2021年4月11日 礼拝「権威ある者」(北口沙弥香教師)

礼拝説教
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・タイトル:「権威ある者」
・聖書箇所:マタイによる福音書 7章28節~29節
・担任教師:北口沙弥香 教師

内容

サマリー

有名な「山上の垂訓」の最後を飾るイエスの言葉。
ここを紐解くことでイエスの本当に言いたかった言葉が見えてくるのです。

賢いものと愚かなもの

この教会にお伺いするようになってからずっとマタイ福音書を読んでいます。
本日まで実感として2年ほど山上の垂訓を読み続けてきましたが、本日はその終わりの箇所です。
山上の垂訓のたとえ話を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚きました。
律法学者のようではなく、権威のあるものとして語られたからであると、7章は終わりを迎えるという形を取ります。
この家と土台というたとえ話は、ルカ福音書5章47節から49節にもほぼ同じたとえ話があります。
「Q資料」と仮に名付けられている架空のイエスの言葉集があったと考えられてもいますが、むしろマタイ福音書の記者も、ルカ福音書の記者も、若干翻訳の違う資料を手元に持っていて、その言葉をそれぞれの文脈に応じて、伝えたいイエスを述べ伝えるためにここに置いたということがあるのでしょうけれども、
マタイ福音書では山上の垂訓の最後のたとえ話としてここに置いたと言われております。
ここではイエスの言葉を聞くものと、聞くだけで行わないものとの対比が示されております。
聞くものも、聞くだけで行わないものもイエスの言葉を聞いているのです。
これは聞かないものがいる、というよりも、むしろ、共同体のなかでの振る舞いの違いについて言おうとしているのではないかというわけです。
このような簡単に言ってしまえばよいものと悪いものとを分けてしまう二分法の語りはある面でユダヤ的な、律法学者などの知的なものの語りであったとされています。
そのような形でこのようなたとえをいわれるわけですが、イエスの言葉に従うものは、岩の上に自分の家を建てる賢い人に似ていると言われます。
その逆は砂の上に家を建てた愚かな人に似ていると言われてしまいます。
そのどちらも同じように雨が降るなどするわけですが、イエスの言葉を聞いているものは家が流されずに済むわけです。
イエスの言葉を聞くだけで行わない人は、雨が降るなどしたときには流されてしまうと言われてしまいます。

軟弱な砂、そしてノア

この「砂の上」という言葉、私たちが思っているよりも実は軟弱なモチーフで語られていると言われます。
ここで言う砂は雨期と乾期のある中で、乾期のなかで現れるそうです。
雨期になると川になり、沼になるそんなところに家を建てるものがいるだろうか、という話のようです。
イエスの言葉を聞いて行わないことはそれくらい愚かなことなのだとこのたとえで強調していると言えそうです。

また、雨が降り、風が吹くというモチーフは、ガリラヤのところは風が強く吹くところだったようです。
私たちにとっては台風のようなものを想像すると近いのかもしれません。
しかし、一般的な悪天候以上に、私たちが思いつくのは、ノアの方舟の出来事ではないだろうかと思うのです。
ノアの方舟の物語は、義人ノアが家族を伴って、また、神から命じられた通り動物のつがいを載せて運ぶ方舟を作って漕ぎ出し、ノアの振る舞いを見て愚かだと笑ってみていた者たちは流されてしまったという物語を思い出します。
これらの事から、ここではマタイ福音書では「生きている間の振る舞い」に気をつけなさいというよりもむしろ、「終末の権威者はキリストであるイエスであって、生きている間のことによって相応の裁きに逢うということを強調しているという語りにも聞こえてきます。
最後の二つの文は、山上の垂訓のまとめの言葉であります。
ここの直訳は実は訳されていない部分があります。
「こうして以下のことが生じた、すなわち」
という言葉が訳されていないそうです。
実はこの訳されていない部分が定型句であり、マタイ福音書の中には5回出てきます。
それは、このように山上の垂訓のようなイエスの説教と言われている部分が5回出てくるわけです。
5章から7章が山上の垂訓、他にも10章、13章などもイエスの説教群と言われているわけですけれども、その中に定型句としてこの言葉が出てきます。
説教と説教の間にイエスのご生涯が語られる、というのがマタイ福音書です。
新共同訳では訳されていない言葉が切れ目になっているというふうに言えるということです。
また、イエスがこれらの言葉を語り終えると、群衆はそれらの教えに非常に驚いた……という28節と29節の言葉は、実はマルコ福音書の1章22節と並行関係にあります。
並行関係というのは、ほぼ同じ言葉が使われているということです。
マルコ福音書においては、会堂の中で語られたイエスに対してこのような賛辞がつくということになっています。
もしかしたらマタイ福音書の記者にとっては、マルコ福音書の中で会堂の中で権威をもって語られたことは何だったのかという関心があり、イエスの言葉集を紐解きながらマタイ福音書においては、現代で小節に振り分けたとき2章分となるわけですけれども、そのような分量を割いてイエスが権威を持って語られたことは何だったのかということをこのような形で紐解いたとも言えるのではないでしょうか。
マタイ福音書の著書にとってマルコ福音書は大変簡潔ではありましたが。イエスのご生涯を完璧には伝えられていないと不満があったのでしょう。
マタイ共同体にとって、必要なイエスの言葉、存在となっているものを描こうとしたのがマタイ福音書でありますから、マルコ福音書にまた別の福音書を作ることで自分たちに必要な教えを作り出したわけです。

イエスの教え

私は今日は、イエスが権威を持って教えらえたことから、興味を持ってこの言葉を少し考えてみたいと思いました。
群衆はイエスの言葉に驚きます。
律法学者のようではなく、権威あるものとしてお教えになったと、マタイ福音書には書かれるわけですが、律法学者とイエスというものが、ここで対比されているわけです。
云いようによっては律法学者の語りには権威がなく、イエスにはあったとも聞き取れます。
マタイ福音書を考えてみると、他の聖書でもそうですが、過去・現在・未来がまぜこぜになっているのではないか。
現代日本人の感覚からしたらそう読めてしまう性質があります。
というのは、ファリサイ派と律法学者が同じ時代にいたはずがないともいわれるのです。
ファリサイ派は神殿崩壊後に存在したユダヤ教の一派であると説明するとき、同じ時代にいるわけがないともいえるわけです。
そのようなことを言われるときは、律法学者と喧嘩していたのはイエスもそうですが、その一方でマタイ共同体もその当時の律法学者と喧嘩していた、伝道における競争相手だったという風にも言えるわけです。
現実にマタイ福音書の想定した律法学者よりも、自分たちの師であるイエスの方がより勝る権能を持っていたという主張をしたいから、あえてこのようなことを入れたのだと思います。

イエスの権威

イエスの権威というものをどのように考えるかというときに、マタイ福音書の最後、大宣教命令の中のイエスの宣言を思い浮かべるわけです。
その言葉は、自分が天と地の権能一切を授かっている、というもので、弟子たちに洗礼を授け、命じたことをすべて守るように言ったものです。
これはマタイ福音書28章18節から最後にかけて書かれているわけですが、一切の権能を授かっているイエス。そのイエスがあなたがたに命じていたことをすべて守るように勧めるわけです。
すべてというのは、マタイ福音書の教えすべてと言えるわけですけれども、山上の垂訓に代表されるイエスの言葉という風にも読み替えることができます。
また、山上の垂訓は何を言い続けて来たか、イエスの言葉とはそもそも何だったのかといえば、「神を第一に愛すること、それと同じように隣人を愛し、仕えること」その2つに要約されるべきだと思います。
愛し合うということを具体的に伝えた、というのが山上の垂訓のエッセンスだと思うのです。
また、別の方向から権威を考えてみると、権威というものは「説得力」と言ってもいいのではないでしょうか。
律法学者というものは説得力を持たず、群衆にとって説得力を持っていたのはイエスの語りだったのです。

説得力を持つ者

どんなイエスが語ったら群衆に対して説得力を持っただろうかと考えるのです。
律法学者はマタイ福音書だけでなく4福音書で悪く言われるのは、自分のことばで語らず、律法をならべて人を追い詰めるからだととれるところがあります。
これは福音書記者の過剰な悪口ではなく、そのように人を大切にしなかった人ばかりでなかったであろうというふうに思うわけですが、イエスはそうじゃないと言いたいのです。
イエスの言葉はこの世において疲れている人、罪びとのレッテルを貼られて追いやられている人などに第一に神の目は注がれている、神の意思が注がれているということを言いました。
律法を守ろうとしているものに、意図せず強いものと弱いものを分けてしまい、がんじがらめの律法解釈をすることで弱いものを追い詰めるという面を見抜いて、徹底的に批判したわけです
そのような言葉たちが群集の共感を得て、イエスを権威あるものとして評価したのではないかと思うのです。
イエスはそのような神のみ心に正直に生き、忠実であったがゆえに人々から疎まれ、十字架につけられるのです。
イエスが復活したということは現代人にとってはにわかに信じがたいことですけれども、むしろ蘇生したという意味よりも、イエスのその生前の言葉に権威と命があり、その人生が神のみ心にかなったものであるという証明、それこそが復活ではないかと思うのです。
イエスの人生は間違いだったのではなく、むしろ正しかったのだということを実証しているのではないかと思うのです。
それは単なる蘇生ではなく、人間の社会から排除されたイエスがイスラエル、そして世界の人の中で意味があって、イエスの言葉は私たちのうちで、私たちの間で意味を持ち続けているのではないでしょうか。

家と土台の勧め

家と土台の勧め。
それはイエスのご生涯を見聞きして、無理難題を突き付けられているように感じつつも、イエスの味方であること、イエスのように生きることが求められているということではないのでしょうか。
無理難題というのを承知のうえでということを申し上げましたが、現代においてもイエスのような人を私たちはのけ者にして十字架に掛けてはいないでしょうか。
イエスのように生きるということ、人々の反発を恐れず批判をし、自分の信じるところに忠実でいればいるほど生きることが難しくなるという現実を私たちは知っています。
そのイエスに習い続ける時、「私の言葉にならうもの」となるのではないでしょうか。
簡単にはいかないイエスの言葉、振る舞いを知りつつ、一歩踏み出して行わないものではなく、行うものになっていくということが、このたとえ話に示されています。
それはさばきに逢うからという脅しではなく、むしろ私たちが自由に神に作られ、愛されていることを知っているがゆえに、そうするわけです。
イエスにならうとは何かという問い。これは一生涯続くことでしょう。
これから一週間だけでなく、イエスにならって生きるということを胸にとどめながら歩み続けていきたいと思います。

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