2021年4月25日 礼拝「偽りの預言は人を欺く」(河口陽子伝道師)

礼拝説教
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・タイトル:「偽りの預言は人を欺く」
・聖書箇所:エレミヤ書 6章13節~21節
・担任教師:河口陽子伝道師

内容

教団総会での出来事

「平和がないのに『平和、平和』と言う」・・・有名な良く知られている言葉です。
私にも忘れられない言葉であり、忘れられない場面があります。

もう10年以上も前になりますが当時私の赴任先、紅葉坂教会の主任牧師であった北村慈郎牧師が、教会の決定に従って受洗、未受洗にかかわらず、希望する者には無条件で聖餐が受けられる聖餐式を行っていた事が、教団の規則、教権教規に違反するとされ、日本基督教団の教団総会で北村牧師が免職処分になりました。
その決議に至るまでの進め方も正当なやり方ではなく、「違法だ!」とその撤回を求めて聖餐を開く、開かないの問題を超えて支援の輪が広がり、その後の教団総会に抗議を込めて、私も教団総会を傍聴していた時の事でした・・・

何の議案からその発言になったかは覚えていないのですが、ある牧師から「日本は平和じゃないか」との発言があり、それに対して岩国基地の問題で周辺住民と共に懸命に闘っている牧師、また辺野古の基地建設に反対し続けている牧師から抗議の声が上がったのです。
「日本は平和といえるんですか? 安心して暮らせない岩国基地周辺の住民の人たちの現状・・・我々は必死に訴えを闘いを続けている、それなのに平和なんて言えるのか?」という切羽詰まった悲痛な声があがったのです。
前回の講壇で私は「こんな悲惨な事はもう絶対に繰り返してはならない!」という思いを持ち続けていくことが残された者、「残りの者」の責任、と語りましたが、
次に発言した沖縄出身の牧師は「あの沖縄戦を生き残った者として戦争する為の基地をこれ以上作らせない、その思いで辺野古の海の前で毎日座って抗議を続けているおじい、おばあがいるじゃないか」と訴え、更に「寿には路上生活者がいるじゃないか」というの憤りの声が上がった事を覚えています。


私はそう訴えた牧師たちの真剣さ、必死さ・・・語った言葉に胸が熱くなりました。
でも今思い返してみると、「あなたは現実を見ているの?」「教会の中で会衆が安心できる説教をしているのが牧師なの?」「虐げられ苦しんでいる人と一緒になって平和を共に求めていく、和解と平安を創り出していく事こそ牧師の姿ではないか?!」
と今こんな状況の時だからこそ牧師と教会の内実が厳しく問われていると感じています。

鈍くなった心、過信、神への信頼の欠如、心の荒廃

南ユダの首都であり強固な城塞と壮大な建築物、最上段に立派な神殿、きっとそれを誇りとして来たエルサレムの住民たち・・・
かつて兄弟国、北のイスラエル王国を滅ぼした強国アッシリアの攻撃にも何とか耐えることができたそんな聖都エルサレムの住民に対して、若き預言者エレミヤは「逃げよ!」と神からの緊急事態宣言を伝えたのでした。
でも落城の危機の中、生き残った、我々は神の民だから、神が鎮座する神殿エルサレムだから、我々こそが神の国だから・・・という迷信というか理論的根拠のない安心感、妄信、過信があった・・・

ところでこの日本では今日からコロナの第4波を抑え込む為に3度目の緊急事態宣言が発令されました。
1年前、初めての緊急事態宣言が発せられましたが、その時の状況よりもウイルスも進化して、感染力も重症化も緊急性もずっと増しています。
コロナに感染された方も癌などの重篤な病でも入院も難しくなっていて、既に助けられる命が助けられない事態が生じていて医療崩壊も始まっています。
でも私たちの気持ち、心持ちはどうでしょうか?一年前のあの時の緊張感、緊迫感が果たしてあるでしょうか?

私は古代のエルサレムの人々も同じだったのではないかと思うのです。
奴隷状態のエジプトから脱出後、やっとの思いでカナンの地に移り住んでも、多くの先住民族との闘いが続いた。
対外的にも軍事強化を計る為念願の王国となっても、その繁栄は永くは続かず北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂・・・
大国に囲まれ侵略にも度々合って来たイスラエルとユダ、兄弟国同士で戦争にもなってしまった。
度重なる戦時、だから慣れっこになってしまっていたかも、そんな民族の歩んで来た度重なる戦争の体験も、民衆の心を鈍くさせたのではないでしょうか。

ところで、あの東北大震災で襲ってくる津波に対しても安全バイヤスが働いて、きっと大丈夫だと脳が過少に判断してしまって、家から動かず、逃げなかった人がいたと聞いています。
本当に危機の時にこそ「大丈夫だ」と思させる人間の脳の習性が、エルサレムの人たちにも働いたのかもしれません。

そして一番大切な神ヤハウェに対する信頼、愛が失われていたことも・・・
勿論迷信的に神を神風を信じた人もいたでしょうし、逆に度重なる戦争でもうこれ以上神を信じることはできない、と思った人もいたでしょう。
外敵から女、子供も老人も躊躇なく襲われ殺された、悲惨なレイプや強奪もなかったはずはありません。
内政の乱れで流血の惨事もあった、エルサレムの町に血が流れたとの記述もあります。我々をエジプトから救い出した神は我々を選んだ神ではなかったか、我々に恩恵を授け、平安を平和をもたらす神ではないのか?!

戦渦や、はやり病や、転変地位もあって、明日の命も定かではない・・・
だったらせめて生きてる間は人を欺いてもだましてでも、神ヤハウェを捨て豊饒の神バアルを拝んででも、富を得て刹那的に快楽を求めて、贅沢したり飲み食いや乱交的な踊りを楽しもうではないか?とそんなふうに思った人たちも大勢いたのではないでしょうか?
希望なんて持てない! 心が荒廃し、根本的に自分を大切にできなくなって、路上で物乞いをしたり、体を売るしかない女たちの事のことも目に入らない、どうでもいいと捨ておく様な、貧富の差が格差が酷く、益々退廃的な町と化していたのかもしれないと想像するのです。
だから「逃げろ!」とどんなに必死に叫ばれても、人の命も自分の命も面倒だ、もうどうでもいい、と怖さ、恐ろしさを酒をあおって胡麻化したりした人もいたのではないかと・・・
田舎の若造というだけではなくエレミヤの忠告が全く聞かれなかった理由には、そんな様々な要因が重なったからではなかったかと思うのです。

エレミヤの孤独、偽預言者の手軽な治療

そんな様々な人々に神の声を伝えるのはどんなにしんどくてきつかったっことか、
エレミヤはどうしようもない孤独を感じていたに違いないと思うのです。
だから無垢で神の存在を本能的に知っている幼子、純真な正義感もまだある若者たち(の集まり)に生き残って次の時代を担って行ってほしい、という一縷の望みを託したのではなかったのかと思うのです。

身分の低い者も高い者も同じ、預言者もしかり、
神の使信を伝えることは孤独で過酷な営み、並大抵の者にはできないと・・・
真実を伝えても馬鹿にされ変人扱いされ、嫌われる・・・果ては捉えられ命まで危くなる、正に命がけ・・・
だったら破滅に繋がる傷を、裂け目をちょっとだけ癒して、人身を安心させる楽観的でいい加減な情報を伝えた方が喜ばれるし、自分の待遇も良くなるし、食べて行けるし、それではいけないと分かっていてもそんな誘惑はしょっ中ではなかったか、
だから偽りの偽預言者に成り下がってしまった者を、私なんかは攻めることなんてできない、気持ちは良く分かりますから・・・
この講壇でもおもねった言葉を発しなかったとは言いきれない自分がいる、そこを見つめ直さなければと。

祭司さえも、そして律法重視の限界も

さらに神に仕える神に最も近いはずの祭司でさえ、律法をしっかり守っても窮屈なだけ、堅苦しいだけ、いいことなんて何もないじゃないかと・・・
名目は神でも実際は自分の利を求めてしまう、危機の時はかえってお金も集まるかもしれません。
そんな先の見えない民にエレミヤは神の言葉を伝えなければなりません。
だからこそこの危機の時にこそ、人生の岐路、正に分かれ道に立って「見渡せ、よく見て考えろ」と。

申命記学者ふうには神の教えである律法に「立ち帰れ」となるのでしょうが、
14節の「手軽に治療」の意味が申命記の教えに戻る、律法を重視するヨシヤ王の宗教改革を指していて、それが「表面的だけの内実を伴わない治療だ」とする解説もあります。
鋭敏で繊細な感性を持ったエレミヤは、最初は賛同していたその改革運動のゆがみ、内実の伴わない祭儀と中央集権化、、、貧富の差が酷くなり、ナショナリズムと排外主義に傾いていく危険性を既に感じ取っていたかもしれません。

分岐点の選択、イエスが教えた道は?


「分かれ道に立って振り返る」・・・勿論昔は良かったとかの問題でもありません。
古代ローマの哲学者のセネカは「鍵は過去にある」「過去である死者の言葉に訊くことが重要」「古典を読むことだ」と語っているとのこと、
今こうやって旧約聖書という古典、赤裸々で生なましい人間の営みが露わにされるこの書物をご一緒に味わう営みは、改めて未来をどう生きるかの分岐点の、選択の道しるべになるのだと思わされ、そう思うとまた語る者としての緊張も増して来るのですが・・・

過去と対話し、未来に向けてどの道を選択するのか、
「滅びに通じる広い門、広い道ではなく、狭い門から入りその細い道を行きなさい」とイエスが教えたその細い道・・・
広い道は多くの人が行く道で、電車の乗り換え通路を行く様に私も人の流れに流されて考えなしについて行ってしまいそうです。
不和雷同、寄らば大樹の陰・・・それは滅びのへの道・・・
そうではなくって狭い道は困難を伴い、呻きも伴う、自分と向き合う道だと、そこに命があるのだと・・・

また広い門と狭い門はエルサレムの城壁の門であり、大手を振るって入れる宗教的政治的経済的権威者ではなくって、狭い門からしか出入りできない者たちと共に歩む道だとの解説もあります。
共に泣いたり笑ったり憤ったり、互いに重荷を背負い合う、それが幸いに至る道、魂に安らぎを得る道なのだ、と逆説的に教えられている様に思うのです。

神は高級な芳香も生贄(いけにえ)も喜ばない

20節は祭儀批判で、先の預言書アモスもホセアもミカもイザヤも語っています。
エレミヤ書においては律法を重視し、エルサレムに祭壇を祭儀を集中する宗教改革運動が行われ、出エジプト記に記されている様な細かい規定に従って、より強力に祭儀を執り行ったと思われます。
でも「聞け」「知れ」の神の言葉とそれを聞かない上での形式重視の祭儀儀礼は、神の意思を取り違えることになり、つまずきになって滅びに至るのではないかとの問い、
そのことを神の言葉としてエレミヤは発するのです。

あの栄華を誇ったソロモンに貢物をしたアラビアのシェバの女王の物語の様に、高級な乳香(白色の樹脂)、わざわざ遠い国から取り寄せた香水萱(がや)、これは日本には馴染みのない良い匂いのする葦のことだそうですが、
イスラエルの民は香りを重んじ、神ヤハウェもかぐわしい香りが大好きだった、
だから神のために神を喜ばせようと高級な香りを用意したのに、それなのに神には
「何の意味があろうか」と言われてしまう、そんなことは全く考えもしなかったことでしょう。
それだけでなく最も重要とされている焼き尽くす献げ物も喜ばない、生贄を好まないと。

これは私にとっても衝撃的な言葉でした。
それはイエスはずっと罪の贖いの為、私たちの身代わり、犠牲、つまり「生贄」という解釈がされて来た、、、、それはいわゆる贖罪信仰と言われるものですが、
でも神はそれを「好まない」と言っている、イエスが十字架に掛けられるずっと前から・・・
だったらイエスの殺害を「生贄」にしてはいけないのではないかと、そう思うのです。

私たちの世界の現状は? 神の声を聞くこととは?

権力者がそれを脅かす者への迫害、殺害は今も現実に起こっている!
群衆心理での付和雷同、殺人までも容認、いえ積極的に扇動してしまう恐ろしさ、イエスだけでなくずっとそんなことを繰り返して来た・・・
そして今コロナ対策で世界は協力して一丸となって対策を取って行かなければならない非常事態なのに、それでも一方ではまた同じことをこの世の為政者はしている・・・
その愚かさ、その災い、結局は「皆滅びてしまうのだよ!」と正に今のこの世界に向けての神の警告に思われて来るのです。

そして環境問題もまったなしです。
オーストラリアのグレイトバリアリーフ、世界最大のサンゴ礁は年々減ってきていましたが、このコロナ禍で海に入る人が減り、幾分回復したと聞きました。
このコロナは私たちをずっと苦しめて来て、多くの人が苦しみ、亡くなり、悲しみの弔いもできない状況が続いていますが、このコロナには地球の環境を地球を人間から守る、その為に送られたのではないかと推測する者までいます。
私たちにはコロナは大いなる災いなのですが、私たちが地球にとって災いなのだと・・・

私たちはエレミヤの時代と同じ様に今、分かれ道に立たされ問われています。
自国の利害や自分の利益に立つ道を歩み続け、格差で苦しみ、自己責任ではもはや生きる事ができない人々を顧みない、そんな道を消費を続け地球を壊しながらこれからもこの破滅への道を選んで行くのか、
それとも広い門から入れない人と、このコロナ禍において益々苦しくなり「助けて」との声もあげられない、そんな弱くされ踏みにじられて来た人々と、地球の生き物たちの声なき声を聞こうとしていくのか・・・
今の私にはそれが耳を傾けて神の声を聞くことと=(イコール)だと思えるのです。
困難と悲しみの中にある方と共に「神様なぜですか~?!」と神にその切なさ、怒りをぶつけ、この人類の最大の危機とも言える感染爆発のそのただ中にあっても、
その先にある真実と、そして本当の平和、平安という福音の訪れを「諦めずに、信じさせて下さい」と祈る者です。

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