・タイトル:「御心ならば」
・聖書箇所:マタイによる福音書 8章1節~4節
・担任教師:北口沙弥香教師
内容
故山埜井多恵子氏・故池田良子氏記念礼拝
本日は故山埜井多恵子氏、故池田良子氏の記念礼拝としておささげしています。
キリスト教において先に亡くなった先達を覚えることは、私は大切なことだと思っています。
先にいき、歩まれた方は私たちに多くのことを教え、ある時は励まし、またある時は叱るものであるかというふうに信じるからです。
私たちもやがて天に帰るその時まで、なるべく途中下車しないように誠実に歩んでまいりたいと願っています。
マタイによる福音書8章
本日の聖書はマタイによる福音書8章1節から4節です。先月までで山上の垂訓と呼ばれるイエスの説教集は一区切りつきまして、マタイ福音書についても、マルコ福音書を下敷きに書いた部分に戻っていくわけです。
マルコ福音書の1章40節から45節までが下敷きになっているといわれています。同じようにルカ福音書も5章の12節から16節まで同じマルコ福音書をそれぞれが主張を込めつつ書きなおした物語が残されております。
イエスの具体的な宣教活動のスタートは、山上の垂訓の出来事であったようにマタイは書き換えたわけですが、マルコ福音書の奇跡物語にこの8章から戻ってくるという話になっております。
山上の垂訓の中で述べられたイエスの教えを、また力強い神の子としてその業を示されるというように戻っていくわけです。
イエスが山を下りられるというのは説教が終わってから、とマタイがそのように場面設定をしたわけではありますが、おおぜいの群衆が従ってきて、イエスとともにあったということが、まず書かれます。
すると重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄ってきて、「主よ…おできになります」とイエスに願い出ます。
そしてイエスが「清くなれ」とおっしゃると、たちまちその人の皮膚病はいやされたということです。
イエスは誰にも話さないようにと気を付けること、そし祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物をささげて自分が清められたことを証明するように言い、この短い部分は終わります。
重い皮膚病
重い皮膚病という言葉が出てきます。
ヘブライ語でこの重い皮膚病の人は打たれた人というように言われるそうです。
これは皮膚病というものがその疾病が、現在のニュアンスとは異なるものだと思うのですが、神に打たたれたもの、つまり神の罰が下ってこのようになってしまったというニュアンスがどうしても込められてしまっているという言葉であります。
医学的なこと、科学的なことよりも、宗教的な評価がここに加えられているということです。
この重い皮膚病かどうかという診断は祭司が行います。
医学が十分進んでいない当時、重い皮膚病とされているものには、例えばアトピーや疥癬のほかにカビなども含まれていたようです。
ですので、人間にカビが生えるといったこともあり得ますが、それ以上に家の壁にカビが生えたら重い皮膚病だといわれるわけです。
このように重い皮膚病とみなされてしまったら、ほかの人に触ってはならないのです。
また、ほかの人が触らないように自らけがれたものであることを宣言しながら歩き回らなければならない、むしろ歩き回ることも許されないわけです。
あるラビがこのようなことを言ったようです。
「重い皮膚病の人は他の人と2メートル以上距離を取らなければならない」
2メートルと聞くとコロナと一緒だなと思ってしまいますが、2メートルというのは経験則としてあったのでしょう。
また、重い皮膚病の人が風上にいたら50メートルの距離を取らなければならないというふうにも教えていたようです。
この重い皮膚病、治療法が現代の医療であれば抗生物質を塗って体をきれいにしてということをするわけですが、そのようなことは全くないのです。
その中で公衆衛生として維持しなければならなかった、一人が皮膚病になってしまって、またうつる皮膚病かうつらない皮膚病かが判断できないわけです。
現代医学だったら判断がつくかもしれません。
そしてうつらない、蔓延しないためにこのような距離を置くようなことが、公衆衛生のために現実としてあったわけです。
しかしそれは一人を犠牲にして他を守ることであります。
イエスはそのやりかたに挑戦したのではないでしょうか。
挑戦した、というのは、一人を犠牲にして全体を助けようとすることは、一人の人も神によって作られたこと、今の言葉で言ってしまえば人権を阻害し、その人を殺すことではないかということを、イエスは感じたのでしょう。
また、重い皮膚病の人は隔離されている必要があり、人に出会うことを禁じられているわけですから、この重い皮膚病を持っている人がイエスに会いに行くことも、切羽詰まった選択だったのではないかと読めるのではないでしょうか。
イエスに会わなければ神の打った重い皮膚病は癒えることがない。
イエスに会わなければ先がないという決死の思いが伝わってくるような気がします。
イエスに「…おできになります」と言った人に対し、イエスは「清くなれ」と言われました。
この「清くなれ」という言葉は、直訳すると「私は望む」という言葉になるそうです。
イエスはこの人が癒されること、そしてその中で生きることを望まれました。
それゆえに癒しが起こったということもできるでしょう。
癒されたこの人は、誰にも話さないように気をつけろという風に言われ、また祭司に体を見せて証明せよといいます。
マタイとマルコ、二つのちがい
これに関して、重い皮膚病が癒された人は祭司にチェックをしてもらって、共同体に戻るという手続きをするわけですが、それはレビ記の14章の1節から32節に規定があります。
かなり長い手続きを踏む必要があります。
このような祭司の証明、儀式を経て共同体へと戻ることができるということがわかります。
このマタイ福音書に残されている物語ですけれども、もとはマルコ福音書のものであったと申し上げました。
何が違うのか、という点については2点あげられます。
一つはマルコ福音書にないものが付け加えられている点です。
また2節には「ひれ伏して」とありますが、マルコ福音書は「来て」となっているという点です。
このように重々しい単語を並べることで荘厳な話としてマタイ福音書はこの話を演出しようとします。
神の子に願い出るのだからただ来るのではなく、ひれ伏すという言葉に書き換えるということをするわけです。
また、マルコ福音書1章41節に「イエスが深く憐れんで」という表現があります。
この言葉はマタイ福音書の、新共同訳が用いた底本では「憐れんで」ですが、「怒って」としている写本もあるようです。むしろ写本の重要度などからすると、怒ってのほうが適切なのではないかという意見もあります。どちらにせよ、イエスの感情は削除されています。
慈愛にとんだ救い主であるイエス・キリストが怒る、というのは、マタイ福音書の著者の描きたかったイエスではなかったのだろう、慈愛にとんだ救い主が怒るはずがなく、むしろ優しく癒してくれるはずなんだということを、マタイ福音書の著者は考えてしまったのではないでしょうか。
怒るということが、マタイ福音書において証したいイエスの姿ではなかったのではないかという風になるのではないかと思うのです。
怒る、ということ
怒るということについて考えてみたいと思います。
人はなぜ、どんな時に怒るのかということです。
人は、自分の感情が満たされないとき、期待したことが起こらなかったときに怒るのではないかと、私は思います。
もしマルコ福音書を書きたかったイエスが怒ったイエスだったらどうだったのか、と思うのです。
あえてマタイ福音書が消したイエスというものを、マルコ福音書は残し続けていることを想うわけですが、重い皮膚病の人が近づいてきたから怒ったのではないか。
意地の悪い読み方をすればそのようになります。
しかし、そうではないと思いたいものです。
この重い皮膚病の人の置かれている理不尽さ、いくら神が打ったと信じられている病だったとしても、その病にかかったとしてもその人のせいではないのだということをイエスはお感じになっていたのではないかという風に思いたいのです。
その人の置かれた苦しさ、病の苦しさだけでなく、社会の中から排除された苦しさを想って、律法の民だといいながらも律法の精神を証していない状況に対してお怒りになったのではないかと思うのです。
確かに怒るという感情は、怒り方によっては人間関係を壊してしまいかねないものです。
怒りとはとても難しいものです。
マタイ福音書の著者をかばいたいわけではありませんが、怒っているイエスよりやさしいイエスのほうがいいんだ、という主張は、もしかしたら人間の願望としては無視できないものではないのかと思うのです。
怒らないイエスを描いたマタイと、そのもとになった怒るイエスを残したマルコ福音書。
その両方を証としてとらえたときに、あえて削られてしまった怒るイエスのことを考えたい、そのように思います。
怒りに満ち溢れたこの世で
いま、この社会の中で怒りが満ちているように思います。それはコロナ禍で苦境に立たされている人の怒りであり、この状況において改善されないことへの政治をつかさどるものへ対しての怒りであったり、この先が見えないことへの行き場のない怒りであったりといった怒りが増しています。つい最近コロナワクチンの予防接種が始まったばかりですが、横浜市においては受付が始まったにもかかわらずインターネットのサーバーがパンクしてしまい、受付手続きがうまくできなくなっているということを聞きました。
不測の事態ですし、うまくいかないことがあるのかとは思いますが、どうにかワクチンを打って安心して生活をしたいという人にとっては、怒りを禁じることができない出来事であるといっても過言ではないと思います。
政府はオリンピックをするために、オリンピックの出場選手から優先するということを言い始めました。
社会的合意としてとりあえずワクチンが足りなくても、医療従事者、お年寄り、基礎疾患のある人、それらがすんだらそのほかの人、という風にワクチン接種の順番だと固く信じていた人にとっては、大変気持ちが裏切られる出来事であったと思います。
そしてその怒りを政府にぶつけずに目立つ功績を残しているオリンピック選手にぶつけてしまい、辞退を要求する人も出てきています。
怒りがあることはわかります。
しかしその怒りをどのように表現し、誰にぶつけこの社会を変えていくのか、また八つ当たりで済ますのかということを、私たちは身につまされて考えます。
怒りというものはある面で、自分の期待がかなわなかったときに生じてしかるべきものであります。
私たちは怒るとしたら何のために怒るのかということを、イエスから学びたいと思うのです。
怒りの意味
イエスは、この重い皮膚病の人が、近づいてきて清められることを願ったときに、「清くなれ、私は望む」とおっしゃいました。
この人が社会から隔絶されている状態から回復されることを、イエスは望まれたのです。
そう考えるならば、私たちが怒るべきなのは、社会の不条理を作っているものに対して怒るべきなのではないでしょうか。
怒りを決して八つ当たりではなく、社会を変えていくために、この世を少しでもイエスの願った神の国に近づけるために、私たちは怒るべきではないでしょうか。
怒りというものは難しいものです。
イエスは最終的に神殿で怒りをぶつけたがゆえにすぐさま十字架につけられたというふうに言われています。
イエスの怒りがイエスの死を早く招いてしまったという風にも言えます。
怒りというものはそれだけ難しいものでもあります。
しかし、私たちは私たちの持っている怒り、もしかしたらキリスト者であるゆえに怒るということも時に必要ではないかという風に思うのです。
イエスは怒るほどに十字架に至るまで神のみ心に忠実であったことを覚えたいと思います。
私たちが生きるにしても、喜ぶにしても怒るにしても神のためであり、イエスに習って生きるためであるということをわきまえていたいと思います。
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