・タイトル:「サウロの活動」
・聖書箇所:使徒言行録 9章19節b~22節
・担任教師:飯塚光喜 牧師
内容
サマリー
キリストのもとにいた人々を迫害し続けたサウロが突然神の子を証しする場面。
このエピソードから罪と御業について読み取ります。
キリスト教の元祖「パウロ」
聖書を読んでおられる方たちは、他のことはわからなくても「パウロ」というキリスト教の元祖の信仰体験のことは、ほとんどの人は知っているでしょう。
パウロの体験はドラマティックすぎますし、誰もが経験することでもありません。
サウロは「イエスをキリストと呼ぶ者」クリスチャンの弾圧を先頭に立ってやっていたのです。
いちばん恐れられていた男の回心体験。
それは驚きと不思議を伴う回心体験でした。
パウロの手紙が(新約)聖書の半分、使徒言行録の5分の4がパウロの活動についてでです。
ルカはパウロの弟子として、意図的にこれを書きました。
ちなみに、使徒言行録は福音書とは様式も形式もちがうものです。
使徒といえば十二使徒ですが、そのひとりが(イスカリオテの)ユダです。
しかし、聖書によっては自殺しますので、使徒は11人残っていることになります。
一方でパウロはその11人の使徒には入っていない、使徒以外の使徒です。
前科者パウロ
パウロはイエスと食事をしたり酒を酌み交わしたりする仲間ではありませんでした。
キリスト教としては主流ですが、亜流、外側であった人の回心物語であって、聖書に残る大事件といえます。
その一方でパウロは大悪人であり、一方では価値の転倒があります。
今は使われているかわからないが「前科者」という言葉があります。
社会的には敬遠されるものといってもいいでしょう。
ある作家の「塀の中の懲りない面々」という本がありますが、そこには前科がついて隔離されている人がいます。
2・3日前、アメリカで世界で稀な金融犯罪を起こした人が懲役150年に服しているうちに80代で亡くなりました。
人間の人生が100年であったとしても、生まれたばかりで犯罪者になるわけではなく、20代30代で罪を犯して150年なんていう刑を受けたら生きて出られるはずがありません。
しかしそんな刑になってしまいます。
それはつまり、刑期中に亡くなってしまうこともあるといえます。
この伝道所でもかつて殺人事件を起こし、懲役17年の刑を受けた人がいます。
そういう人も昔の言葉で「前科者」として恐れられてしまいます。
殺人というのは恐ろしいことで、我々が想像できないつぐないをしなければなりません。
サウロもそんな者でした。
「許せないものは許せない」と息巻いて、悪いやつは捕まえると行動していた彼が、神の光が打ちのめにして、目が見えない、食事もできなくなり、歩けなくなりました。
絶対絶命のところに追い込まれてしまいます。
しかし、パウロは神が罰を与えたとバンザイ! と言ってしまうのです。
私はそういう神さまが欲しいと思います。
コロナで300万人亡くなっています。
コロナに対して神さま何をやってもいるんですか? 人間がかわいそうだと思わないんですか? と言いたくなります。
しかし、まだコロナに罹ってないのでどこか他人的でもあります。
サウロという大悪人を、転換させた神の力。
300万人ちかくの人の命を奪っていることで愚痴のひとつもいいたくなるのが、不安の中にいる我々の思いです。
パウロを光によって打ちのめにしたこと、ルターが稲妻に打たれて回心したこと、神に対する疑念に気がついて教会の誤ちを意識して宗教改革をしていくことになるのではないでしょうか。
パネンペルクという神学者も光体験をしています。
光体験をしている人は、それぞれ歴史の中で書かれなければならない人たちなのです。
神の直接的関与を体験する
神の直接的関与の体験をすること。
しかし、誰もがそのような体験をするわけではありません。
光ではない、自分のからだを焼き尽くす災害を体験した者にとって--その当時は神を信じてなかったのですがーー複雑な思いがします。
こういうそれぞれの歴史に残る体験が「光」というありがたいものの体験をしています。
その自分の体験は自分の体験でしかありません。
コロナの時代でも、アメリカでもイスラエルでも神の関与としての証拠付けの出来事が起こったことは聞いていません。
では、神の力はないのでしょうか?
それとも神は遠くで安泰のまま守っているのでしょうか。
疑念を抱かずにはいられません。
パウロは歩けなくなりました。
他の手を借りて行動するしかない者が、他の手を借りて行動しないように促しがされている状況です。
お互いのあり方、AとBの間にものすごい空白ができています。
その空間を埋めるのは大変なことではないでしょうか。
コロナをうつさないようにすると、必要なもののためにできないことの空虚さを感じます。
パウロも神さまの絶望の中から回復させ、それを神のこういうときと意識させ、迫害される側として生きていくことになりました。
そんな使徒言行録19-22章のパウロの物語の出来事です。
牧師の生き方
福音宣教には苦難が伴います。
牧師になって安定した生活ができれば、牧師ほど気楽なものはないという人がいます。
しかし、教会を飯のタネにすると、福音が単なる道具になってしまうのではないでしょうか。
教団新報の新年号の議長の巻頭言でありませんが、牧師も有頂天になって酒盛りしたと書いてあったが、我慢と恐怖の中にある隣人を差し置いて、牧師が、安穏としていることが赦されるのでしょうか。
コロナの中で神さまが働かないのならそれを受けているのは牧師なのか? と言われても仕方なくなってしまいます。
平易な状況ではなく、危険な中で許されていることを気づくことが、コロナに対しての私たちの思いがいつか通じるのだと確信しています。
そしてパウロは、「なんだあいつは」と言われる中でパウロは神ということを論証しようとしました。
パウロには、使徒言行録の中では「大罪を犯した」という告白は出てきません。
そんな中で神さまは「ダマスコに行きなさい」というのです。
神さまは言い訳もせず、「彼は祈っているんだ。命令をききなさい」それだけを告げます。
それに対し私たちは「はいはい」と言い切れません。
出来事を深掘りをしてパウロの方向転換と神のことを考えたいと思います。
福音の困難さを感じることが、召されているものの日々考えることではないでしょうか。
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