2021年5月2日 礼拝「サウロの逃亡」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「サウロの逃亡」
・聖書箇所:使徒言行録 9章23節~25節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

内容

サマリー

ユダヤ人がサウロを殺害しようとする陰謀を立てていることに気づく、サウロの物語。
ここを読み解くことで牧会者の覚悟と福音について、考えることができます。

使徒言行録第一の関門

使徒言行録の第一の関門と言われる、のちのパウロの神体験、回心の経験。
第9章は、鋭い、激しい、秘密の多いパウロの信仰体験でありながら、そのすぐあとのつづく物語ありはそれとはまったく違った、彼の信仰経験に水をぶっかけるようなものです。
繰り返しこの箇所を読むが、腑に落ちない思いがします。
聖書に対する疑念、不信と思われるかもしれないが、聖書は大いに疑念を持って読むべきであり、疑念を持たないで聖書を読む方がかえって不敬であると思います。
大いに疑問を持ちつつ読むべきです。
そうすると今まで学んできたことが、受け入れ難い内容が浮かび上がってくる気がします。

聖書学者のケーゼマンが、パウルの研究の際は「パウロの神学的体験主義がパウロ神学の根幹をなす」と言いました。
パウロは誰よりも律法に忠実であり、律法に適わない者は捕まえるという律法第一主義といったものでした。
彼に勝る律法主義者はいませんでしたし、彼自身、律法に忠実であり、命をかけた男だった。
しかし、彼はダマスコに下っていく途中で光に撃たれて倒れ、物が見えなくなるという経験をします。
これもパウロだけの個人的な経験であり、誰にでもあるわけではないかと思います。
そこで三日三晩地に倒れます。
「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という問いかけに、何者か尋ねると「私はあなたが迫害している、いわば被害者である者だ」、「行ってあなたがやることがわかるだろう」と言われます。
これは、パウロと神の直接話法ということになる。

そこに、アナニアという男が現れる。イエスをメシアと告白する、パウロにとってはけしからん奴でした。
しかし、アナニアに「この者を立ち直らせて働かせる」とイエスは言います。
アナニアはこれに反論するが、「選んだ器としての自己責任論」を告白します。

腑に落ちない聖書箇所


なぜ腑に落ちないのか。
それはアナニアはサウロのところに行ったのは「あなたが迫害しているイエスから来ました。」ということです。
「元通りになるように」と手を置いて、目が開き、洗礼を受けて異邦人伝道へ向かうことになります。
パウロはのちに「これを読めばよいように書いた」とするローマ書の中で「人は信仰によってのみ救われる」と書きました。
これはもちろん旧約からの引用です。
しかし、「信仰によって救われる」、「救われた者のみが伝道者になる」という筋書きなのです。

ところで、ここにはパウロの信仰がどうとか、信仰義認がどうとか、そんなことは一言もありません。
ここに書いてあるのは「健康の回復」のみである。「歩けなかったのが歩けるようになった」といったことだけなのです。
しかもたった3日間で終わってしまっています。
「あなたの罪は赦された」とも「あなたの信仰があなたを救った」とも書いていません。
サウロは(健康の回復を)神の恵みとして受け取ったのでしょうか。
そうなるとやはり「人間は健康だからこそ、神のわざに参与できるんだ」という結論になってしまうと、決して聖書は不健康なものをよしとしない、という結論が出てきてしまうような気がするのです。
そうすると私は思うのです。
アナニアの言葉(9:15)が引っかかってしまいます。
はじめからサウロを「選びの者」として選んでいたのでしょうか?
カルバンの二重予定説的でもあります。

アナニアは神に逆らうことができなませんでしたからで、サウロはは健康になりました。
ここには宗教性というものが何もなく、ご利益的です。

悪と善の一元論

私は眠りながら、「悪を作って、善を生むのが神なのか?」と考えました。
彼が神を選んだのは、苦しみを体験するためだといいます。
神の苦しみを体験させるための器としてサウロを選んだのであれば、因果応報です。
キリスト教に因果応報はないといいますが、サウロに限ってはあるように思えるのです。
「悪をつくって、善を生む」。
これがキリスト教を理解するのに避けられない善悪二元論がどこで一致するのか。
私は「悪をつくって、善を生む」というところにあるのではないのでしょうか。

これは二元論ではありません。
一元論です。

初代教会は「キリストは真の人であり、真の神である」と信仰告白をしました。
私に言わせれば、「真の悪であり、真の神である」とでも言えるでしょう。
因果応報の中に一元論を語ろうとしているところに、独特さがある。

償いとしての異邦人伝道

そしてパウロは罪の償いとして異邦人伝道をしました。
彼は罪の報いとしての恵みとして選ばれたのだという理解も、間違いだと私は思いません。
そこには困難があります。
そして、彼にその困難を負わせたのです。
これが私に従う者は私に従えという場合の十字架だと思うのです。
福音は十字架です。
復活が福音ではありません。
そして、福音を語るため、サウロは殺される目にあったのです。
悪をつくることによって善が生まれるという逆説性こそ、パウロの神学のなかに根流として流れているのではないかと思います。
だからこそ福音宣教には苦しみがあるのです。
教会の中で安泰とすることを望む牧師もいるようですが、それは使徒的ではないと思います。

私の苦しみを味わわせるためにあの大悪人を選び、用いた。
そしてそれが善である福音であるということは、まさに私の十字架を背負って私に従うものこそが私にふさわしいんだという福音的理解が、ここで実証されているのではないかと思うのです。

パウロほどの人間が殺す側から逃げ惑っている。
あるいは仲間の助けによって逃亡するわけです。
つい最近、ある日本の自動車メーカーの会長が箱に入って海外逃亡するということがありました。
いまだに解決していませんし、それが善なのか罪なのかもわかりません。
ただ、決して愉快な話ではない。
そのようなことをサウロは経験しているのです。

考えてみれば納得できない話ではないでしょうか。
殺されるかもしれないという不安を生み出しているものが、逃げ出してしまった。
サウロは殺されて仕方がないはずです。
彼が殺されて喜ぶ人間がいるのに、神様は逃げ場までお示しになったとは書いていませんが、決してサウロはこれで終わっていません。
何度も何度もイエスは神の子メシアであるという福音を危機的状況の中で語り続けました。
それは神の苦しみを担っての働きを経験をもって、神学的本質をお示しになったのです。
ここに聖書全体の福音の証の本質が彼の神学に現れていると思えてならないのです。

 牧師たちの覚悟

決して教会の語りは、自分を安心させるためのものではありません。
むしろその言葉によって殺されてしまうかもしれない。
そんなはずなかったのはずの中で、私たちはそれでも福音を語らなければならないということは、私たちは十字架を背負わされています。
その覚悟があるからこそ、私たちは牧師であり、教師であるとパウロは伝えているのではないでしょうか。
そこには非難もあれば時には暴力の一歩手前ということもありえます。
それでも語らなければならないということだとすれば、そこには恨みも憎しみもない、ただ神の愛にこたえる愛の在り方として、神に選ばれているという、パウロの最初の経験からそのことを学びたいと思う次第です。

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