2021年7月4日 礼拝「神の前に立たされている」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「神の前に立たされている」
・聖書箇所:マタイによる福音書 10章23節b~33節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

内容

澤田芙紗子さんを覚えて

1987年7月6日、40歳にしてこの世を去り、教会のあたたまる席からもその姿を消した、澤田芙紗子さんを記念しての礼拝となります。
実は昨日、夜、芙紗子さんの弟さんのお連れ合いさんから速達が参り、1月4日、病名が判明してまもなく、弟さんが70歳の生涯を閉じたという速達でした。
それより2日前にわたしたちの仲間でもあった、長い間心の病で苦しんでいた方が腹内膜炎で亡くなられまして、7月9日に彼を導いてくださっていた牧師の手で、東京・久が原教会で告別式をするという話も入ってまいりました。

ここへきて何人かの方々のご逝去を耳にするにつけて、心痛むことではあっても、それでも希望をもって福音伝道にいそしむんだという聖霊の働きが、信仰の薄い私には響いてこないことを、言い訳をすうわけではありませんが、とてもつらい思いをしていることです。

また、昨日も大雨で熱海にお住いの私たちの教会員にお電話を差し上げたところ、土砂崩れの現場とは離れた場所に住んでいるため、心配はないというお返事をいただきました。
私も何度か車で通った記憶がありますので、忘れられない場所ですし、犠牲になられた方のご冥福をお祈りしたいと考えています。

あなたは特殊だから

さて、み言葉にかえります。
あるものにとっては大悪人であるサウロという、私にとっては神様のような、しかし彼の履歴をたどれば大悪人であるサウロをたどれば、世界宗教としてのキリスト教がどういう誕生をしたのかということを学ぶ機会を与えられているわけです。

私はよく言われることです。
先生は特別な境遇に歩まれた方だから、聖書の読み方やとらえ方が一般とは違う、特別だと、私たちには難しいと、私たちと先生とは違う、と。
違うという言葉で特別扱いされてしまうのです。
サウロも特別な人だったのだと思います。
彼自身が告白しているように、私は他の誰よりも律法に忠実で、神への奉仕も誰のも負けなかったと豪語する彼であったわけです。
その彼がキリスト教を世界宗教に仕上げていった、その突端を作り上げていったとすると、ここでは何かのどんでん返し、価値の転倒が起こったということは確かだと思うのです。

私たちは普通であって、特別ではないから、そんなことはできない、と。
出来ないままでできないことをしないことが問題なのではないかと、私は思うのです。
特別なやつがやればいいんだ、私たちは特別ではないからやりようもないし、やれない、やらなくていいという言い訳を私たちはよく聞かされることです。
そうすると、あなたの信仰は何に向かい、何を土台にしているのかと問いただしたくなってくるのです。


そうすることは意味のない中傷のようにとらえられかねないのですが、今日、今読んでいただいた使徒言行録を読んでいただくと、どうもイエスが亡くなられた後、エルサレムという本来イエスを生みだしたユダヤ教の中心である、エルサレムではない、離れた場所や、線を引かれた違う場所、外側でどうもエルサレムを中心としたイエスの言葉の言葉、働き、尊敬、献身という者が動き始めたというのをエルサレムの中心にいた人たちは察知をするのです。どうもそんな噂がエルサレムに入り込んできたのだろうと思います。


あくまで私の想像であり、歴史の事実に基づいて言っているわけではありません。

こないだもある政治評論家のはなしを聞いていると、いまの日本の政治家には想像力が足りない、欠如しているというのです。
想像力のない人、幻を見ようとしない人間はいずれかは滅びるのではないか。
相手がどうであろうと、不都合であろうと、何であろうと自分はそうでないからそれでいいんだという、利己的というか。


最近利他的とは何だという、女性の人が書いたものがあるのですが、利他的とは何かということをキリスト教の外側で語られるとき、キリスト教で利他とは何かということを説明するというと、隣人と読み替えて語ることができる書物だと思うのです。

エルサレムで中心的な、イエス様から直接天国に入る鍵を渡されたペテロは、外に直接出かけていくわけです。
出かけていくのですが、いつでも彼は信仰的で、ユダヤ的な精神の強い人ですから、どうしても神との一対一の関係に固着する思いが強い人です。
そこでは神と我という一対一の関係が正しい、利己的な信仰がペテロにもあったのだと思うのです。
そこでは神と我ではなく、神と人の関係、人と人間とは存在的には同じでありながら、ありようによって違うと私は言いたいのです。

人と人間

人であることと人間であることは本質的には同じでも、ありようによって違うのだと。
中学生のころに『巌窟王』という小説があり、こわごわと漢字ながら読んでいました。
そこには完全に自由な存在が描かれていました。
人とは本来自由なものです。
そこにはなんの拘束もなく、自分の命の赴くまま。
それを子供の頃に読んで、不安ばかり誘われるような思いでした。
それは人です。

人間とは間という言葉を挟むわけですから、関係性というものが出てきます。
ペテロという人間と神とのかかわりはものすごく強かったのかもしれませんが、人間として自分以外の他者とのかかわりは示されていません。
また、それを示すのは自分ではないのです。
これは幻なのです。
その力が、人であるペテロを人間にするのです。
それは彼の意図に反しています。
そのことが起こったということです。


もう一人はコルネリウスというローマの百人隊長とされる、規則正しい群れの隊長さんであるわけです
彼は完全に人間であるわけです。
そこには信頼と権力と力を持っていなければなりません。
人間というものはえてして相手を位置づけるというか、統一するという、相手の自由を奪って統率するという、人間的なものがあるわけです。
そういう責任のあるコルネリウスもまた、幻を受けて、幻と幻が出会う、というのが、今回の物語の読み方の一つだと思うのです。

そこには「待てる人間」と「下ってくる人」との出会い。
こういう言い方をすると屁理屈っぽくなる、「人間は人間じゃないか」と言われてしまうのですが、人が人間になるということは、人は決して巌窟王のようには生きられないんだという証であるわけです。
そこでペテロは神の幻を受けて上から下へと下っていくわけです。

一方、コルネリウスは神の幻を受けて、上から下に下ってくるのを待ち続ける、そして土下座をする、というわけです。

これは異教の人間が異教の神に土下座をするという、もっとも醜い敗北の姿勢であるわけです。
戦争の物語で言えば、白旗を上げたということですね。
私は小さいころから土下座をした軍事物語をたくさん聞かされてきました。

それに対して、ペテロが初めて首を上げなさい、人間です、あなたと同じです、と、宣言をするわけです。
これは決してペテロの心や、コルネリウスの熱心さではない、神の幻が出会いを作り上げたということなのです。

「ここに腰かけて私とお話ししましょう」と言ったとき、「俺はペテロの言う通り、私は異邦人と席を同じくしてはならない、といった律法がありますが、いま、神は私たちをして同列に立たせてくださった、そこには穢れ、清さというものはないんだ」ということなのです。

そこには穢れ、清い、といったものは抽象的ではなくて、ペテロが泊まっていたシモンという人は、けがれた職業としての革なめし職人であった。
百人の人を統率しているコルネリウスの部下は、解放奴隷でありました。
私が特別な経験をしたから特別な聖書理解をしているから、誰にも通じないんだという人がいます。
しかし、ここで私はけがれた人、けがれたものなどが上とした戸を結びつける媒体になったということ。
これが福音の本質だと。

けがれたものとされた人が、その二つのものを一つにする媒体になった。
これが福音の力なのだ。
喜べる人と喜べない人を分けることが教会の働きでもなければ、あなたの信仰の在り方でもない。
ここではけがれたものを一つにする媒体としての存在である。
その存在なしに仲保者的なものはないんだということを、この使徒言行録の著者は語っているのだと、私は読みたいのです。

けがれたものを分けるもの

そういう意味では、けがれたもの、安全安心という者を脅かすものを殺すべきだという自己正義は、ここで完全に壊れてしまう。
その完全さこそが壊されることで、本当の安心安全が作り出されるのだと。
これとコロナは違うという人もいるかもしれません。


しかしこのコロナによって人間関係が断絶し、陽性と院政を区別し、そして自分の身を守るために触れてはならないと言い切るとするならば、私たちは福音を口にすることはあまりにもあるものを汚すことになるのではないか。

つい昨日読み終えた本の中に、『現代優生学の脅威』という本がありました。
我々の近いところからすると、ハンセン病に関しても優生学の立場から隔離されたり、排除されたりした歴史があるわけです。

このコロナも、コロナに感染したものも危険なものとして取り扱われないとその著者は訴えていました。

もちろん、コロナという感染症が安全なものはなく、危険なものかもしれません。
それはコロナが強いのではなく、人間が弱いのです。

このことを悪用して自分以外のものを外へと隔離していく、そういうことがすでに起こっているわけですし、起こしていることが正当だと思わされている私たちは考えなければならないのではないか。
宣言があって、それに反したものは罰金を取るとか、感染したものはホテルに拘束するとか、いろいろなことがあります。

置いてけぼりにされた視覚障碍者

特に私たち視覚障害のある人たちが一番困っているのが「濃厚接触」です。
2メートル以上離れなければならないとなると、いま、視力のない人が道に迷い、あるいは歩道から車道に落ちそうになる時でも、あの人はコロナの細菌を持っているかもしれない。
あの人の危険よりかは私の安全を、ということを上手に悪用して、だからお前たちは出歩くな、この世に生きてはいけないという。


視覚障碍者の天職とされるものさえ、濃厚接触ということで仕事を奪われている。
生存権まで奪われている現実。

しかし、声の出しようもない。

もちろん相手さまは肩や腰の痛みを訴え、法を犯してでも健康になりたいと内々に治療されるということも聞いています。

これは違反、罰金刑になるのかもしれません。

それでいいのでしょうか。

利己と利他、そして福音

今、改めて利他とは何か、利己とは何か。
例えば宗教は人間なしには成り立たない出来事です。


優生学の本を書かれた人は、「~人間を拒否する宗教があるとするならば、その人はもはや人間ではなく、利己的なものだ……それを悪用し、健康なものは戦争へ、不健康なものは抹殺するということがこれから起こらないとも限らない」と言っていました。

それはあのハンセン病の隔離という、日本の歴史の中の汚点を、けがれた/清いの論理に立って、いつの間にか私たちも賛成していないか。

そういう者に福音がなんの影響ももたらさないのであれば、それは福音が問題なのではない、福音を信じている一人一人に問われることではないか
そして考える力を持った一人一人が人となることから、人間になることに一歩でも近づくことが求められているのではないか。

余りに自分勝手で自己中心的。
まさに巌窟王は自己中心の最たるもの。

この使徒言行録が私たちに語りかけるものは数限りないもの。
それが見えてくる気がします。
見えてこないなら、私たちは何なのか。

そのことを、考えて、初めて福音という者が社会や人を変える力であることを、喜びの訪れとなったとき、私たちの泣き言が喜びへと変わっていく。
そのことを学ばせていただきました。

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