2021年6月13日 礼拝「言葉でいやす」(北口沙弥香教師)

礼拝説教
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・タイトル:「言葉でいやす」
・聖書箇所:マタイによる福音書 8章5節~13節
・担任教師:北口沙弥香 教師

百人隊長の物語

第2週の私の講談担当のさいには、マタイ福音書を読み進めています。

本日は8章5節からの、百人隊長の、遠く離れたしもべをイエスが言葉のみで癒したという、不思議な話が残されています。

場面はイエスがカファルナウムに入るところから始まります。
そこに百人隊長が一人近付き、願いました。

どうやらこのしもべが中風という、体がまひして動けなくなるという病気で床についていて、苦しんでいました。
そのしもべの癒しを百人隊長は願って、イエスに近づいてきました。

その百人隊長に対して、イエスは「私が行って癒してあげよう」と答えました。
すると彼は「私はあなたをお迎えできるようなものではない」と言います。
しかし、一言言ってほしい、そうすれば自分のしもべはいやされると願います。
これを聞いたイエスは感激し、従っていた人に「これほどの信仰を見たことがない」と、百人隊長をほめたのでした。

そのうえで百人隊長に「帰りなさい」と言い、そのときしもべはいやされたと残されています。
この話はルカ福音書やヨハネ福音書にも同様の話が残されています。

マタイとルカに残されているということは、マルコ福音書ではない別の資料を入手し、自分たちの伝えたいことを語ったのであると、想定することができます。

珍しいことにヨハネ福音書にも残っているというところも興味深い点です。
ただし、ヨハネ福音書には異邦人である話でもなく、イスラエル人の話であり、しもべでなく息子であったというふうになっています。

しもべと息子という言葉、ギリシャ語では別の言葉ですが、ここでマタイ福音書で書かれている言葉は、どうやら息子という意味でつかわれることもあったようで、そのような可能性も含めて読むことができる言葉だそうです。

しもべ、息子の書き換えもあり得ますし、もしかしたら百人隊長のしもべでなく息子であったという説もあるようです。

伝承における書き換え、言葉遊びなども福音書間で実は違うのではないかと感じさせられる例の一つではないかと感じさせられます。

カファルナウムの奇跡

この話は古代においては大変人気がありました。
遠隔治療の話だからです。

遠隔治療というのはその通り、遠く離れた人の癒しの物語ですが、福音書が編まれた時代、イエスが十字架にかけられた時代においては、イエスがこの地上におられないわけですから、イエスの癒しを直接受けることはできません。

ただ、イエスが一言おっしゃるだけで癒しが起こるという、その期待という者は、病を現代医学の恩恵にあずかっている我々以上に治る期待もなければ、どうすれば癒されるのかもわからないという不安の中に放り込まれてしまいがちな古代の人にとっては期待すべきありがたい話として広まったと考えられます。

マタイ福音書においては特に、イエスはそれを聞いて感心したというわけですが、イスラエルの中でさえこれだけの信仰は見たことがないと宣言されるわけです。

いつか世界中から大勢の人が来て天の国で宴会が開かれるだろう、その時にみ国の子らはくらやみに追いやられて歯ぎしりをするだろうと書かれていますが、信じるということに関してはイスラエス人であれ、異邦人であれ差はないのだと宣言されるのです。

ここで言うみ国の子とはイスラエル人と言って差し支えないと思いますが、天の国に宴席につくことが許されるのは、イエスを信じているか、イエスに対して信頼を置くかであって、イスラエル人であってもイエスに信頼を置かなければ外に出て歯ぎしりをしなければならないというのです。

マタイ福音書の編まれたところは諸説あるのですが、カファルナウムであったといわれています。
カファルナウムについて改めて確認してみますと、ガリラヤ湖の北西にあったのではないかと言われています。

漁港でした。

ガリラヤ湖の街であったと。
そしてヘロディアンピカソの軍隊の重大な駐屯地だったのではないかと言われています。
そして、先ほども申し上げた通り、その街でマタイ教団がおこっていったたのではないかと言われています。

マタイ教団の事情としてイスラエル人、ユダヤ人の中でイエスをキリストという風に信じてイスラエルの宗教ユダヤ教から離れて行くということを成し遂げた集団ではありましたが、そこにはイスラエルの共同体から排除されがちな異邦人も入ってくるようになった、そんな事情があったのではないかと想像するわけです。

というのは、本日読まれました箇所の前後、8章の1節から4節と、この後の14節から17節に二つの癒しの物語があります。

新しい読み替え

挟まれている、というよりも、1から17節までが3つの奇跡物語の一文として書かれているのです。
この一文はイスラエルの社会の中で排除された人が癒されたということもできます。

イスラエルの宗教的な制度から排除された人たちを受け入れる、そんな物語たちです。

具体的には先月読みました重い皮膚病の人の物語は、重い皮膚病が共同体から断ち切られてしまうひとつの原因だったということです。百人隊長は異邦人ですし、今日のつづきはペトロの家の姑の話です。
姑ということは女性ということですが、女性もイスラエル社会で排除されがちだったといえるでしょう。

イエスは癒しによって体だけでなく、壊れた関係をも修復させる方であることはこの物語から言わんとしているのではないかと読みとれるのです、

イエスの新しい天の国というのは、排除された人を受け入れ、社会の中で排除されがちだった人が中心になって作り上げていく、そんな新しい神の国だったのではないかともいえます。

イエスはそんな新しい神の民のリーダーであったという風にここを語ろうとしているのではないかと思います。

マタイ福音書の読み方としてはそういうことができるでしょう。
あえて私は別の読み方にも挑戦してみます。
百人隊長としもべというものに関しての物語です。

百人隊長、つまり百人の軍隊のリーダーであるという、そこそこの地位であったともいえる人ですが、軍隊のあるところ実は色もあるということは古今東西変わらないところであり、百人隊長も当然少年愛の関係にあった愛人がいたということをよく言われます。

古代の人にとって百人隊長としもべが並ぶと、同性愛の関係だったんだと想像してしまうという物語だそうです。

カファルナウムに入られたときに百人隊長がやってきたという設定ですから、もしかしたらこの百人隊長はヘロデ・アンティパスの軍隊の中の百人隊長だったのではないかという想像をいたします。
仮にそうでなかったとしても、ギリシャのカファルナウムにやって来ざるを得なかったという、イエスにとっての外国人だったと考えます。

これほどの信仰はないという信仰。
どんな態度だったのかと想像します。

イエスの思い

先ほどの7節の言葉ですが、ギリシャ語では肯定文も疑問文も実は区別がつきません。
?がないのです。

疑問文としてもとることができるのです。

文脈によって判断されるのですが、もしここが疑問文「~なければならないのですか」という風に訳すことができるとすれば、イエスはそれほど積極的にこの百人隊長を癒そうとする気持ちはなかった。
むしろ百人隊長に対して若干の不快感を持っていたのではないかとも想像してしまいます。

マタイ福音書においては15章にカナンの女の娘の癒しの物語が残されています。
21節から28節に残されている物語ですけれども、ここではイエスにとって異邦人であるカナンの女に対してイエスはむしろつっけんどんな態度をします。

この女性との問答によって娘が癒されるという物語ですけれども、ここでももし疑問文でとるとするならばカナンの女への態度と似たものを感じさせるものです。

イエスは異邦人の救いというものには積極的ではなく、むしろこのように言いながらイスラエル人の救いを先に願っていたのではないか、ということも想像できます。
しかし、イエスはこの百人隊長に対しても、また彼としもべの関係がなんであろうと、そこにケチをつけることなく言葉で癒しました。

真剣さと寛容さの奇跡

態度が冷たかったのにも関わらずイエスを動かした百人隊長の態度・信仰とは何だったのかと想像します。
それは百人隊長の真剣さだったのではないかと想像します。

百人隊長は自分とは異民族の民間癒し人であるイエスのもとに向かいました。
自分にとって大事な愛人が中風になって苦しんでいる。

そのことをどうにかできないかと真剣に思い、イエスのもとに向かったのでした。
そこでイエスに「私が行って癒さなければならないのか」といったつっけんどんな態度をとられたとしても、「一言と言葉をくださればいいのです……」と百人隊長はへりくだって恥も外聞もなく、イエスに願ったからイエスはその真剣さを認めて、これほどの信仰は見たことがないと、言ったのではないかと想像するのです。

上のものがもしかしたら自分たちが支配する植民地の民にへりくだることができるかということなのです。

百人隊長はその外聞なども気にせず自分の愛情をかけているもののために真剣になりました。
信仰というものは信頼という言葉に置き換えることもできます。

イエスに対する信頼であることは間違いないですが、自分の願っているものへの真剣さもここに含まれるのではないかと思うのです。

イエスもイエスでもしかしたら植民地支配というものへの反感がなかったとは言えないでしょう。
イエスもイスラエル人ですから、しもべのことを女性扱いして愛人にいる百人隊長を好まなかったかもしれません。

しかし、イエスも律法を超えたのです。
イエスも自分の持っている常識を超えて、百人隊長の真剣さに撃たれ、信じた通りになるようにと言葉を言うのでした。

百人隊長とイエスの出会いによって、その真剣さと寛容さの出会いによって起こった奇跡と読むことはできないかと、私は思います。
福音書において百人隊長は、比較的イスラエル人にとって、新しい神の民にとって好意的にとらえられることが多いようです。
それと同時に裏の深読みした関係も、非難されるどころか、否定されることもありません。
この時代にあってこういう人は当然いたのだというメッセージにも読むことができます。
イエスが心の中でどんな感情を持っていたか、わかりません。
しかし、当然いるべきものとして相対している。
私はそれは現代人も聞くべきイエスの寛容、愛というものこの短い言葉の中に読み取ることができると思います。

今を生きる私たちの寛容さ


自分に置き換えるときに百人隊長のような真剣さを持てるだろうか、イエスのような寛容さを持てるだろうか、と思ってしまいます。
日本も真綿で首を絞めめられているような植民地支配の中にいるのではないか。
戦後はまだ終わっていないし、アメリカの支配もまだ終わっていないのではないか。

昨今のことであれば、オリンピックのことでIOCはオリンピックを注視するどころか、このまま続けるべきとして、日本人の健康被害を考えず、儲けることばかり考えていて日本人のことは考えていないという風にも態度を読むことができるという風に思わざるを得ません。

これを私は緩やかな植民地支配のように思っています。
その中で属性ではなく、広いものの所属ではなく、個人の真剣さをひろいあげることができるだろうかと問われていると思います。
イエスに習うというならば、属性ではなく、個人の心の中の真剣さに目を剥けるということではないでしょうか。

人は出身や性別などで判断できるものではありません。
配慮のためにその人の背景を知ることはもしかしたら大事なことかもしれませんが、それがかえって思い込みにつながったり、周り巡ってこういう人だから付き合いたくないという風になってしまうのではないかと思います。
それはやはり、排除の論理と言わざるを得ません。

もしかしたらこのような誰とでも付き合おうとする、誰をも排除しないようにするイエスの態度がお人よしだとみなされて、十字架についてしまったのではないかと思います。

しかし、そのような態度がそれでいいんだとも教えてくださっているようにも思うのです。
その人をその人として見て受け入れようというその態度が神に喜ばれていると信じて、これからの歩みを、自分たちができることをしていきたいと思います。

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