2021年4月4日 礼拝「空(から)」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「空(から)」
・聖書箇所:マルコによる福音書 16章1節~8節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

内容

サマリー

マグダラのマリアたちがイエスのいる墓に向かったところ、3人の女性たちがイエスが復活したことを知る場面。
この場面をコヘレトの書を合わせて読むと、神の存在が浮かび上がってくるのです。

「空(から)」

主題として「空(から)」と書いておきました。
これは聖書に書かれた通り、十字架にかけられたのち、墓に収められ、3日目に婦人たちがその墓を訪れて、遺体に香油を塗る、塗布の儀のならわしで婦人たちは行きました。
しかしその墓にはイエスの遺体はなくなっていました。
その代わりに天使にかわる男から「何者を探しているのか」、すなわち、「いなくなったものを探すのではなく、いるものを探しなさい」と告げられます。
しかし、婦人たちは私たちと同じで、必ずおさめられているはずだ、そのはずがはずでなくなることは恐ろしいことだ、と感じたでしょう。
しかし彼女たちは「先生は苦しみを受けて殺されるけれども、3日目によみがえる」ということを思い出します。
しかし、いくら思い出してもいざその目で確かめるということは証拠になるのです。
しかも遺体という現物があるわけですから、現物に手を振れるか、目で確かめたうえで見たいというのが我々の現実です。

疑いを晴らすこと

犯罪などに関しては「証拠」があります。
何年か前事件が起こりました。
その事件を起こした犯人とされた人が藤沢ベテル教会に通ったことがあるということで、警察が2度ほど訪問してきました。
警察は証拠の確証を得るために犯人が書いたという書類などを持ってきたり、写真などをみせて確証を取ろうとしました。
しかし、私は視力がありませんので、写真や文章を見せられたり、読まれたとしても読み違いがありますから、証拠を立てたものが直接目でもって見なければ証拠にならないのです。
私は証言不能として終わってしまいました。
しかし、そういう時に婦人たちがイエスの遺体を確認するために、宗教的行事をも用意して確認したのにそれがない、ということは不思議であると同時に、疑いが生まれてしまいます。
疑いを晴らす、ということはとても難しいのです。
しかし、それは逆に言うとイエス様が言われた通りよみがえったからおられないんだと周りに説明しても、誰にも信じてなどもらえません。
言われるといった方の人は嘘つきとなってしまいます。
だからこそ女性たちは沈黙をしてしまいます。
これは人間にとって共感できることでしょう。

当時は女性には証言能力があるとは認められませんでしたから、弟子たちは女性たちに変わって墓を見て、イエスの墓が空っぽだったことを確認します。
しかし、弟子たちも嘘つきになってしまいます。
そのようなことを思い出しながら科学が進んだ我々現代人にとって、昔のおとぎ話は全てうそになってしまいます。
そうなると何を信じたらいいのでしょうか。
最近、ある有名な人が第二次世界大戦でドイツのヒトラーが600万ものユダヤ人を殺したということを嘘だ、と堂々と発表してしまいました。
それに対してアメリカの有名なジャーナリストが様々な生存者などの証言をもとに論駁をするのです。日本でも一部の者が南京大虐殺がなかったと言っていますが、これも皇室の方が陸軍参謀として中国方面に参加した人が数年前に日本は中国でいろいろなひどいことをしたと証言しています。
皇族が語られたのです。

復活物語というものを実際にあったと考えるものと、おとぎ話でなかったというものの二つに分かれると思うのです。DNA鑑定もできる中で実際によみがえった、ということは、信じない人には否定されてしまうのです。

コヘレトの「空」と「時」

そこで最近、「空は空、すべては空だ」という有名な伝道の書、今でいうコヘレトの言葉の物語を、私は聞いていて、ずっと頭から離れない一つの事柄を感じています。
でも「そうかな」とも思うのです。

コヘレトでは地上に生きているものにとってすべては「時」だというのです。
この「時」、つまり「時間」が刻み込まれているから生きていられるわけで、つながってしまったら生きられないのです。
食べる時間があり、遊ぶ時間があり、それがつながってしまうと寝る時間も食う時間も一緒になるわけですから、人間は生きられないわけです。
時、というのは要するに時間の刻みの問題なのです。
時計のカチ、という音と次のカチ、という音の間に空間があります。
コヘレトはそれを空(くう)と表現したのです。
その空は何かというと、時計のカチ、という音と、2秒目のカチ、という音の間をつなぐ空間の事なのではないかというのです。
コヘレトは神様なんていないというような感じのニヒリスティックな方です。
確かに彼の言う通り、人は食べて寝て生きていくものです。
そうでなければ人は生存権を失ってしまいます。
そうすると時の刻みの空間、空が、時と時をつなぐ空間としてあるのではないか、それが神なのではないか、とこのごろ思えてならないのです。

食いっぱなし、遊びっぱなしでは長生きできません。
我々は永遠という初めも終わりもない中に、時間という刻みの中でしか生きられない人間の存在を、コヘレトは時として表現している。
そして時と時をつなぐ空というものは、神の存在が空という、ないもの、ある学者の言葉では「非存在の存在」というような、「ないものがある」ことなのです。

死から生を生み出す神

このコロナ問題が起こって、人間の生と死がいろんなところで話されているのを聞きます。
我々は生きて、隣人が隣人でないような、ふれあいすら拒絶する状況のなかでたくさんの方が亡くなるという状況が続いています。
守られなかったものが犠牲になっているということをわかるとき、われわれは多くの犠牲者によって我々は生き残って守られているんだ、という、敗戦記念日の時に為政者が言うことばを思い出します。
そうでしょうか。
犠牲者を作ったのは誰なのでしょうか?
平和のための犠牲者なのでしょうか?
だったら、二度と再び犠牲者を出さない平和というものがあってもいいのではないか。
平和のために、平和のためにと言って犠牲者を出すような国家体制が果たして平和なのだろうか、ということに、イエスの死と復活の中に、私は真実として示されている、イエスは死んで神様によって復活した、という正しいストーリではあるかもしれませんが、それが念仏のように、信じていれば救われるといったものではないものが、この復活物語の中に秘められているのではないか。
それは空、という神などいない、神など死んで存在しない、という空の中にこそ神が生きておられるのだ。
だから、死が生を生み出すのだ。
生が生を生み出すことは人間的にも可能ですが、死から生を生み出すのは、それは神の力でしかできないのではないかということが、復活物語の深層なのではないか。
ある学者は「復活物語というのは神の実在を示すことなのだ」と。
そして、神の実在を証しするために神は十字架という死において空を作るのだ。
私はそれに納得しました。
ある時にはこのような話もありました。
十字架というのは、ある種助けでのない状況、神などいない状況が十字架の様子なんだという言い方をする人たちもいます。
しかし、私はそう思いません。
あそこで全く神の意思も神の手も何一つ示されなかった「わが神、なぜお見捨てになったのですか」。
神様がいらっしゃらなければ、捨てる神もいらっしゃらないわけです。
自業自得か、あるいは諦めか。
「なぜ」なぜお捨てになったのですか、「なぜ」という言葉の中に疑問符があるわけです。
死んでもよみがえった、なぜ? 
このなぜの解明が、私は十字架の解明のために何ひとつないんだ、と。
そこには神の実存性と、神が神であるということの実在性を示すものが、この十字架の中にあるのだと。
復活があるから十字架がいらないのではない。
十字架なしに復活はあり得ないのだ。
人間もまた、死ぬことによって生きるのだ。
パウロの言うように、「お前は私が生きているのではなくて、私の中にキリストが生きているのだ」。

心の中の私

ある女の哲学者が、「私の心」ではなく、「心の中の私」なんだ。
私の心といったときに心は私の支配下にあるのだ。
心という私を支配する心が純粋であり、倫理的であり、神的であるときに、その心は私を生かすのだ、と、この哲学者は語るのです。

私の心ではない。
心のなかの私である。
復活とはまさに十字架の中に、十字架という否定の中に復活という否定が働いて、初めてそこに肯定が生まれるのだ。
弟子たちは恐れて、扉を閉めて、鍵を閉めておののいていた。
そこに復活のイエスが訪れて行って、「恐れるな。お前たちの恐れは私によって否定されているんだよ」。
そこに復活もまた、神の実在性、神の働きを示す出来事として、神の復活物語がつくられたんだ、と、ある学者は言います。
まさに空の中に、空っぽの中に神は存在する。
そして空と空が時と時とをつなぐ神の働きとして私たちは聖霊という働きをもって信仰生活を営んでいくわけです。

触れられなくとも、いまここにいる神

コヘレトの言う空とは、まさに我々には見えない、振れることのできない、その匂いをかぐこともできない非存在の中にこそ、神は存在し、私たちの時間の中に働いて、時を時としてくださっている、それがまさしく神の働きなのだと。
復活とはまさに、神が神であることの証明、そして、復活を通してキリストとはいったい誰なのか。
私にとって何なのか。
誰なのか。
このことを私たちは今日、改めて私は学びなおして皆様にお話をしたつもりです。
そこには棄てられたイエスが、捨てる神によって救われたのです。
私の心境、捨てられた主とともに生きるこれからの生き方を、私は復活信仰の中に認めたいと思う次第であります。

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