2021年5月30日 礼拝「捨てられた者の痛み」(河口陽子伝道師)

礼拝説教
この記事は約14分で読めます。

・タイトル:「捨てられた者の痛み」
・聖書箇所:エレミヤ書 6章22節~30節
・担任教師:河口陽子 伝道師

内容

コロナ禍で…

この一ヶ月を振り返りますと、コロナワクチンの接種が始まり、希望も少し見えて来ました。
でも大阪や神戸などでは、病院が一杯で受け入れることができないという医療崩壊が起きてしまいました。
住居型高齢者施設ではクラスターが起きても、お年寄りを入院させることができずに、介護スタッフが看護を行うしかありませんでした。
残念ながらこの2ヶ月の間にご家族と最期のお別れもできずに、お年寄りが次々と亡くなるという事態が相次ぎました。

 丁度一ヶ月前、神戸市の訪問看護師の女性がネットに上げた書き込み上のご自分の写真、横向に立つその姿が、全身防護服で水色、その横顔はやや上の方を向き、青い手袋をした両手は握られ、その姿は祈っておられる様に私には見えました。
「敗戦中の従軍看護師はこんな気持ちだったのだだろうか、毎日ぽきぽき心が折れて行く。
コロナにかかっても自宅に放置された患者さんの家を毎日何回も回る。
多くても日に8件、重症度が増して一件の滞在時間が増している。
知らない有料道路を走り、真っ暗でここが県外かどこかも分からない。到着は夜の9時になってしまった。
その男性はまだ30代、大病院で陽性だけ検査して帰宅後、一週間。
咳込み、39度台の高熱が続き、酸素飽和度も低く、話せないし薬も飲めない状態。
気休めでもとステロイドの点滴をし部屋を出ると、男性の母親が「病院の廊下の片隅でもいいからどうか入院させてやって下さい」と私に向かって手を合わせ懇願される。
彼女が携帯電話で保健センターに窮状を訴え、その後何とか重度者治療の病院に救急搬送できできたのですが、数日後彼の母親に電話を入れると『今日亡くなった』と言われて、しばらく放心状態になってしまった。

 毎日必死にやっても、つかんだ命を絶対に離さないと思っても、この指の隙間から命がこぼれ出て行く。
調整役の保健師も次々倒れ、人が減る。倒れなけば休めない。
保健師も悲鳴を上げている。悲鳴の向こうにまた悲鳴がある。
一緒に悲しんだり喜んだりできるのが支えになる。」とも伝えておられます。

そして今、今度は沖縄や北海道での同じ状況になってしまって、北海道では自宅で亡くなる方が相次いでいるとの事……
コロナで多くの方が亡くなり、重症化する人も増えている。
それ自体が痛ましく辛い現実です。

ですが、先週は感染が拡大している福岡市内で、コロナに感染した30代の会社員の女性が、この方はほとんど症状はなかったのですが、自宅療養を始めてまだ二日目に自宅で死亡しているのが見つかりました。
感染で悩んでいる事が書かれた遺書の様な物が見つかり、自殺を計ったとみられると……
自分が感染してしまった事にショックを受け、自分が他の社員に、職場の人に移してしまった、感染を広げてしまったのでは……
悔やんで苦しんで、自宅で自ら命を絶ってしまった……

コロナに関連して自殺した例は以前にもあり、自殺者は増加しています。
新型コロナウイルスに関する差別や偏見に悩む人をサポートをするNPO団体には、感染を広げたと周囲に攻められたり、職場や学校に復帰後も避けられたり、悩む声が寄せられています。
その団体の代表は、「誰でも感染の可能性はあるが、まじめな人ほど罪責感を背負い、自分はいない方がいい、という思考に陥ってしまう。
一人で悩まないで、周囲の人はそうした気持ちを受け入れた上でサポートをしてあげて」と話しています。

私は、教会の様な集う場所、共同体に繋がっていたら、もしかしたら違っていたかもしれない。
だれかに繋がっていて、普段から気軽に悩みや行き辛さを共有できたていたら、、、と思わされました。

先週は五旬節、ペンテコステ、イエスを信じる一人ひとりが聖霊の風、神の息吹を受けて教会が誕生したたとされた時でした。
でも、私たちの様な家の教会とも言える小さな教会でも、本当に神の御旨に沿って歩んでいるのだろうか、と自問自答させられるのです。
このエレミヤ書を読み進めて行くと、正にその中身が問われている、一人ひとりの内心が、内実が問われていると……

皆さんの中には聖書、特に旧約聖書の神は厳しいお方で、自分以外の神を神とする事を絶対に許さない、という印象がおありかもしれません。
なぜ神は嫉妬心が強い、排他的ともとれるほど、他の神々を拝むことを許さないのでしょうか?

エルサレムの攻城

 今日の聖書の箇所、エルサレムの攻城、強固な城壁、城塞で囲まれた強固な都市、エルサレム神殿でしたが……
北からの災いは更に具体性を増し、その敵の容赦ない残忍性、残忍で憐れみがなく、「恐怖が四方から迫る」……いよいよエルサレム陥落の危機が迫ります。
この記述は、黒海の北、スキタイ地方の土着の遊牧民、荒々しい騎馬民族とされるスキタイ人の侵入の時に書かれ、のちに滅ぼす者バビロニアの来襲の時に使用した、との解説もあります。

「荒布をまとい灰を身に被る」のは深い悲しみの表現であり、喪に服す意を表しています。
コロナで息子さんを亡くされたあのお母さんの思いは……一人子の死は現代でも勿論耐え難い事、最も不幸な事なのです。
この聖書の時代では、一人子の死は特に家系の断絶を意味し、恐るべき不幸であったとの事。
とすると家父長制、家制度、一人子は男子であり、家系が途絶えることは「神の『生めよ、増えよ』の命に背くことであり、ご先祖様にも申し訳が立たない……」
家長の嘆き、悲しみは、生みの苦しみ、自らのお腹を痛めて命掛けで我が子を生んだ母親の悲しみと質は違っていたのかもしれません。

金を試す者

 次の段落からは民が金属の精錬に譬えられます。
神はエレミヤを「金を試す者」として民の中に立てた。
金を試す者、とは金属の純粋さを火に溶かして確かめる者、あるいは火に溶かして不純物である金属の滓(かす)を取り除く者のことです。
今までもずっと問われてきた宗教改革の内実の、中身の、民の心根の真実さを計る、問うものです。

ヨシヤ王の宗教改革とその実態

 預言者エレミヤの時代に原申命記、申命記の元となった律法の書が発見され、ヨシヤ王の宗教改革が始まりました。
列王記下や歴代史下にはその様子が詳しく記されています。
律法遵守のため、これまでの王たちの悪政故にエルサレム神殿の中に造られた豊穣の神バアルの祭壇や偶像とか一切を廃掃、排除。
バアルや異教の神々を拝む場と化した地方聖所も破壊、撤廃し、聖都エルサレムの神殿に祭儀を集中させる中央集権化が進められた。
異教の神々やバアルを排除し、浄化されたエルサレム神殿で、今までにはないほどの大規模な祭儀を行ったのです。
このヨシヤ王の宗教改革が行われ、これでこの世はきっと良くなると思われたのでした。

でも、それに乗じて
「我々イスラエル民族の本来の神ヤハウェに、誠意と忠誠を誓いましょう!」
「燔祭の捧げ物、供犠の祭儀、犠牲の奉納物を沢山供えましょう!」
「神ヤハウェはその屠られた焼き尽くす供え物は勿論、良い香りのする葦、外国の高価な香りを特に喜ばれますよ」と、献金や献品を募った。
そんな機運に乗じて利権を利用して富をかき集める、私腹を肥やす祭司たち。
今でいうと「お金でワクチンの順番が買えますよ!」とかコロナに乗じた詐欺の様に、「神殿礼拝の順番はお金次第!」とかうまい事で欺いて、お金を巻き上げたりしたかもしれませんね。

外国の脅威が迫っているのに、命が危ないのに、福島の原発事故直後の様に住民がパニックを起こしたら大変だからと、「直ちには命に関わる危険はない」とその場しのぎの安易なことを言う偽りの預言者……
「平和、平和、万事うまくいっている!」とうそぶいて、国家的危機、内も外も深刻な状況から聴衆の目を逸らし、耳を塞ぐように仕向けます。
貧しい者から更にむしり取り、弱き者を助けない、平気で切り捨てる権力者や社会、社会の不正義、社会悪……
そんな自分たちの罪と神の処罰を軽く見て、「神を喜ばす」と祭儀を盛大に執り行う宗教的権威者たち……

神の憤り、その怒りの訳


「こんな事は神を利用するのと同じではないか!?
神の律法を内容の伴わない、中身のないものにしてしまった!
益々自分の利益を、自分たちの腹を満たして、その結果は癒しどころか更に傷を悪化させ、膿が至る所から噴出している!」
神はユダの民に、そして私たちに「申命記の元、原点に帰ると言いながら、その行為の中身、その内実、実態は、その心はどうなのだ!?」
と問うているのです。

抑圧された弱く貧しくされた者を救う、その神の教えが律法なのに、経済格差は益々広がって、民の生活も益々苦しくなって、心も体も疲弊していく……
「それじゃまるで律法の悪用じゃないか!?」と神は烈火のごとく怒っている、と思うのです。
「奴隷として疎まれ抑圧のただ中にあった、蔑まれ辛い目に遭って来た、そんなお前たちをどん底から救い出した、その原点はどこに行った!?
この私の、この思いを捨て去るのか!?」と……

「踏みにじられる者の痛み、苦しみを見逃さず、心の叫びを聞き、一緒にどん底まで落ちて、そこから救い出す神、それが私なのだぞ!
そのことを決して忘れるな、思い出せ!」
そして「その様にして救い出された民であると言うこと、それが選ばれた民の理由であり、存在意義なのだ!
だから私とその働きを担うこと、それがお前たちイスラエルの民の使命なのだよ!」と……

真の神と一緒にいることを拒み、
「この神を拝めば、豊作が望めますよ」
「お金持ちになれますよ」
「成功して皆にうらやましがられ、尊敬される存在になれますよ」
との偶像、偶像崇拝、神でない神々からの甘美な誘惑……

「誘惑に負けて、浮気をして、私を裏切り私の下を離れた去ったお前たち……
こんなに愛しているのに、この私を捨て去った!
お前は自己本位の自己追求の道を歩んで来なかったか!?
その歩みをその道を見つめ直し、この私、神の御心の険しいけれど、正しい道を行け!
そうでなければお前たちの悪の故に、虐げられ続ける弱く貧しい者たちを生かすために、裁きを、審判を行うしかない!
それは今度は私が愛するお前たちを捨てることになるのだよ!」

神の名を使って、律法の名の下に結局はイスラエルの神を他のご利益信仰の神に貶めてしまった民に対して、
「私を神を使ってバアルと異教と同じことをするな!私を己のために利用するな!」と神は怒っているのです。
だからエレミヤは同胞の民の事を「彼らは皆、青銅や鉄の滓だ」と断定し、「彼らは皆道を外れ、中傷して歩く」と断罪するのです。

いじめ

「中傷して歩く、罠をしかける」……いじめる人というのは、自分は標準的と思っていて、相手の人と違う点や失敗話などを小さな仲間同士で大げさに面白可笑しく吹聴し、結束を強めていく、仲間はずれをしていく……ゲーム感覚で意地悪をして楽しむ、そんな事が麻痺して日常化、陰湿化していく……
言葉の暴力、ハラスメントから殴るなどの暴力にエスカレートしていく例も沢山あります。自殺に追い込まれる事も……
このコロナ禍でいじめも増えている……
溜まったフラストレーションを弱い者で憂さ晴らし……

昨晩いじめを苦に中学2年生、13歳の少年が自ら命を絶った葬式ごっこ事件、「事件の涙▽私は同級生を死なせた 葬式ごっこ35年目の告白」を見ました。
35年前、花瓶に入った花と、同級生41人と教師4人が書いた別れの言葉の寄せ書きの色紙が、まるでその少年が亡くなったかの様に、教室のその少年の机の上に置かれていた。皆で彼を笑い者にし、その後主犯格による暴行がエスカレートして行った……

「いじめで亡くなるのは自分で最後にしてほしい」と願い、この世を去った少年……
教師から口止めされ、民事裁判の証言には同級生はだれも立たなかった。
35年が経って、沈黙していたかつての同級生の二人が、やっとの思いで重い口を開いて語り出してくれました。
もうすぐ50歳になる元同級生は「いじめをなくすのに役立てば」と今回顔を出し、涙を浮かべながら語っていました。

少年と友達だったその男性はしつこく色紙に書く様に言われ、言われるままに色紙に言葉を書いてしまった。
「『友達だと思っていたのに』とその少年から言われた事が忘れられない」
「亡くなって初めて自分もいじめに加担していたことに気がついた」
「ずっと自分が責められていると感じ、職場内でのよくある仲間同士の話でも、あの事件を思い出し、辛くなって勤めを続けられなくなった。」
「いじめは自分に返って来る、一生びくびくして生きていく」と……
「言葉は消せない」
「色紙に『いなくなってよかった』って書いた。今でも書いてはいけない言葉だった」との言葉が重く響きました。

「捨てられた」という思い

 Eテレ(ハートネットTV)「ぶどうの木の子どもたち」も見ました。
兄弟10人のファミリーホーム、様々な事情(虐待、養育拒否、生活苦)で実の親と暮らせない3歳~17歳の子供たちが、60代の寮母の自宅で里子として暮らしている。
生まれた家も名字もみんなばらばら。

10歳で自分が里子であることを知った青年は
「自分を捨てた親をぶっ殺したい!」「でも話したい」
「おれは生き抜く事の強さを実に付けたいと思っている」とも……
「つい二日前、死んでやる!と思った。とても悩んだけれど、やっぱり生きる!」
「頑張って笑顔でまたこの家に帰って来たい」

また、ここで育って一人立ちした25歳の青年は、「人の役に立ちたつ仕事がしたい」と、社会福祉士の資格を取り、
「誰かのために一生懸命生きるんだ!」というその気持ちで、
都会を離れて、長崎の離島、対馬の地域包括センターで働いています。
「そのためには、そこで生きている人たちと関わらないと何も見えてこない」と、自分の身の上も隠さず話し、地域のお年寄りとの交流を続けています。
その青年の生い立ちとは、未婚で生んだ母親は食事もろくに与えない、ネグレクト、育児放棄……2歳の時児童相談所に保護されたという現実……
穏やかそうに見える彼には「怒りのエネルギー、大人に対しての怒り、大人が自分を守ってくれなかった!という感覚がある」と言います。
「ずっと居場所を探している」
「誰かと繋がっていないと孤独になってしまう」とも……
「心の奥底に『誰かに捨てられた』という感覚がある」
「ずっと劣等感を感じてた、でも劣等感があるから頑張れる、大事にしたい」と……

その青年の姉は、「みんなが繋がっていて、支え合う」と話しますが、
「親に捨てられた」というそのトラウマで、人が怖い。
「幼い頃、里子であることでいじめにあった」
「いつも引け目を感じて生きて来た」

「だれから生まれて来たかでなくて、これからどう生きて行くかが大事」
と言う養母、洋子さんは、20代で出産を諦めざるを得ず、それで里親になる事を決めたのでした。
でも、最初の里子を事情で小学生の時に手放さなければならなくなった時に、
ヨハネによる福音書15:5「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。
人は私に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」をその少年に読み聞かせ、ぶどうの木の絵を手渡したと言います。
今60代の彼女は「離れていても枝同士、別々な所に暮らしていても、どこにいても、同じ木に繋がった家族なんだよ!」と子供たちに語っています。

「家族ってイコールぶどうの木」
「見えないけれど、繋がっているから支えていける」
「軸の木から栄養を貰って、伸ばして貰った」
とは、ここで暮らす子供たちの言葉です。

ここで育った子供たちは、葛藤や不安を抱えながら、それぞれの道を生きている。
自分で枝を伸ばそうとしている。
自分の居場所を探す旅は続いている。
枝を増やしてまた誰かと繋がって行く。

私は教会が今本当にイエスに繋がるぶどうの枝になっているのだろうか?
と思わされました。
私を含めここに集う一人ひとりが、ご利益のための利益追求、自己実現のための、自己中心性の神ではない神を選ぶのか、他者中心性の神ヤハウェか、どの道を選び歩むのかが分かれ道、その岐路に立つ私たちです。

イエスが歩んだ狭い門を選ぶ覚悟、自覚を常に持つ事は確かに難しいことです。
でもそんな大きな選択だけでなく、その場その場、その時その時で試されている気がするのです。
イエス・キリストの教会に集う、ぶどうの枝である教会の私たちだからこそ、その都度その都度、選択を迫られていると思うのです。
どこに枝を伸ばすのかと……
他者と手を繋いでいく者、枝でありたいと……

「捨てられた」イエスに繋がって

「捨てられた者」……もしかしたらここに集う私たちは、大なり小なり「捨てられた」という思いがあるかもしれませんね。
イエスも養父ヨセフに育てられ、「実の父親に捨てられた」と感じたかもしれない……
周りからもうわさされ、幼心に心無い言葉で笑い者にされたり、いじめられたり、仲間はずれにされたり……
母マリアからも夫ヨセフの手前、他の兄弟には優しく、自分には厳しく冷たくされたかもしれません……
だからこそ、律法という枠の外に置かれた収税人や売春婦たちの、人として扱われない惨めさ、悔しさが、自分の事の様に手に取る様に分かったのかもしれない……

そして十字架、これは集団的いじめの最たるものかもれません……
助けなければ加担したのと同じかもしれません。
その意味ではすべての人に捨てられた、と言えるかもしれないイエスの死、殺害……
そして神にも捨てられた、神さえも助けなかった……
孤独の中、苦しみの中、惨めで、耐え難い痛みで、怨みもしたでしょう。
でも、そのイエスを捨てた同じ神によってイエスは復活しました。

イエスを捨てたその神によって復活した、その意味は何なのでしょうか?
捨てられた痛みを知るイエスだからこそ、イエスを捨てた弟子たちを捨てなかった。
弟子たちを、加害者をも許した。見捨てた人、すべての人を……
それは生い立ちにおいて過去の自分を見捨てたすべての人、加害者のみならず、その先を担うであろう未来の人間、私たちすべても、そしてきっとイエスを捨てた神のことも許したのだろうと思うのです。

怨み、憎しみ、敵意からは人間の命や愛を捨て去る報復の連鎖、怨み、憎しみ、敵意、悪の増幅、命と関係性の死、嘆き、悲しみ、分断、断絶しか生まない、永遠に続く人間の愚かな溝や壁が更に広がって行くだけ……
人から一目おかれるとか、尊敬されるとか、地位とか権力とか、勝った負けた、切った張ったとか……そんなものは虚像、偶像崇拝。
だからそんなものは自分の価値を高めることはできません。自分を貶める、それだけです。

イエスの様に踏みつけられても、たとえ捨てられても、自分の苦しみ故に他者の苦しみを思い、許していけるそんな自分になりたいし、そんな自分を好きになって、自分に誇りが持てる様になれたら、と思うのです。
私を含め、ここに集うお一人おひとりが、互いにイエスに繋がるぶどうの枝として、自分を捨てて、イエスの命に、福音に繋がる者になりたいと思うのです。

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