2021年7月25日 礼拝「神は燃える」(河口陽子伝道師)

礼拝説教
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・タイトル:「神は燃える」
・聖書箇所:エレミヤ書 7章16節~28節
・担任教師:河口陽子 伝道師

振り返り

前回の7章の前半は、6章までとは時間が経過していて、若かったエレミヤも中年の域に入っていた頃の預言、神殿説教でありました。

原申命記、申命記の元となった書物が見つかった事による宗教改革を推し進めて来た(南)ユダヤ王国の王ヨシヤ……
異教の神々、異教崇拝が風習化していまい、その祭壇と化してしまった地方聖所を撤廃、全廃し、
ユダ王国の首都、聖都のエルサレム神殿の中にも入り込んでいた異教的な物の一切を排除、一掃して、中央集権化を推し進めて来た……
でも、人々の心の内、心根は残念ながら変わらなかったのです。

衰退期のアッシリアを攻撃するために、エジプトから上って来たエジプト王、ファラオ・ネコ……
そのエジプト王ネコを迎え撃とうして戦いに挑んだヨシヤ王だったのですが、そのアッシリア軍の矢に射貫かれて、非業の死を遂げてしまった……

その年、前609年に最初に後を継いだ息子ヨアハズは(これは弟の方だったのですが)、ファラオ・ネコによってすぐに退位させらてしまって、そのファラオ・ネコによって(ヨシヤの息子の)兄の方のエホヤキムがユダヤの王の即位させられ、エジプトの傀儡政権となってしまった……

そんな重大な政変が起こった直後のエホヤキム王の治世での初めての大規模な宮詣で、ユダヤ王国の新しい王誕生を祝う神殿参拝だったのかもしれませんね……。
多くのユダヤ民族が異国など遠くからも神殿に集まって来たその時に、多くの民衆を前にしての預言、神の言葉を伝えた神殿説教……
それが16節まで記されています。

既に中年の域になっていた預言者エレミヤでしたが、
「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と繰り返しても空しいいだけ、
「主の神殿は強盗の巣窟になっている!」
「お前たちを神の前から投げ捨てる!」
神と神殿の冒涜とも言えるその説教で、命を狙われる身になってしまうのです。
前回はそんなエルサレムの神殿の前で神殿批判……
命の危険を顧みず、命がけの、エレミヤの訴えでした。

神がエレミヤに怒りをぶつける

そして今日の所……今日の所は「あなたは……」で始まっています。
ここからは神がエレミヤに対して「あなたは……」と語っている、
前回の1~15節の説教とは異なり、神がエレミヤに語っているのです。

この今日の16節から28節の中で、20節の初めの「それゆえ、主なる神はこう言われる。」と、次の21節の初めの「イスラエルの神、万軍の主はこういわれる。」との説明以外は、すべて神が語った言葉になっています。
神が語った言葉になっているのです。
でも、神が語った言葉なのに、途中2か所だけ、23節と28節だけ「」になっている、「」で囲まれている部分があります。
でも、どちらも神の言葉、神が語った言葉です。

23節の「」は、かつて神が命じた言葉であって、28節の「」はこの先、エレミヤにこう語れと神が命じている言葉です。
つまり「」2つは、ここで語られているのと同じ神の言葉ですが、今語られているのではなくって、過去にと未来の神の言葉、神の命令なんです……
今日の所はそんな構図になっていて、神の言葉が満載と言った所……
それも燃え上がり消えることがない、神の怒りと憤りの所なんです……

3.執り成しの禁止
最初の16節から驚かせられます。
「あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげて私を煩わすな。私はあなたに耳を傾けない。」と……
えっ、と最初からドン引きしてしまう、神の言葉とは思えない様な神の言葉です。

更にここの所は口語訳聖書も、岩波訳も、
「私に、執り成しをしてはならない」、「私に執り成しをしないように」と
訳出されて、岩波訳ではその小見出しは「執り成しの祈りを禁ずる」と書かれています。

(a)十字架上のイエスの執り成し

「執り成しの祈り」といえば、ルカ福音書の十字架上のイエスが、十字架に架けられた時のイエスが、神に対して
「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか分からないのです」
とイエスを十字架に架けた人々に対して「執り成しの祈り」をしたことが有名ですね……
自分を見せしめの様に群衆の前で屈辱と痛みとで死に至らしめる、惨(むご)たらしい十字架刑に架けさせられた、それなのに……

教会の中において、イエスは「神の子」、または「三位一体、神なんだ!」と神格化してしまって、その時代を生きた、生き抜いた、生身の、私たちと同じ血の通った「一人の人間!」ということが忘れがちになっているんじゃないか?と思うことがあります。
私たちと同じ人間ならば、何も悪いことはしていないのに、不当な裁判に架けられ、こんな酷い目に合わされ、耐えられない痛みの中、じわじわと殺される……
「殺される!」……となったら……だったら、普通だったら
「私は無罪だ!何でこんな目に合わされるんだ!?」とか、
「死にたくない!」とか「やめてくれ!」とか「どうか助けてくれ!」と
歎願したり、あがいたり、恨みのひとつでもふたつでも言ってやりたい!
怒りをぶつけたい!
こんな目に合わせたやつらを罵(ののし)ってやりたい!
と思う処です……
でも、イエスはそんな言葉は一言も、態度にもおくびにも出さなかった……
それどころか、自分を殺そうとする憎き相手を、貶めた相手を、
自分の権威を守る為に「許せん!」「生かしては置けん!」と亡き者にしようと、たくらんだ宗教的権威者たちを……
そして蔑(ないがし)ろにした弟子たちにも……貶(おとし)めようとした、侮(あなど)り軽んじた群衆に対しても……
恨まず、妬(ねた)まず、
全く弁解できない罪を犯した者の為に、神に執り成した……

何も見返りを求めず愛することが無償の愛ならば、その無償の愛を超えている、人間として、自分を憎む者の為に祈り、働く愛!が……
そこには、イエスが十字架に付けられ身動きが取れないそんな状況下に見えるけれど、そこにこそ、自己中心という罪まみれで動きの取れない罪人に、自分に向けられる愛、自己愛の為に雁字搦(がんじがら)めにされた、縛り付けられた者を、自分を、自由へと解放する、イエスの愛が確かにあった!と思わされるのです……
自分は許されている!愛されている!という確信が……
クリスチャンとして素通りできない真の愛の原点が、福音が、ここにはある!このイエスの行為にある!と思わされるのです。

②執り成しは預言者の責務

実はこの預言者エレミヤも何回も執り成しの祈りをしています。
「預言者」といえば、神の言葉、神の意思を民に伝えて民の進むべき方向を示す事が役目、と思う処……
でも、この「執り成し」は、預言者たちの大事な職務であったのです。

奴隷状態であったヘブライの民をエジプトからの脱出させた、その民を率いた指導者モーセも……
モーセはシナイ山の上で神から多くの指示を受け、十戒の書かれた石版、石の板まで頂たのに……
山を下りて見たら、金の子牛像(失礼な言い方になりますが、今日もこの世の最上であるしるし、ご褒美、誉としての金メダル、これを目指してアスリートたちは頑張っている位ですから、人の手で作られた金でできている物、これは偶像の最たる物ですね)、そんなものを民が造っていた……

モーセは激昂、激しく怒って、十戒が書かれた石版を投げつけて砕いてしまう……
私たちからすれば、激高型の人間に見えてしまうモーセですが、
たった今、シナイ山で神から直接、神との約束の十戒や、細かい規定を聞いたばかり、しかも最初に告げられた言葉、十戒の初めが、
「私はヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。他の神があってはならない。いかなる像も造ってはならない!」と言われたのに……これでは、おこるのは当たり前……
神の掟、神との約束の十戒の第一戒をもう破ってしまった……

金の子牛、偶像崇拝という大きな罪を犯した民に対して、モーセはどうしたか?
指導者モーセは「こんなに私が頑張ってここまでやって来たのに、そんな私を踏みにじった、裏切りやがって!悔(くや)しい!」という民への恨み言とか、
「もう知るもんか!自分とは関係ない!どうにでもなれ!」とか、
そんなふうに突き放す事はしなかったのです……

民の偶像礼拝に対するする神の怒りも、激情の神と言われる程、激しかったのですが、
その怒る神に対して、モーセは、執り成し、許しを請うたのでした。
また、北のイスラエル王国が滅亡する前に登場した預言者アモスも然り……
激しく怒る神に民の不信仰を詫び、許しを乞う預言者たち……
その執り成しによって、神は何度も思い直されて来たのです。
神の気持ちになったら、執り成されたら、それは嬉しいと思うのです。
執り成したって、執り成した者には何の利益も、ご褒美もない……
神の決断に異を唱(とな)えて、神の怒りを増すかもしれないのに、
「罪だらけ者たちと自分とは違う!」とはせず、同じ罪ある人間として、
神に許しを乞う、執り成し、祈る……
これこそが、神の愛の実践ではないかと私には思えるのです。

なのに、それなのに、ここではその神が、神自身が執り成しを禁じるのです。

預言者は神の代弁者です、ですが民の代弁者でもあります。
神と民の間に立つ者……上からは押さえつけられ、下からは突き上げられる、上司と部下の間で苦悶させられる中間管理職の様な立場に見えてきます……
ストレスは溜まるは、間に挟まれて押し潰れそう……そんな仕事、割に合わないですよね。
割に合わない、得にはならい……でも、他者と他者を繋げる執り成しは重要な役目、任務……
それなのにその「執り成し」を禁止されてしまったのです……

家庭内での異教崇拝

次の17~18節では、家族あげての天の女王への捧げもの、異教崇拝……
天の女王の像を型取った菓子、パン?でしょうか、ワイン付きです。
アッシリア、バビロニア地方の輝く金星の象徴、女神イシュタルと言われています。
エゼキエル書の8章ではその女神イシュタルの夫のサンムズ、サンムズ礼拝がエルサレムで行われていたことが記されています。
ヨシヤ王が推し進めた宗教改革によって、偶像礼拝は公には禁止されていても、各家庭では親子が協力して様々に行われていたことが伺えます。

今コロナ禍でリモートワークだったり、職を失い、焦りや不安の中で、昼間でも親も子どもも家にいる……家庭内暴力や性暴力で、家が居場所にできない女性や子供たたち……居場所にならない家庭での歪んだ夫婦や親子関係……それが問題になっています。
苦しむ女性や子供たち、弱い者の居場所がなっている現状があります。

この親子の共同の作業では親子の関係性も良くなって、家庭も円満、生活もきっとよくなると期待したかもしれません……
ヨシヤ王の改革の厳しいお達しが出ていた中でも、密かに、でも確実に浸透していた……
だから、この偶像礼拝は、首都エルサレムが陥落、神殿が崩壊して、エジプトに逃がれた人々の間でも、異国の地に行ってまでも続けられた……
根深い民間信仰……神の被造物である人が、造り上げた物、神ではない、人が造った被造物を人が拝むという矛盾……

そして……家族が大事、家庭の繁栄を願う事……それは一見、いいことに思えるかもしれない……でもそれは自分や自分の身近な者だけを守ろうとする、自分、自分の家庭、自分の住む町、自国の繁栄と、世界を広くしている様で実は狭くしていく事なのです……
自分が、自分の周りが大事、その他の人はどうでもいい、いえ知らない人間が怖い、近寄るな!と……

相模原の障がい者施設での殺害事件から5年になりますが、
自立できない、生産性のない、弱い者などいらない……
利益にならない、税金の無駄遣い、不幸しか生まない……邪魔でしかない……だから社会の為に殺す……
在日コリアンへのなくならないヘイトや、難民申請の困難さ……排外主義……
我々の結束が大事、他国の者、移民など異物は排除!
というとんでもない事に繋がる、大きな罪なのです……

この一週間、差別や人権侵害に関する事柄が特に多かった様に思います……
行き過ぎた商業主義や差別や誹謗・中傷の問題など、
オリンピックは様々な暗部をあぶり出したのかもしれません……
被差別者はネット上でも攻撃の的となる……でもその的(まと)は他者であって自分ではない……
私を含めて少なくとも教会に集う私たちは、この差別の問題を自分の中に現存する問題として自分を見つめる切っ掛けにしなければ、と思わされます……

自らの恥によって自らを怒らせる

19節、そんな神ヤハウェを欺く異教崇拝を行う民に対して、
神は「私を怒らせている」いや「むしろ、自らの恥によって自らを怒らせている」と言われるのです……
何か本質を突かれた様で空恐ろしくなります……

「自らの恥によって自らを怒らせている」……
私たちが他者に対して「怒り」という感情を持つ時、それは
「自らの恥が招いているのではないか?」
と神は言われる……私自身が突きつけられる問い掛けです……

自分の思い……「こうしたい」とか「ああしたい」とか、
私たちはそれぞれ、色んな思いを持っていると思います……
でも、自分の思う様に相手が動いてくれなかった、動かなかった、ましてや「迷惑(をかけられた)」、「足を引っ張られた!」……となった時に、
怒りとか苛立ちとかが起こるのではないでしょうか?

以前もお話しした事ですが、10年以上前になりますが、私は5日間だけ、夫の母親の介護をした時がありました……それでも寝る時間も自分の思う様にはならず、緊張からか仮眠もうまくできず……
そして介護なしでは歩く事もままならない義母からの言葉に対して、
私はもの酷く怒りの感情が湧いてしまって、爆発しそうになった事がありました……
怒りの感情を抑えられない自分、それは何なのか……その晩は眠れなくなり、、必死で祈らずにはいられませんでした……
その時に確かに存在するドロドロとした自分の心の醜さ、憎しみ……
自分の中に確かにある心の醜さを痛感させられたのです……
きっと「弱い立場の者を介護をしてやっているのだから感謝されて当たり前」という奢(おご)った気持ちと……
なのに「なんでこんな時にこんな事に拘(こだわ)って、私にはどうでもいいことを要求してくるの!?」との自分の思う様にならない苛立ち、怒り、憎しみ……
恥ずべき心の内が露わにされたと思うのです。

前回の所でも出エジプト記を読んでも、社会的に弱者とされる者たちが
更に蔑(ないがし)ろにされる事への怒りで、神は激高します……
でも、身近な人に対する個人対個人の関係において、自分の中に起こった怒りは、ほとんどが、自分の思い通りではない反応や動きをする相手への怒りだと思うのです……
それは思い通りにならない相手に対する傲慢と蔑視の証拠なのだ!と改めて思わされます。

上昇という偶像と自然破壊

更に20節「見よ、私の怒りと憤りが、この所で、人間、家畜、野の木、地の実りに注がれる。それは燃え上がり、消えることはない。」
多くの雨が降った梅雨が明けましたが、ドイツを始め、ヨーロッパの各地、中国でも大雨による大洪水で家屋が流され多くの人が亡くなりました。
人間がずっと工業化や開発を優先して来た結果が、近年の異常気象……
この暑さの中で、懸命な救助活動が続けられている、あの熱海の土石流も、山の上に土砂を積んだ故の人災と言えると思うのです。
山火事も年々大規模になり、多くの自然や動植物を巻き込んで命を奪っています……
利益追求には切りがありません。
利益、利潤、繁栄という偶像を求め続けた故が為に、
この人間世界だけでなく、この人間の罪が、正に人、家畜、野の木、地の実りにまで及んでしまって、神を怒らせ、憤らせている……

ノアの洪水……神は人類の悪故に大洪水で全て自然さえも滅ぼされた……
そのことを神は悔やんで「二度と人間の罪故に動物や自然を巻き添えにしない、滅ぼすことはしない!」と約束して下さったのに……
その神の後悔を蔑(ないがし)ろにして、人は自分かってに自然破壊を繰り返し、何度も神を怒らせて来た……

7.祭儀犠牲の拒否
21~22節「お前たちの焼き尽くす献げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい。私はお前たちの先祖をエジプトの地から導き出した時、私は焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。」
全焼の焼き尽くす献げ物とは、全て神に献げる動物の肉の事で焼き尽くします……
いけにえの肉は、一部分を神へ献げるために燃やし、残りは祭司や民が食べられる物です……
解釈は色々あるでしょうが、
「私のためだと?口先だけの心が伴わない物なんて何の意味があるんだ!?」
「焼き尽くす献げ物の肉も、いけにえの肉も、もういらない!お前たちが食べろ!」と凄い皮肉を言われていると……
「そんな自分本位で供えられたものなんて要らないんだ!」と……名目は神のため、実は自己実現の為の献げ物を拒否、全面否定しているのです……
どこかのコマーシャルじゃないですが、「そこに愛はあるのか?」と……

「私は焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。」と神は言われます……
先程モーセの出エジプトの事をお話ししましたが、その出エジプト記には、シナイ山の上でかなり細かく神はモーセに指示していて、それで時間がかかってしまっている内に、民は金の子牛像を造ってしまったほどでした……
そこでも神は日毎の献げ物についても詳しく指示しているのです。

出エジプト記の次に置かれているレビ記の最初にも、神は焼き尽くす献げ物に関して細かく沢山モーセに仰せになった様子が記されています……
でも、これらは、もしかしたら神の直接の言葉ではなくって、後代に神の事を忖度して沢山規定を作ったのではないか?と、そんな事まで思えて来るのです……
色々な行いの規定を規定通り守れば良いのではなく、その心の内が、真意が大切なのだと……28節の神の言葉ですが、「真実が失われて絶たれている」のではないかと……

性のマイノリティーの方を苦しめるレビ記の規定も、使徒言行録で、
「神が造った食べ物も人も、清くない物などない!」との言葉で乗り越えられます……
イエスが神の掟を集約し、「神を愛すること」と「隣人を自分自身として愛しなさい。これに尽きるのだ!」との言葉を改めて思わされます……
「信仰の本質とはなにか?」と問われているのです。

聞くことを求める神

23節からは申命記的な記述となっています……
「聞く」という言葉が何回も繰り返されます
ギリシャ語で新訳聖書は書かれましたが、ギリシャ人は「見る」ことを重視します……
しかしヘブライの思想、古代イスラエルの民は「聞く」ことを非常に重視した……神に「聞く」ことが最も重大だ!と……
神は言葉によってみずからの意思を人間に示される……だから人間は聞かなけらばならない。
神の声を聞いて神の真意を知り、それに従うかことが求められる……
でも、神の命令とは強制ではなく、従うか拒否するか選択は人に委ねられる、それが神と人間の関係性……

厳しい自然環境と、地理的環境故に、絶えず、自然の過酷さと近隣の国々の圧力や攻撃に常に晒されて来た……その中を必死に生き抜いて来たヘブライの人々……
そんな過酷の中で生き抜いて来た民族だからこそイスラエル、ユダの人々もその民の唯一の神ヤハウェも、激しい燃える様な激情性を持つ……
特に自分たちのルーツの様に抑圧されて来た、追いやられて来た弱い者たちを「忘れるな!」「置き去りにするな!」「排除するな!」と言い続ける神……
神に対しての「儀礼的な物なんていらない!」、「私の声を聞け!」……
それはすなわち「私が愛する外側に追いやられた者たちの、底辺の者たちの声を聞け!」と……

「上とか下とか関係ない!」
「上、と言う偶像に向き続けるな!」
上を見ているから気が付いていない、自分が踏みつけている人たちに、
「赦しを乞い、愛せよ!」言われていると思うのです……
上を見ると空が広がって広い様に見えるけれど、自分の上の空しか見えていない……でも、枠の外や底辺や裾野はずっと広がりがあると思うのです。

今日は特に神は燃える様な怒りを顕わにしています……
それをスルー、無視、するのか……
子どもたちがする様に、輪になって大きなボールを投げ合う遊びは心の癒しにもなると最近聞きました……
キャッチボールは相手のボールを一旦身を引いてからでないと、ガツンと反発力が働いてうまく受け取れません……
他者を遮断するのではなく、身を引くように抱える様に受け止めたら、
もしかしたら、「嫌いだな~嫌だな~」と避けたくなる人とも、
心のキャッチボールをしていける様になれるかもしれません……

その様に神の激情を、燃える怒りの心を受け止め、聞いていく……
そして神のその熱い心を、思いを、キャッチボールの様に神に返していく第一歩になるかもしれないと思うのです……
そのことが、偶像崇拝ばかりしている私たちに怒り心頭、
「お前たちなどもう知らない」と神が私たちを突き放しても、
それでもその神の心の声、真意を聞いて、神に応答していくことに、繋がるのでは?と思うのです……

旧約聖書続編のマカバイ記二の15:13~14に「白髪と気高さゆえに際立った人物が現れ、彼の周りには驚嘆すべき威厳が漂っていた……
「この人こそ、深く同胞を思い、民と聖なる都のために不断に祈っている神の預言者エレミヤです」と書かれています
今日のこの記事に拘わらず、エレミヤは仲保者であり続けました……
神と民、私たちを繋いでくれていたのです……
(申命記の)「聞け、イスラエルよ!」で始まる祈りの言葉……
「どうぞ、神の言葉を聞ける人に者にして下さい」と祈る者です……
人から人間へと変われる様に、人間として自分自身の変革を求める神に、
その声に応えて行けるように……

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