2021年6月6日 礼拝「コルネリウスの見た幻」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「コルネリウスの見た幻」
・聖書箇所:使徒言行録 10章1節~8節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

内容

使徒言行録の読み方

この使徒言行録という大変面白い、しかし難解なものに取り組んでまいりました。
誤解をおそれずに使徒言行録を言うと、イエスの死後、キリスト教がどのようにキリスト教化していったのかをドラマティックに描きなおしていくと、おもしろいのではないかと思うのです。

自分の知識や理性の虫眼鏡がぴったりと合うととても面白く、合わないとちっとも面白くないものなのではないかと思います。

虫眼鏡はぴったりと焦点が合うと紙が燃えます。
しかし焦点が合わないと決して燃えず、おもしろくもなんともないという経験をしてきました。

使徒言行録も同じではないかと思うのです。

ステファノの違和

キリスト教の中で最初の殉教者と言われるステファノがいます。
彼がキリスト教の中心地であるエルサレムで長い演説をします。

これも我々キリスト教で養われたものからすると、おかしいと思うのです。
端的に言うとイエスは私たち人間の罪から救うために死んでくださった恵みの神という教理が伝統的に根付いていると思います。

神様が送ってくださったナザレのイエスというユダヤ人の人物。
それをあなたたちは怒りと憎しみをもって、犯人扱いをして殺してしまったとステファノはいうのです。

つまり、あなたたちは救い主であるはずのイエスを憎たらしいものとして殺したのだ、というのです。
その言い方がステファノを最初の殉教者としてしまったのです。

そして聖書の中心人物とされるパウロも、ステファノを殺す人たちの指導者です。
しかしそのパウロもイエスの啓示を受けて、「殺す」パウロが「殺される」側に寝返ったのです。
そうすると今まで「殺せ」と叫んでいたユダヤの人々からすると、裏切者ですから、生かしておくわけにはいきません。

ところが、ステファノの死を通してかは知りませんが、ナザレのイエスとは関係のないエチオピアの人などのユダヤと関係のな異邦人。
使徒言行録を読んでいくと、パウロは殺す側から殺される側になり、裏切者とされてどこでも命を狙われる立場になります。
そんな彼はかくまわれたりしながら外へ外へと、異邦人伝道をします。
そしてキリスト教の中心人物としてペトロがいて、彼もエルサレムを中心とした責任者としています。

しかし彼もまたイエスを見捨てたわけですから、罪の重さは変わらないといえます。
ですから、ペテロもパウロも自分の罪を背負ったまま福音を伝える側へと導かれたという、いわば裏切者といえます。

裏切りについて

教会という一つのグループがあります。
そこでいろいろな人間関係があり。合わなかったり、気に食わなかったりして自分の教会から離れることは日常茶飯事的にあるわけです。
それは教会を捨てたとは思いません。
理由をつけて離れて行ってしまいます。

これはある意味で自分が教会を捨てて、離れるということは神をすてることだという自責が信仰にないとすれば、その信仰は怪しげで、自己満足的なものだといわれてしかたがないものだということが、人物たちが担ってきた責任などをドラマ化していくと、そこに自分というものが燃やされていくという印象を受けるのです。

コルネリウスの見た幻

ここではコルネリウスというイタリア隊、つまりローマ兵の兵士たちを見ると、昔の軍隊を思い出します。
百人の部隊ですから、下から二番目の部隊の隊長さんです。
これはイタリアの人と言われていますから、ユダヤ人ではありません。

さまざまな本を飛んでみると、コルネリウスとされた人々は解放奴隷だとされています。
解放奴隷がどのようなことは私の勉強不足でわかりませんが、身分の低いものが軍隊になっているわけです。

ここで10章8節からのコルネリウスという者の物語を描いたルカの意図が影絵のように見えてきます。
どういうことか。
午後3時、ユダヤ教の祈りの時間、イエスの息が絶えた時刻に、天は暗くなって神殿の天幕が落ちて、叫びを上げて息絶えた時間。

おそらくコルネリウスというのは、善意に満ちた兵隊だったのでしょう。
しかし、彼はヤハウェの神を信じていたのか、自分の中に善的行為を信仰としてきたのかはわかりません。
後者であればどんな神であっても構わないはずです。

最近面白い話を聞きました。
ある人が信仰心があるのか、どんな神かという質問を受けた人が、「悪い神様といいい神様」がいると。
自分の心の中にいい神と悪い神がいるのだと聞き、おもしろい話と思いました。

コルネリウスももしかしたらそうだったのかもしれません。
しかし、あなたの信仰や行為が認められたという招きの言葉を、百人隊長は受けるのです。
そして「革なめし職人」のもとにペテロがいる。その彼と会えというのです。

革なめし職人と兵隊

ここで革なめし職人とは何なのか。
我々日本人からすると、革なめし職人と聞いて思い出すのが、歴史的に言えば被差別部落の人びとの職業です。
階級的には「けがれた人」「人であって人でない人」とされる人々の職業が「革なめし職人」とされる人でした。
最も低い身分でありながら、最も高く用いられた身分であることは事実です。

例えば革なめし、皮革業をする人たちは「人であって人でない」としながらも、天皇が馬に乗せるものは革職人の作品です。
最低とされる人々が最高のものを作っているのです。

私は東北の田舎出身ですから、彼らのことを知っています。
太鼓の革を作るためには、あるところに行かなければほかの人は作れません。
その場所は悪い言葉で言えば「犬殺し職人」とされて恐れられていました。
そのことを想いながら、コルネリウスという人に革なめし職人とされるひとびとのもとに行け、というのは何か暗示があるのではないか。

やがてパウロも天幕づくりとしての革なめし職人と同じことをしたと描かれています。
そこには革なめし職人という最低とされた人々と、兵隊という人殺し人々が同居している異邦社会というものを、ルカは暗示的に教えているのではないか。

これは我々からしたら虫眼鏡で探ったらどこに焦点が合うのか、というのを聖書の言葉から察知する能力、感性を持たないと、使徒言行録はちっとも面白くもなんともない書物になってしまうような気がします。

ともにいるもの

きのうもあるテレビで日本の最高の研究機関の人が、こんなことを言っていました。
「ウイルスというものは、いまから36億年前から生きている生き物である。一方で人間ははるか後になって生まれたのだ。人間は何十億年前からあるウイルスという生物によって人間化されて行ったのだ」と。
いまコロナ時代になり、コロナに勝たなくてはと言っていますが、それはおかしい、コロナに勝った負けたではないというのです。

20世紀はウイルスを撲滅した時代でしたが、21世紀はウイルスと共生する時代なのだ。
もし種の起源を書いたダーウィンがいたらなんというかと、彼はいっていました。
かれは勝った負けたといってはいけないというのです。

キリスト教に限らず、宗教もコロナ理解に関しては、私も含めてみんな全く途方に暮れている。
平和な時は勝った勝ったと言い切ってきたわけですが、研究者は長年研究し、情報を発信しているときに、「コロナウィルスに善玉はあるのか」という問いかけがあり、彼は初めて考えたこともないことを全くの素人から問いかけられ、初めてコロナとの共生という意識を取り戻すことができた、と。

ルカのメッセージ

我々は時々、神はともにおられる、と言います。
ともに、というのは、右でも左でも、上下でなく、善でも悪でもなく、ともに、なのです。
しかしながらともを口にしているものが、決してともをともとしていないというところに、私は宗教が問いかけられている課題でもあるだろうと思うのです。
まさにこのローマ兵の百卒兵が受けたのもそうなのでしょう。

熱心な信仰、素晴らしい奉仕の心は、最も軽蔑される革なめし職人と解放奴隷、そしてペテロがともになることが、神の啓示の本質なのだと、ルカは語ろうとしているのではないか。

それに気づくことは、読む我々に問いかけるルカの心情なのではないか。

一方ではあいつらがわるいやつだと追いかけたものが、追いかけられ、保護され、最後には殉教していしまう。

そんなパウロの生きざまと、それを生かす福音の力を、ドラマ化した一人の俳優となったつもりで読んでいただけたら面白いんじゃないかと思います。

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