2021年3月28日 礼拝「残りの者の和解」(河口陽子伝道師)

礼拝説教
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・タイトル:「残りの者の和解」
・聖書箇所:エレミア書 6章9節~12節
・担任教師:河口陽子 伝道師

内容

「残りの者」……イザヤ書とエレミヤ書では意味が違う?

今日は受難節最後の主日「棕櫚の日」です。
十字架への苦難の道を歩まれるイエスが、小ろばに乗ってエルサレムに入城し、民衆は棕櫚の葉の付いた枝を敷いてイエスを歓迎したと言われています。
そうやって喜んでイエスを迎え入れたその民衆が一転して、今度はイエスにつばを吐きかけ罵倒し、「十字架に架けろ!」と叫んでしまった大衆、群衆心理……当時の宗教的権威とローマの支配体制に加担・迎合するようにイエスを惨たらしい処刑をし、十字架へ、虐待と殺害へと煽り、煽られ、扇動してしまった……。
そして来週はそのイエスの復活を祝う復活特別礼拝、イースターです。
イザヤ書の6章(イザヤの召命の所)で切り倒され焼き尽くされた切り株とイエスの復活を結びついたイースターのメッセージを聞いた方もおられるでしょう。
またクリスマスではイザヤ書の11章のダビデの父の「エッサイの株からひとつの目が萌え出で、その根かひとつのら若枝が育ち」……と平和の王としてのイエスの誕生として、イザヤ書を朗読した教会もあるでしょう。
その様に聖書で語られる「残りの者」はメッセージ性の高いもの、重大なキーワードと言える言葉なのです。
でも、神の審判と希望も語られるイザヤ書と今日のこのエレミヤ書とは「残りの者」のイメージが違っているように感じます。

「残りの者を摘み取れ」とは?

「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者を摘み取れ」、「もう1度ぶどうの枝に手を伸ばせ」……イスラエルの神ヤハウェが預言者エレミヤに命じた言葉としてここに置かれていますが、これはいったい何を意味するのでしょうか。
学者の間でも意見が分かれていて、判断に迷う所です。
「摘み取れ」、「摘み取らなければならない」という神の言葉は強い感じで、枝からもぎ取られ命尽きる、厳しい神の審判のイメージが湧いてきます。
でもその一方で「実を摘み取る」のは収穫の時、喜ばしい恵みのイメージもあると思うのです。
神の審判としての解釈ではダビデ、ソロモンの時代はまだ一つの王国であった統一王国時代を経て、北と南、イスラエルとユダに分裂して北イスラエル王国はぶどうを集める様に大国アッシリアにもぎ取られてしまった。
だから南ユダ王国はその「残りの者」、それが今や北の大国バビロニアによってもぎ取られ捕囚の憂き目にあうとの解釈できます。
8章3節では「この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生より望ましいものになる」との神の厳しくも生々しい言葉も語られています。
一方で別の解釈、摘む=収穫 とする解釈では収穫は終末を暗示しているかもしれないのです。
秋のぶどうの収穫の際、「その枝にまだよい房が残っていないか調べるように、神の裁き、審判の後まだ義(ただ)しい人が残っていないか、よ~く調べるように」と神ヤハウェはエレミヤに命じているのだ、という解釈ができます。
既に5章1節で神は「正義を行い、真実を求める者が一人でもいれば、エルサレムを赦そう」とエレミヤに告げていましたので、この解釈も成り立つと思うのです。

「残りの者」とは?

そもそも地上に悪がはびこり、神の怒りでノアの箱舟だけが残されたのが、最初の残された者たち――出エジプトの指導者モーセもエジプト王による赤子殺害を逃れた残された者――そのモーセの後継者ヨシュアも荒れ野の40年の忍耐、辛抱を経て生き残こりカナンに移住を果たした荒野生活の残りの者
・ダビデ王の下に王国として統一国家となり、ソロモン王の栄華繁栄の時代の後、統一国家は分裂し、北イスラエル王国は大国アッシリアによって滅び、捕囚民となったり、辛うじて生き残った南ユダ王国に難民として逃れたり、勿論北イスラエルのその地に留まって、占領国アッシリアの人たちが移住して来る肩身の狭い支配下で、隷属的に扱われても辛抱を続けた多くの民も残された者たちなのです。
そして南ユダも北イスラエルが占領された後、預言者イザヤの時代にアッシリアによって砦の町をことごとく占領された、その難局を金や銀の貢物を沢山して何とか生き延びた、これも残りの者とされた体験でした。

「神の国」という過信

でも、落城の危機の中、戦渦に生き残った神の民であり、神の神殿があるエルサレムには神が鎮座しておられる、だから戦いに負けなかった、神の国だから……だから不穏な空気が流れていても変な安心感や自信、過信があった……。
これは日本の戦時中の体験と似ていると思うのです。
時系列的にはずっと後の日本が同じ過ちを犯したというべき――日本も海外情勢を知る海軍などの忠告を聞かずに大国アメリカと無謀にも戦争をしてしまった――日清、日露の戦争に辛うじてでも勝った神の国だから、いざと言う時神風が吹く、だから負けるはずはないと。
エレミヤの忠告が全く聞かれなかった理由の一つにそんな妄信、過信がありました。
だから主の神殿があるエルサレムは「難攻不落だ!」「大丈夫、何とかなる」、「負けるはずがない」、「神が必ず助けて下さる!」との思いが強くなってしまった故に、尚更田舎者の若造預言者のいう事なんて、聞こうともしないし、耳に入っても右から左に抜けていくだけ、端(はな)から最初から聞く気なんて更々なかった、せいぜい冷笑されるだけでした。
だから11節のエレミヤの嘆きに繋がります。

私たちは、私は?

私はここで私たちも私も同じではないか?と思ったのです。
日曜は教会に休まず来て、静かに心を沈めて、礼拝を形式通りに守って、奉仕もする、聖餐にも与る。敬虔に神を強く信じているが故に、妄信的に蒙昧的に信じる故に、かえって神の言葉、警告、「立ち帰れ」とのメッセージが届かなくなってはいないか?と思うと恐ろしくなる。
それは神が恐ろしいのではなくって、そうやって間違っていく、神の道を歩んでいるつもりで内実は外れていく。
エルサレムの民の様に神の言葉がどんなに真実であってもエレミヤが必至に真実を語っても、それなのに虚偽だとか妄想だとか、果ては偽預言者だとか、馬鹿にしたり鼻で笑ったり見下げたりしてしてはいないか? と恐ろしくなるのです。
「自分が背きの民、神を欺く者、私の事だ!この私がエレミヤを疲れ果てさせたのだ」と思ってここを読んだ方がおられたら救われた思いがするのですが、どうでしょう?
実は私も心底そこまでは思えない、根本原因である自分自身と向き合えずに、自分自身を偽り欺いてしまう……それが「背きの罪」なのかもしれない、と思わされます。

エレミヤの苦悩

でも、エレミヤは違います。
神の民への怒りは充分過ぎる程分かりすぎる程分かっています。
「私はこんな人たちとは違う!」とか「私のことではない、民の事だ!」と同胞を突き放して見ることなど、繊細で内向的でかつ内包的な若き柔らかい心の持ち主エレミヤにはできませんでした。
「私は神の言葉を伝えるだけ、私には関係ない」なんて切り捨てる事は、他人事として、自分を裁かれる存在からは外すことはできなかたのです。
だから神の怒り、憤りを抱え込んで一杯一杯になってしまった――若き預言者エレミヤは神の側でもあるし、民の側でもある――その両方に立つからこそ、どちらの気持ちもよく分かる――だからこそ、辛い、疲れるのだ!と――きっとそうであったに違いないと思うのです。

幼子、若者の集いとは?

「注ぎ出せ!通りにいる幼子、若者の集いに」。
これも分かり難いものです。
「それ」とは何だろうと考えましたが、原文には「それ」との指示代名詞はない様で、意訳と思われます。
「もうこれ以上我慢できない!」とはどういう意味でしょうか。
若さゆえに爆発しそうなその心の内を神は分かっていて、その憤り、その辛さ、その思いを「幼子、若者の集いにぶちまけよ!」と神がエレミヤに告げていると思うのです。
権威ある者も聖職者も長老も民のだれでもエレミヤに心を閉ざし言葉も聞かない、でも、エレミヤと同じ内向的で繊細で鋭敏な心を持っている若者たち、その集う所には伝わるのだと。

先日、テレビで、最近の日本の女性の哲学者で、若くして亡くなられた池田晶子さんの著書『14歳からの哲学』という本について紹介、解説していた番組を見ました。
なぜ14歳かと言うと、「実際に親しい知人の中学生の息子に向けて書かれた物であること、14歳は社会に開かれていく年齢であり、自分に気が付き始める年齢。そして大人の様に色んな先入観が入らない、自分の中にある物だけで考えられる最後の年齢」との解説者の言葉がありました。

今日本と同じアジアの国ミャンマーで起こっているクーデターを起こした軍事政権に反対する若者のデモと、それに対する軍事政権からの弾圧、発砲、連日多くの若者が殺されています――どんどんエスカレードしていく――昨日は7歳の少女が家宅捜索中に射殺されたとのショッキングなニュースが流れ、今朝は100人以上も殺されたと聞きました。
若者たちは自分が信じる自由や民主主義、正義の為に、命の危険、恐怖を感じながらも行動を続けています。

イエスも悶え苦しみながらも歩みを止めなかった。
そのイエスは当時まだ一人前の人間として扱われない幼子を愛した。
子供たちは真っ直ぐにイエスを捉えることができた、甘えたり、見つめたり、聞いたり、安心して直感的に信頼し心をその身を預けることができる、そんな存在だから、そして決して自分ひとりでは生きられないことを知っているから。
イエスは洗礼を受け水から上がった時「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえたと福音書にはありますが、幼子、若者も神の心に適う者、と私には思えて来るのです。

残された者の苦しみ

「残りの者」――あの3.11、東日本大震災から10年が経ちました――未だに遺体も見つかっていない方も沢山おられます。
震災で生き残った人は自分を「残った人」と言うのだそうです。
あの津波で大切な家族や友人、同僚を失った――「だれもが遺族になった」という被災された方の言葉を聞きました――「ああ震災に遭われた方々も残された、残りの者だったんだ」と改めて思わされています。
そして自分だけが生き残った……なぜあの時~しなかったのか、と自責の念、罪の意識で未だ苦しんでおられる。
亡くした我が子にこの10年、ずっと「ごめんね、ごめんね」と言い続けてきた残された親たち……。まだまだ現実が受け止められず、前は向けない、心の復興はできていないと言われる方も少なくありません……。
原爆で生き残った人もそうでしたが、自分だけ生き残った後ろめたさに苦しんだ、申し訳ないと自分を責めた……。

ふるさと福島に帰りたいのに帰れない方々も多い。
残念ながら保障を巡って地域差で分断も起きています。
今コロナに感染した医療従事者でも同じ職場の中で差別的な言動で傷つけられ鬱的な状態になっている方も少なくないとのこと……。それと同じ様に福島から同じ原発のある新潟の柏崎に移住したのに、そこでも差別されてしまうという現実もありました。

私たちは皆「残りの者」

亡くなるのも残されるのも紙一重かもしれません――でも亡くなった者に対する責任があると思うのです――あの津波で亡くなった人と助かった人の違いは何だったのか、それを調べて次の災害に備える為の検証が続けられています。
先ほどは戦争の話もしましたが、戦争を体験してもしなくてもある意味私たちはみんなが歴史の、人類の営みの「残りの者」ではないでしょうか。
戦争は完全に人間の責任――あの過去になりつつある大戦では、私たちは被害者であり加害者でもあった、その「残りの者」である私たち……


毒ガス兵器で多くの中国の民間人を「丸太」と呼び人体実験を繰り返した事、従軍慰安婦の存在、どんなに悲惨で忘れ去ってしまいたい、終わったことにしたい出来事でも、隠ぺいせずに過去に学び、過去を忘れないでいたいと、改めて思わされます。
歴史を振り返って見ると、愚かにも同じ過ちを繰り返してしまっているからです。
そして「こんな悲惨な事はもう絶対に繰り返してはならない!」という思いを持ち続けていくことが残された者、「残りの者」の責任と考えます。

「残された者の和解」とは?

今日の説教題は「残りの者の和解」です。
誰との和解でしょうか、そして和解するにはどうしたらいいのでしょうか。
それはまずその対象に向かって心を開くことだ、と私は思うのです。


このコロナ禍で色々な制約を受け、「もう我慢の限界」という人もおられるでしょう。
「我慢」と言う字は「辛抱し、こらえる」という意味の外に「自分の才能や力をたよりにして、他人をばかにして威張ること」と「自分の考えをがんこに押し通そうとすること」の意味があるとのこと。
我慢ばかりしていると我慢できないと我慢していまうんですね、つまり他人を見下したり、かえって自分の考えをがんこに押し通そうとしてしまう、面白いです。

「辛抱」と言う字は「辛さを抱える」と書く、「辛さを包み込む」――自分だけでなく人の辛さも抱え込む――この辛抱という言葉を使った方が我慢いえ、辛抱できそうです。
和解の為に心を自分にも人に対しても心を開くことができたなら、きっと押し隠してきた自分の辛さの根源も、人の辛さも見えて来るのではないでしょうか。
そしたらお互いにその辛さを包み込む、労り合うことができて来るのでは、と思うのです――お互いせっかく残された者なのですから大事にし合いたい、丁寧に接して行きたいと思うのです。


そして自分の容姿とか行いとか思いとかは全く関係なく、自分自身との和解すること、それは自分自身を無条件で愛して下さる神との和解でもあると思うのです。
自分自身が神の無条件の許しと愛を受け入れる――赦されなければ辛くて生きていけない程の私であるかもしれない。
理想の自分が現実の自分を責めるのではなく、自分とちゃんと向き合い、だめな自分を認め、赦し愛する事――被害者としての自分を赦し、たとえ殺人などの加害者であってもその罪の重さを背負い続けること。

「和解」には「緊張が解ける」という意味もあるそう――心を開くことができたら緊張しなくて済むと思う、そう今語っている私は、これでも少しは緊張しているので、皆さまに心を全て開いているとは言えないのかもしれませんね。
「もっと心を開ける者とさせて下さい」と祈る者です。
「和解」とは2つのものがそれぞれ自己をそのまま保存しつつ相手をも認めている、むしろ自己が満足させられている、自己保存のみちであるとの解説がありました。
新訳聖書で用いられる意味は、ギリシャ語の原語は「変える」、「変わる」そこから「和解する」という意味になる。


イエスは殺された、弟子たちは残された。
復活のイエスは再会した弟子たちに恨み言一つも言わず、語らい、一緒に食事もした。
残された者と和解して下さった
そして残された弟子たちは逃亡者から伝道者へと大きく変えらていくのです。

「愛(かな)しい」に変えていく

震災で残された方々は大きな悲しみ負った、それは愛していたからこそ。
「愛」という字を書く「愛(かな)しい」という言葉もあります。
「悲しい気持ちに蓋をせず、しっかり悲しむことが大事だ」とは震災ボランティアに尽力したある若い僧侶の言葉。
もう震災前の自分には戻れない――そしてこのコロナ禍で今残っている私たちももう戻れないのかもしれません。

今まで気づかなかった事に気づかされた、沢山の感謝の気持ちが湧いた――一方で介助が必要な方がより不自由にされた――貧困故に衛生環境が保てず感染が増大したり、格差は広がり残念ながら理不尽さが際立つ事例も多かった。

でも果たしてお互いの心の距離は遠くなったでしょうか――世界は確実に近くなったのではないでしょうか。

日常が戻ったとしてももう以前の私たちではなくなって来ています……「残りの者」とは「新しく創造される事」をも意味します。
それは時間はかかるかもしれないけれど、憎しみも恨みも悔しさも、全てが「悲しい」に昇華できたら、それは「愛」と書く「愛(かな)しい」にされていくことかもしれません。
でも虐待、殺人、破壊、戦争などの社会悪に対しては「しかたないと赦してはならない」と、ミャンマーの国軍の横暴、権力の暴走、多数の被害者の悲しみから強く思わされています。
イエスもその為に殺されたと思うからです。

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