2021年7月18日 礼拝「審判者イエスを主と認める」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
この記事は約10分で読めます。

・タイトル:「審判者イエスを主と認める」
・聖書箇所:使徒言行録 10章34節~43節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

使徒言行録とその読み方

使徒言行録はイエスが十字架にかけられて、亡くなった後、その弟子たちがイエスを棄てた弟子たちによって回心が始まり、そして改めてそむかれたイエスが自分たちの救い主だという告白に立って誕生し、歩き始めたものです。

その中にはペテロというイエスと寝食を共にしたお弟子さんもいれば、時にはイエスなど大悪人だと言って殺しにかかったサウロという人物も現れています。

その中でイエスの言葉や働き、風評などが流れて、それに耳を傾け、眼で見て感じた人がぽつぽつと現れます。

これは文学的に読めばいいでしょう。

そこに教会があり、牧師がおり、というのではなく、いつの間にかイエスという一人の人物の足跡を心に感じるようになっていったということが読み取れるような気がします。

その中で使徒言行録の中にはエチオピア人などが登場します。

彼らがイエスの弟子たちとの交わりの中で、いろんな行動をするわけです。

その中で当時イエスの時代、十字架にイエスを掛けて殺したのは誰だったのか、どんな人でどんな立場だったのかということが福音書を見ればわかります。

それに対して不平を持っていたり、自己保身に働いた人間などもたくさんいたはずなのでしょう。

聖書は平面的に読むと面白くも何ともありませんが、一つひとつの言葉の意味するものを文学的に読み解くと、とても面白く、生き生きしてきます。

「正しさ」とは

世の中には決して正しい人ばかりがいるわけでも、悪い人ばかりがいるわけでもありません。

そんな人たちが有象無象の中で、キリスト教の教会が立てらていったという歴史を興味深く学ぶと、面白い、決して2000年前に起こった記録というだけでなく、今起こっていることと瓜二つというか、2000年前の人間とどう違うかと思うと、ほとんど同じなのです。

ひとり一人の気持ちはわかりませんが、つながっているわけです。

この今読んでいただいた使徒言行録10章は、題目から言うと異邦人伝道、神の子、キリストとして送られた、いわゆるエジプトで最も残酷な扱いを受けていたユダヤ民族を神はとくべつにお選びになり、その苦境から救い出し、よその地に導いてくださった。

いわば神をこの世に導いてくれたユダヤ人、どう表現したらいいか、もっとも弱いものなどの言い方もありますが、ともかく私から言わせると、神にとってなんの価値もないものを選びの民として選ばれたという神の心情を読み取るべきだと思うのです。

価値があってユダヤ人を選んだのではなく、むしろ埃のような、捨てられて当たり前の人たちを神様はあえて神の民としてお選びになったということです。

そうすると選ばれたというユダヤの民は、自分たちは何かをしたから選ばれたとかといったことなく、我々はユダヤ民族であるという民族思想が誕生していくわけです。

それが選ばれた民としての独善的な選民思想が生まれてくるわけです。

この辺の感覚を聖書として読むのではなく、今私たちが属している教会、それを取りまとめる日本基督教団と、このイエス時代の民が持つ選民意識と重ねてみると、面白いですね。

どこに違いがあるのか。

その選ばれたしるしとして、旧約時代は割礼を施したわけです。

あとで女性にも割礼を施しているとこともあるそうですが、聖書的に言わせれば当時の男性でユダヤ民族であることの証拠として、割礼はあったということです。

割礼は自分の意思ではなく、両親の自我などで割礼を受けるわけです。

これは割礼を受けたものにとっては神に選ばれた民としての誇りがあるわけです。

ですから、イスラエル民族に対する周辺のいろんなあり方にたいして、神の怒りと受け入れられていったと。

ところが、選ばれた人たちには、選ばれる条件があるわけです。

それが律法です。
それは一種の選ばれたものとしての在り方を守っていきましょうというものです。
規約、約束でありました。

それはよく考えると、律法は神の律法であると同時に、この世に生きる我々の規約として授けられたのが律法です。

とても私にとっては一週間考えた結論なのですが、律法はどこまでもこの世のものなのです。

この世で守るべき法律なのです。
これを飛躍的に考えると、憲法です。
守り、監視し、保護する憲法。
ですから、律法というのは選ばれた民の約束で合って、守られないものは排除されるというものが律法なのです。

我々も憲法のもとで守られたり排除されたりしまているというのが我々の生き方です。

ローマの百人隊長

ところが、この10章で面白いのはここでローマ兵の百人隊長が出てくるわけです。

これは面白いです。
当時のローマとは何だったのか。

ローマとは権力を持った人たちです
当時のイスラエルの人たちにとってこの当時支配していたローマ帝国の軍隊なのです。

ユダヤの人にとってはもっとも恐るべき敵なのです。
決して仲間ではありません。
ローマの人たちはほしいままに勝手なことをして、搾取をしていたわけです。

いわばつかみとりをしていたのがローマ帝国なわけですから、いくら憎んでも憎み切れない悪い人たちでありました。

だからこそ、福音書には手を掛けたひとに関しては決してユダヤ人ではなく、ローマ兵であるわけです。

イエスまで殺したのです。
でも、聖書的にはそのイエスを排除したもの。
それはなぜかというと、異邦人伝道というものが意味を成すのです。

ユダヤの人にとってはほしいままに搾取したりするローマの兵士を憎んでも憎み切れないほどの敵なのに、その敵の隊長がもしかすると自分たちの律法を破っているかもしれないイエスに土下座をした。

これはユダヤの人にとっては奇跡的なことだと言っていいと思います。

敵国でむしろ滅ぼしてやりたい敵国の兵隊たちが自分たちのこの世の律法を破るイエスに頭を下げ、そしてそれを受け入れた。

これはユダヤの人に取ってひっくり返るほどの話なのです。

律法違反であり、伝統も破っている。

ユダヤ人のユダヤ人が、福音書によると割礼を受けたユダヤ人である、この世の再興の律法である十戒から離れ、そして十戒を守る我々の大敵であるローマの兵隊がイエスに土下座をしたということは、どういう事でしょうか。

このことを私は読みながら、原始時代はうらやましいと思うのです。

教憲教規、北村慈朗牧師、そして福音

今私たちはある程度秩序つけられた平和の中で暮らしています。

それぞれが憲法をもち、その監視のもと、平和に暮らしている。

ところが、その憲法によって認められている宗教団体、宗教法人は、この世の最高法規である憲法に守られているのです。

ですから、私たちは宗教法人法に背くということは、憲法違反になります。

ところが、宗教法人法をそれぞれの教会郷里によって区分され、それぞれの特性に応じた内規が作られるわけです。

教団であれば教憲教規が作られるわけです。
これは法律の枠の中で決められた内規であるわけです。

約束。これは信仰でもなんでもありません。

破ったからと言って違反になるわけでもなく、神に背くことでもなく、人間が勝手に良かれと思って作ったものです。

それにそむくことによって、あたかも憲法違反であるかのように教憲教規を順守する教団が最高権威である憲法の守りてである最高裁判所に訴えられた。

お判りでしょう。

そこでお墨付き、教団のしでかしたことが、教団が排除したものがことを憲法のもとでやっているのだと言われているのです。

だから、憲法を守らないものは殺されようが、飢え死にしようが、それは問題ないのです。

俺たちは憲法を守ってふさわしい、守れないものは排除するという大義名分でいるわけです。

それはどういう立場なのかというと、ペテロが語ってるように、自分たちが、自分たちに対してこの世に来てくださった神の子は、私たちの神の子ではない、それは分け隔てのなないものだということを告白するわけです。

私は今までこの世の憲法に、宗教法人に忠実でした。

教憲教規をきちっと守ってきました。

まもれないものは敵が絶えるまで追い詰めていいんだ。
それが神への忠誠だと、ペテロも思い込んでいる。

あるいはそう教わってきた。

それが彼らの伝統であった。
しかし、福音は、敵であるはずの者を自己の者として包み込んでいく力。

それにやっかんだのが誰なのか。

それが教憲教規を破った奴のやっかみなのだ。

こんなことで福音はますます力を失っていく、奪い取っていく人間の権力主義、名誉主義。
それは自らの滅びを招くことなのです。

福音には約束も伝統も法律もありません。

神はすべての者を主とする。
全てとは何なのか。
教憲教規を守るものだけが全てなのか。

このことを私は今一度使徒言行録10章に戻って、この伝道所の関係教会である紅葉坂教会、そこで起った北村慈朗という一人の教師の問題を、聖書に戻って憲法も十回も全部取っ払って、福音という立場からとらえなおさなければ、どんぶりの中でいくら騒いでも味もアなければ身も変わらない。

そのことのために時間を浪することはない。
聖霊論がどう、聖餐論がどう、そんなことはない。
そんなのは約束でしかない。

自己正義の苦しみ

では、割礼を受けられなかったものはどうか。
神の外側に置かれたものはどうか。

神の外があるのかどうかはわかりませんが。
私たちはいつのまにか、自分だけは神の中にいるのだと思い込んでいるような気がするのです。

話が飛びますが、余談として聞いてください。
私は20歳を少し超えたころにすべての者を奪われたという言い方をしています。

60年安保、70年安保、あの時代に私と同じようだった人たち。

彼らは自己正義に立って、何とかを変えよう、廃止しよう、アナーキスト的なアジられて、彼らは闘争に走っていきました。

ところが、その中からたくさんの挫折者が出て、命を失った人もたくさんいます。

そのうちの何人かが書いた手記を最近読みました。

ああいうなんとか党とか、なんとか紛争といったもので旗を振り、血を流した人はもしかすると学校からも追放され、涙をのんだ悲惨な生活をもしかしたら余儀なくされたのではないかという人たちがたくさんいらっしゃいました。

これは私からすると、自己正義というものを一つの宗教化しているのではないかと感じてしまいます。

それにそむくものは不誠実なものとして排除されていく。

そういうのを読んで、アジった人たちは途中で方向転換をしてそれなりの名誉を得た人たちもいっぱいいらっしゃる。

そうすると20~21歳の若い青年が自ら命を絶ってその正義を否定していったという意味を私は自分の歳を重ね合わせてその人たちの気持ちを探ろうという気持ちが今もあります。

それと同じように、自分たちの伝統、正義を守り通そうとすると、必ず守れないものを排除しようとする論理が生まれてきます。

しかもイエス時代にはひとつの国があちらの力こちらの力が錯綜して、二十にも三十にもかさなって一つの真理を見出して活動するということは至難の業だとおもいます。

その中でこの世の律法、憲法などを守り続けることが神への正義だったと自負する人たちは、神は分け隔てをしないという心理に立つと、否と言わざるを得ない。

それをやるものに対して否定的な力が働いて、不満で殺しにかかる。

そうすると自分たちの平和は何なのか。

人殺しの平和なのか。
人を生かす方法なのか。

福音の問題

憲法はすべての国民が豊かで平和で快適な生活ができることを保障すると書いてある。
しかしこれも憲法ですから、これを破るものは何らかの制裁が加えられる。

日本基督教団の教憲教規もこの世の法律、この世の約束です。

これをそむく者には、命をも奪うというのは、果たしてキリスト教の福音なのか。

福音はどこに行ったのか。
聖餐論の問題ではありません。

洗礼の問題でもありません
福音の問題です。

私は1週間このことをずっと考えてこんな結論しかでませんでした。
まさに敵であるローマ兵を自分の内へと包み込んで、そして世界の宗教へと福音が歩み出していった。

この歴史の原点を、現代のキリスト教はもう一度原点に返って学ぶべきであり、歩むべきではないか。
ある学者が、現代のキリスト教に福音の力は弱まっていると言っています。

これはクリスチャンからなのかはわかりません。

そういう批判を私たちは受けているんだという再認識を、私たちは今一度聖書から読み取るべきではないか。

あれが憎いこれがどうなどではありません。

それは自分の弱さ、狭さであり、自分の愚かさであることに気づいた時、初めて福音とは何なのか。

喜ばしき訪れだと言いつつ、喜べないものを喜ばせることを福音なので合って、喜べるものを喜ばせたところでそれは福音でもなんでもない。

法律を守ることで自分たちは勝利を得たように喜んでいるものに福音はない。

それは権力の横暴さです。
喜べないものを、喜びの外に置かれたものを喜ばすことが福音。

このことを、私は聖書の原点に返って私たちの福音の認識を新たにしたいものであります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました