ペテロに対してもコルネリウスに対しても幻という、我々には想像もできない力によって動かされているということを前提に、ルカという聖書記者は描いているのです。

主義化の危険性

我々の思いではなく、神の働きが先行して憎しみに憎しみきれない兵隊たちを、最近はやりの言葉で言えばインクルージョン的な働きで理解してしまうと、一番分かり易くて一番危険なことになってしまう。

イデオロギーを宗教化してしまったらこれほど恐ろしい宗教はないのです。

このユダヤ主義、ローマ主義、イムズ、主義を導入して宗教を力にしてしまったとき、本来の宗教の意味性を失っていると思うのです。

ですから、教会にしても何にしても、イデオロギーを宗教にしてはいけない、あるいは宗教の中にイデオロギーを入れてはいけないというのが私の考え方です。

例えば宗教改革以降、律法主義に対抗して福音主義という言葉が使われるようになります。これは特に19世紀20世紀の教会では福音主義という言葉が使われます。

福音が主義化したとき、必ず排除する対象があるということです。

だからこそ、主義を教会に持ち込んではいけないというのが私の考え方です。

我々日本で言わせれば、福音派、社会派という風に区分けし、色付けしてあの色に染まってはいけないとか、ああいった形式を取ってはいけないなどと断絶、分断を作り出していくということはもっとも宗教が犯しやすい、そして犯してはならないものである在り方だとずっと思っています。

私はだからこそ、福音主義という言葉を好んで使いたくない。

どこまでも福音なのであって、それが主義化したとき、イデオロギーが入り込んで、そこに排除の論理が働いていくということなのです。

この原始キリスト教時代もそういった思考が入り込みながらの、当時の使徒とされる人たちは苦しみに苦しみを重ね、挙句の果てにこの天国のカギをゆだねられたペテロを非業な死を遂げなくてはならなくなってしまった。

これは簡単に読み過ごしてはならない出来事だと私は思います。

こうしてはならない、とか、ああやってはいけないという否定の論理が働いた時に初めて排除の論理が生まれてくるというわけです。

もちろん、すべてがしてよろしいというわけではありません。

それはどこまでも良心であり、信仰を育ててくれる良心にのみなしうることであって、思想とか、そういうもので枠づけられてはならないものだと思うのです。

神中心的とペテロの説教

ここでもペテロはもちろんイエスの、後継者とされたもっとも近いお弟子ですから、ペテロの名を通らなければ権威を持ったペテロなわけですが、それでもイエスもペテロも、ユダヤ人であり、ユダヤの律法にかなう教育と訓練を受けてきた人たちであるわけです。

旧約聖書を読んでいるとよく出てくることは、わたしはあなた方の神であるという、我と汝の関係が言われているわけです。我という神と汝という民の契約関係ができている。

そこで約束が独善を産んでいくこともあるわけです。

ですから、律法でもなんでも約束事であるわけです。

この原則を現代プロテスタント神学などでは神中心的な枠ができ、それからいまだに突破できないまま良しとしてしまい、それが偶像礼拝になりかねない、誰も打ち砕くこともできない、ピラミッド的な在り方によってピラミッドという偶像化された神中心主義というものが生まれて来たのではないかなと思うのです。

そうするとそれは誰が見ても偉大であるし、誰が見てもこれを打ち壊すことはできない、恐れと畏敬というものが生まれてくると、キリスト教も一つ偶像崇拝的なものになりかねない危険性を持っていると私は思うのです。

そういうのを考えながら、ピラミッドに群がるアリのようなイデオロギー化してしまうと、ピラミッドも偶像化されていってしまうのではないかなと思うのです。

そうするとアリのように登れない人、ただ遠くから眺めているか、あるいはピラミッドの足元で土下座をして貧しい生活をしている人たちなどがぞろぞろいるわけです。

そうすると、ピラミッドは一体何なのかという問いかけが必要だと思うのです。

そしてペテロが演説をするわけです。

すると聞いていた人たちはこぞってペテロの言葉を受け入れていく。

受け入れるということは信仰を持つことなのか、受け入れていくということなのかは書かれていませんが、信仰が生み出されて、そしてたくさんに人たちが洗礼を受けたと考えてしまう、つまり洗礼が一つの条件になっていく。

そうではなく、例えば教会にキリスト教に初めてであった人が来て、説教を聞いて感動して、じっとしていられなくなるということを経験する人がいます。

戦後すぐに開かれたビリー・グラハムの集会で、洗礼を受けるための列に大勢の人たちが集まっていたことを今でも思い出せます。

感激した人たちも大勢いたそうです。

それはビリー・グラハムに感動したのか、ビリー・グラハムを通して神の働きがその人たちを動かしたのかという情景は、ペテロの説教を聞いてたくさんの人たちが一種の動揺をし、ペテロを通して働く神の力が示されたと言ってもいいのかもしれません。

そこで洗礼者ヨハネに習って水で洗礼を受けることになったと。

洗礼は信仰告白をした者だけが受ける一種の特権階級のようなものになっていますが、神の言葉を聞いた人たちは神のことばを受け入れた経験を施されるわけです。

ところがそれを見聞きしていたペテロと、一緒についてきた人たちは、ユダヤ人は洗礼を受けようと受けなかろうと男性は生まれてから8日後にユダヤ人という告知を体に受ける割礼を受けるわけです。

この施されたものはユダヤ人として死ぬまで証人としてユダヤ人として施されるわけです。

その人たちまでが水で洗礼を受けたというのです。

ある意味では転向したわけです。

どうして命を犯してまで洗礼を受けるのか

私たちにはこのような制度はありませんから実感できませんが、掟を破って主義を棄ててほかの宗教に受け入れていくということは命がけだったのではないでしょうか。

日本人はほかの宗教に関わっても問題ありませんが、ユダヤの人たちにとってはそれは律法やぶりの罪人になるわけです。

だから死刑に値する叛逆行為になるわけです。

ですから、ペテロたちは割礼を無視して、神の指導のままに動くということは、そこに命を掛けるというものがあったのだと思うのです。

私も小さなころ、戦争中でしたから幼年学校などに行く人たちが大勢いました。

そして見送りにも出たわけですが、そのたびにどうも納得いかないのが一つあったのです。

それがなぜ死ぬところに行くのかという事でした。

昨日まで友達だったひとが死ぬかもしれない兵隊になろうとするのか、いまだに心情が分からないでいます。

神風特攻隊の本を読んでもわかりません。

クリスチャンの生き方

キリスト教であっても、どうしてもしかすると殺されるかもしれないキリスト教に転向するという意味合いを、それほど深刻に学ばないし、学ばなくても生きていけるあいまいなところに生きているのではないかと思うのです。

そして教会に行けば死んでも復活するのだと言い、最後には復活し勝利を収めるんだという言い方をすると、あの戦争に志願し、何かのために志願し、それに死ねたら本望なんだということとどこが違うのかと、我々は聖書を使って学ぶべきではないのかと。

そういう意味からすると、ペテロたちが洗礼を受けるまでに神の働きに従うということを、だれも止めてはならないんだと言って、あの憎むべきローマの兵隊に、神の選びから外されている人たちと同じように食事をし、結婚もして、床も同じくすること言うことを犯罪だという側と、神は分け隔てのない働きをしてくださる方だという福音の意味を、ペテロが証をしている。

しかしこれが問題にならなかったわけではなく、あとでペテロは大問題を起こすわけです。

このことを私たちはもっともっと異教社会においてキリスト者の在り方をまじめに、あいまいさではなく、あいまいさという自己逃避でもなく、そこに自分の良心がいかにあるべきかを学んでいただくことで、福音主義ではなく、福音に生きるのだという自覚を学びとることで、ペテロの在り方を肯定的にとるか、否定的にとるかが聖書を読む我々の問題になるのではないか。そこから始まるのではないか。

我々は終わりから始まりへと導かれて、これからも聖書の学びがあるのではないかと思う次第です。

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