2021年5月16日 礼拝「サウロ、使徒たちと出会う」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「サウロ、使徒たちと出会う」
・聖書箇所:使徒言行録 9章26節~31節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

内容

完璧なユダヤ教徒

これまでキリスト教がキリスト教化した功労者であるパウロの前身、サウロについて、サウロの出来事の始まりの部分を学んでいるわけですが、彼が聖書に登場するときというのは、彼は生粋のユダヤ教徒であり、誰よりも優れたユダヤ教の学者であることが前提となっています。
完璧なユダヤ教徒と言ってもいいのかもしれません。
そういう意味では権力においてもこれ以上の人はいなかったといわれている彼でした。

その彼が聖書に登場するということは、とてもドラマティックというよりも、聖書の読み方が我々が幻想的に持っている宗教観をすんなりと心に入るようには書かれていないというところに戸惑いと不思議さ、そして疑念すら抱いてしまうような出来事が並べられています。

神の名のの暴走

今の私にとって当時のサウロは恐ろしい権力亡者ともいえる人間だったと思います。侠客のような男で、暴れん坊だったわけです。
それを制御するものもありませんでした。

それは神の名をとどろかせて働く暴力に抵抗するすべはなかったためです。
それに津出生する、容認するという方法しかありませんでした。
例えば戦争にしても、日本の戦争論は聖書によく似ています。
自分たちの責任ではなく、一刻を支配するある意味の権力の名において戦争してきたのです。
それを否定することはその権力をも否定することですから、これは国賊だとかといって罰せられたのです。

私は戦争の時は小学生でしたからわかりませんでしたが、上級生に叩かれる時に、俺が叩いているのではなく、俺は天皇の名において叩いているのだというのです。
それに対して文句の言いようがなく、それをずっと恨んでいつかやってやろうという思いだけが募り、心の内では上級生を尊敬できませんでした。

戦争が終わるまで、侮辱されようが天皇の名において我々は従順でなければなりませんでした。

そんな時代を経てきたものとしては、パウロの在り方は戦時中の権力亡者によく似ているのです。
それに対して彼が猛威を振るって暴力的にキリストを信ずる人たちを一網打尽に捕まえ、それを引き渡すということをやってきたのです。
本当に恐れられてきたと思います。

絶望のどん底

キリスト教は反ユダヤ教とされる人たちは、結局ローマ帝国の力によって完全に消滅させられるわけです。
それがエルサレム戦争のわけです。

当時福音を信じていた人たちは国を追われ、散らされているわけです。
それが聖書の地名で言うサマリヤ地方などというわけです。

サマリヤ人はもともとは同属なわけですが、ある時に分裂して、新しい宗教をもって生活していましたが、のちにキリストを信ずるものが彼らのもとで穏便に生活していたわけです。

穏便に生活していたキリスト教徒たち穏便に過ごしていたわけですが、彼らはそれなりの恨みを持ち、エルサレムの回復と同時に自分たちの悲惨さというものの板挟みで生きていた難民のひとたちともいえると思うのです。

パウロは彼の言うユダヤ教に離反して、別のものに傾いていくというということで、イエスに属する人々は許せない罪人であるわけですから、その正義感で迫害していたわけです。それでダマスコへの途上でイエスと出会うわけです。

そして彼は絶望のどん底に陥れられるわけです。

こういう物語を読んでいて、物語としてはとてもドラマティックですが、当事者としては耐えられない試練だったと思うのです。
そしてこのことは神様にとって非常に疑問を投げざるを得ないと思うのです。

神への疑問

例えば一人の人間を自分の側に変革させるために、一人の人間を不幸にする、歩けなくするといった苦難を神様は押し付けて、そして相手にざまあみろということによってその人間が変えられていくとなると、変える力は恵みと言えますが、変えられない人もいると思うのです。
ここで絶望し、死んでしまう人もいるかもしれない。
体罰者として罰せられるかもしれない。
だったら死んでしまったらいいという人もいるかもしれない。
しかし、神様はそんなことをされる方なのでしょうか?

そこまでしなければ人間は変えられないのかという疑問とともに、一人の人間の命を奪う手前まで行ってしまう残忍な方なのかという疑問を、当然生まれなければならないと思うのです。
ただ、サウロの場合には回復していますから、それはハレルヤ、おめでたい話と理解されるということで済まされる場合の人と、いったいキリスト教は何なのだという疑問も生まれてくると思うのです。

そしてイエスはアナニアという人物を通してパウロのところに使わして、健康にした、むしろ今度は自分の側に立たせたものとして働かせたという神様のご利益のようなものが働いたのかという疑問が起こるわけです。

拝金思想という魔術

それから、今朝も人の話を聞いていたら、バングラディシュでの話がありました。

かつては本当に貧しかったバングラデシュが奇跡的に豊かになり、今は高層ビルもできて、学校や商店街もできて、今の子供たちは教育も受けられることを通じ、「金さえあれば幸福になれる」という、いわば資本論の負の部分を継承してしまい、その教育で欠けているものとして倫理がかけてしまったといっていました。

金さえあれば神も買えるというのは、パウロの時代でも魔術師として出ているわけです。
魔術でもって人の心をくらませ、君臨していった。
まやかしでもって神になれる。
これは私は、こういうことを言うとお叱りを受けるかもしれませんが、牧師は金で買われているという印象がないわけでないのです。

牧師を批判しているわけではありません。
とても魔術師的なあり方で君臨している教師もいるように感じるのです。

たとえば、謝儀が少ない、とか、生活が成り立たないとか、いろいろと事情はあるとは思いますが、そこで語られる神の言葉がどうであろうと、ほかのこと、学歴や名誉といったものが魔術的に働き、教会を支配しているというということがないとは言い切れないと思うのです。

イエスの時代も我々の時代も、2000年の時間はあっても我々とは1秒の違いもないんじゃないかと思います。

そういう時代感覚を私は見失ったとき、私は自分の良心がマヒしているといいたいのです。

こんなことを言う人もいます。

「悪を悪と思わないでする罪と、悪を悪として行う罪は違う」

少なくともプロテスタントの福音理解というのは、パウロが言うようにローマ書が言うように信仰だけのものもそうですが、信仰があれば良心がなくてもいいのか。

決してそうではありません。
良心が信仰を生み、信仰が良心を育てるのだ、と私は理解したい。

良心と信仰

コロナで人間不信になりそうになりながらも生活しているわけですが、コロナは生きているものの命を奪うものですから、悪的な存在だと思います。

だから悪を滅ぼさなければというのが我々の働きだと思うのです。

しかし、コロナには悪も善もありません。
地震や台風もそうです。
彼らは自然のままに発祥し、収束していく。
ですから、今朝もテレビでやっていましたが、このコロナ感染を悪用して様々な誘惑や犯罪が数えきれないほど蔓延しているという報道がありました。

私には想像もつかないことが起こっているようです。
感心してしまいます。

こういうことに対してどれが善でどれが悪かということを区別できる知性が我々にはあるはずです。

しかし、それを働かせない。

脳みそも使い方によっては人工知能のようになるわけですから、それで世界の富を自己所有するほどの働きをする脳を持っている人もいるわけです。

ですから、おもしろいのですが、自分の財産が何兆円という人が離婚騒ぎで大騒ぎすると、離婚というものはただ出来事ではなく、思いがけない不幸になるもたくさんいるのに、ただお金持ちということだけで騒ぎになるということがとても節府議で仕方がありません。

そこにはうらやましさや妬みなどがあるのでニュースになるのだろうか、踏まれていても痛いとすらいえない人の離婚はニュースにならないんだなと思うとなんなんだろうか、とひねくれた感想を持ちながら聞くわけです。

そうすると私たちの良心とはなんなのか。

本当に良心的な信仰を持ち、信仰が良心を育てているのだろうかということを、私はつくづく考えさせられるのです。

今までサウロは迫害者でした。

おそらく彼が来たとなったら扉を閉めて隠れたかもしれない。
そんな彼が殺される立場になった。
そこに福音の対立があるわけです。

信仰の対立

難民であっても平和に暮らしていた人と同時に、大罪を犯した恐るべき人間が恐るべき人間が逃げ回りながら福音を延べ伝えていくという二面性がある。

そうすると福音の二面性というものがあるのだろうかと思うのです。

ただ私がサウロに頭を下げてしまうのは、それだけの権力、正義感を持っている最も高尚な人間が福音を担うことで踏みつぶされてもいい人たちの前で踏みつぶされることを恐れずに語らせているものはサウロではなく福音だと思っています。

福音は排除されると同時に、排除するものを支配する力も福音にはあるのだ。

そのことが明確にし、信仰のの組み立ての中にきちんと組み立てられたときに、サウロはエルサレムのキリスト教の本部で認知されたとき、踏みつぶされるものを自分の痛みとして担い続けたサウロのありかた、それは福音そのものなのだと言行録は語っているのだと。

それが教会の基礎だといっているのです。

教会の基礎は踏みつぶす力、金によって自分の生活を安定させる力ではありません。
そういうことを勘違いした時、キリスト教の魔術性を徹底的に消し去り、痛みを持つものに愛を行使するその証人として、我々は選ばれているのだ。

それがサウロという、大悪人を大聖人にした福音の力に、我々は依存しているのだ。
その分別に私たちは持たなければ、キリスト教も自分をだますと同時に自分も騙されているという真実を忘れたと同時に、キリスト教は失っていくだろう。

きのうもあるお寺のお坊さんが寺院の消滅論を書いているのです。
とても耳の痛いお話をしていました。

キリスト教が魔術化し、自分の良心、分別を捨てた時、キリスト教も捨てられるのではないか。
その危険性を見に背負って、福音の使者として生かされていることに自分の良心を語り、そのことでしか社会を変えることはできない、教会の基礎にはならないということを、サウロは自ら教えてくれているのではないでしょうか。

そのことに気づいてほしいと願います。

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