・タイトル:「癒しの実現」
・聖書箇所:マタイによる福音書 8章14節~17節
・担任教師:北口沙弥香 教師
本日はマタイ8章14節から17節に残されている、ペトロの姑の癒しと、また癒しの物語にまつわって宣言されるイエスの癒し人としての存在理由について、学んでいきたいと思います。
マルコ福音書の1章29節から34節の箇所をマタイは取り出し、短くまとめたのでした。
最後の17節は、イザヤ所53章4節からの引用は、マタイ書がこの物語についてまとめて引用したものであります。
このイザヤ書53章4節のギリシャ語のマタイ福音書の著者がヘブライ語から訳したものと言われています。
イザヤ書53章のもともとの文脈である罪の赦し、また、犠牲の意味を無視して、癒しの実現者たるイエスを描こうとして、この言葉だけを引用しようとしたと言われていますが、このことが無理な引用をしたのは、イエスのメシア性を表現するのはあくまで聖書だと表現しているというマタイの主張が込められています。
マルコ福音書では悪霊がイエスを知っているということを描くわけですけれども、それをマタイ福音書の著者はしたくなかったのでしょう。イエスを証明するのは預言であるという、マタイ共同体の強烈な主張が込められていると言えそうです。
ここの話の最初の2節は、大変私たちにとって関心を引くわけですけれども、ペテロには妻がおりました。その姑が熱を出して寝込んでいるというのをイエスがご覧になったとあります。
ペテロには妻がおりました。第1コリント9章5節によれば、ペテロは妻を連れて伝道をしていたことが分かります。
しかし、イエスがこの世の生を歩まれている間、ペテロがイエスに付き従っている間に、妻が一緒にいなかったのか、それとも実家にいて、のちに一緒に付き従うようになったのかはわかりません。
ペテロはカファルナウムに家を持っていて、姑もそこに住んでいたのではないかと言われています。
何せよ、弟子を伴っていたと思うのですが、マタイ福音書ではむしろおイエス一人で行ったようにも読めます。
何にせよ、ペテロの家にイエスが訪ねたとき、姑は熱を出していた。
イエスが姑の手に触れられると、熱は下がり、姑は起き上がってイエスを「もてなした」とあります。
マルコ福音書もさらにシンプルに、イエスの癒しに集中するという形であります。
この姑の手に触れることは、律法違反とされる行為だったかもしれません。
それは病の人が健康な人に触れてはいけないというためであって、逆に健康な人が触れることも忌み嫌われることだったかもしれません。
イエスはそこに挑戦したとも言えます。
イエスはそのような立法に頓着しないような形で、ペテロの姑を癒したのでした。
ここで一つ気になる言葉がありました。
「もてなした」という翻訳です。
姑は起き出してイエスを「もてなした」とありますが、もてなすという言葉のもとの意味は仕える、であります。
つまり、「仕えた」というわけです。
ここには姑が女性であったからイエスの癒しに感謝した、食事を用意したと思わせてはいないかと思うわけです。
先の重い皮膚病のひとを癒した8章の1節から4章までの物語、また、その次の百人隊長の僕を遠く離れているのにもかかわらず癒しを授けたという5章から13節までの一連の物語を、これはイスラエルの共同体からのけ者にされた人に癒しをもって関係性を回復させられたと読むことができます。
重い皮膚病の人は、重い病故に共同体から排除されていました。
百人隊長は異邦人とみなされていたので、イスラエルの共同体の外の人間でした。
そしてペテロの姑は女性でありました。
当時の女性の境遇を想像すると、一体どういうんものだったのかと想像するわけです。
男性だけが人間扱いされがちな時代において、女性は隅に追いやられがちな存在であったに違いありません、
むしろ、ここが共同体への回復へとつながるのなら、「もてなした」というよりも、弟子になったと取れないかと思うのです。
むしろ「仕えた」という言葉がイエスのことを歓待したというよりも、イエスの癒しの技に感銘を受け、自分も娘婿のようにイエスに従って歩んでいきたいと、弟子になったと考えるのが適切なのではないかと思うのです。
ペテロの姑はマタイ福音書、マルコ福音書においても直接出てくるのは前半ではここだけですが、十字架まで付き従ったのは女性たちであった、男性の弟子たちはむしろ積極的に逃げてしまったという風に言われています。
マタイ福音書の27章56節では、十字架に罹るイエスのそばまでいたのは、女性たちであったことが示されています。
その中にはマリアなどがいたとありますが、この中にいたゼベダイの子らの母はペテロの姑と同じ人物であったのです。
そのためペテロの姑はイエスに従ってイスラエルのうちまで歩み、イエスの死を見届けていたひとりであったということができるのではないかと思います。
ゆえに、イエスを持てない舌というのは、弟子になったという意味ではないかと思うのです。
古来以来、現代でも女性の活躍というのは隅に置かれ、女性として生まれてきたことがその人の人生の喜びであり、足かせにもなっているということがずっと繰り返されてきたと思うわけです。
ペテロの姑も、福音書に描かれなかっただけであって、イエスの十字架に至るまで忠実に支え、共に歩んだ弟子であったに違いがないわけですが、福音書に書かれなかったということは、どうしても現代人の感覚であるとしたらもう少し女性の活躍を残してくれたらなぁと思ってしまうわけですけれども、何にしろ描かれないわけです。
現代においても本当にそうなのかもしれません。
女性の役割、活躍というものは隅におかれ、おまけのようになっている事態は、そうかわっていないのかもしれません。
古代より現代の方がましだと思いたいし、現にそうなのかもしれませんが、どうしてもという事態が繰り返されています。
私にとって記憶に新しいことと言えば、複数の大学の医学部において女性の合格点と男性の合格点が違っていた、というときです。
医学部に入れるくらい優秀な女性たちであったにもかかわらず。そのような形で人生が異なる方向に帰られてしまうというのは、果たしてその人の生なのかと考えてしまうわけです。
受験ということが人生の中でどれだけその人のそのあとに影響するのかということを想像するだけで、間違いなく恐ろしいことだと思います。
受験に勝ち抜くためにどれだけっ勉強し、予備校にも行き、受験費用にお金を払ったのかということは、女性であれ男性であれ同じようにするわけですけれども、合格というものを勝ち取れなかったら、また別の選択をしなければならないということを間違いなく強いられるわけです。
これが自分の学力や努力不足ならばそれを受け入れなければなりませんが、差別によってそのような傾斜配点がされていたと聞いてしまったら、自分の力ではどうしようもできないということを感じてしまいます。
それがどうしても壁となり天井となることを体験する。
それはその個人にとっては残酷なことであり、社会にとっても優秀な人材をもしかしたら無駄遣いしていると言わざるを得ない出来事ということができるかと思います。
また、そのような優秀な人材だけではありません、
本当に記憶に新しい、毎年のように聞かされるのは、わけあって身ごもって妊娠する女性が、そのこともを育てることができず、部屋やトイレで産み落としてその子供を死産だったのか、自分で息の根を止めたのかわからないところもありますが、その子供を遺棄して警察に捕まってしまうという事件が度重なって起こっているということです。
ほんとうに数か月に一見そのような事件があるのではないかと思うくらい、耳にします。
しかし、妊娠という出来事は女性だけに責任があるのでしょうか。
このようなことを見聞きするたびに、その女性に妊娠させた男性は責任を取られないのかということをひしひし感じます。
このようなことからでも、どうしても女性として生まれてきた分を、分が悪いというか、この人が男性として生まれてきたらこのような目に逢わなくても済んだのではないかということをまだまだ思わなければならないのだと、痛感させられます。
単純に子供を助けられないというのは、社会に責任があり、ひとりの力ではどうしようもできないところもあるかもしれません。
しかし、生まれてきた属性で差別をし、適切な手立てをしないちうことは、この社会に生きていいるすべての人を結果として追い詰めることになるということを、私たちはわきまえていたいと思います。
イエスの位置電の癒しの出来事、8章の半分を割いて触れられているわけですけれども、これら一連の物語は、共同体から排除されてきた人々が、癒しによって共同体の中に関係性が回復されていく物語だと申し述べてまいりました。
差別がなくなること、すべての人が行かされていることを喜ぶことができること、命が与えられていることを感謝し、この社会の中で肩の力を抜き、息を吸えることが癒しの実現なのではないかという風に思います。
イエスはその癒しを担った救い主です。
十字架の死に至るまでそれに忠実であった救い主です。
新しい天の国というものをマタイ福音書は信じ、実現させようとします。
その天の国の一つの要素が、間違いなく癒しであり、関係性の回復であります。
そのような関係性の回復を願って、私たちはイエスに従い、これからを歩みたいと思います。
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