2021年3月21日 礼拝「主よここにおります」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「主よここにおります」
・聖書箇所:使徒言行録 9章10節~19a節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

内容

サマリー

アナニアとの会話、そしてバプテスマのシーン。
ここには福音ということを考えるヒントが詰まっているのです。

解放された人々

イエスの弟子たちの働きの始まりを、私たちは今学んでいるわけであります。
キリスト教の世界の中で、初めての殉教者といわれるステファノの演説を長々と聞いた後に、要するにイエスを産んだ、ユダヤ人というかユダヤ教というんですか、イスラエル人というか、そういう人たちではない人たちですね、おそらく旧約時代にイスラエル民族、ユダヤ民族、ユダヤ教というものが壊滅的な状況に追いやられたその一人というのか、たくさんの人たちが、自分の故郷を捨てて、外国へと散らされていった。
放浪の民となったユダヤ人が無数にいたわけです。

そういう人たちの中に、ステファノがいたり、エルサレム神殿、エルサレム宮殿を中心として居残った人たちではない人たちが、居残ったというかエルサレムを中心として活動している人たちの中からではなくて、むしろ異邦人というか異国人というか異民族というか異人というか、とにかく本来のユダヤ人といわれる、イスラエル民といわれる人たちではない人たちによってですね、イエスという人が福音の何というか、主である、救い主であるということが伝播してですね、そして異国にいる人たちにキリストの福音が、いつのまにか伝えられて、それを信じた人たちはキリストの喜びに預かって、楽しい、解放されたと信じる生活をしている人たちがたくさんいたということです。

この今読んでいただいた使途言行録の9章はパウロ、いずれパウロという名前になるわけですけれども、パウロという人の回心の物語がサラッと書いてあるわけですけれども、掘り下げてというか、彫り込んで読み込むとですね、スリラー小説になるなるほど不思議というか、興味というか、心惹かれる出来事がはめ込まれて、ついにアナニヤという名前、固有名詞の出てくる物語へと移行していくわけです。

アナニヤ

このアナニヤというのは要するにエルサレムを中心とした本来のユダヤ人ではない、そこからはみ出たというか散らされたというか、今風に言うと、全く教会の外側に置かれた人たちの中の一人と言われているわけです。

その前にサウロという人は何というかユダヤ人にとっては味方であると同時に敵になるわけです。
何故味方になるかというとユダヤ教を受け入れた、ユダヤ教を信じていた、ユダヤ教を受け入れている人たちにとっては、パウロは英雄であるわけです。
正義派ですから。
よく考えてみると、例えばですね、その通りではないとしてもですね、パウロの一団というのは、もしかすると反体制的な、体制的なことになると、今中近東なんかで起こっている政府側と反政府側との闘争。両方とも正義派なんですね。
反対するから悪いとか、反対するものは悪い奴だからやってしまえという単純な仕組みで中近東の紛争が行われているわけではないんですね。
一方では搾取であったり、弾圧であったり、あるいは今風に言えば差別であったりする。
一方弱いものはいじめられるというか、置いてきぼりにされるというものに対しての正義派として、反政府のようなものがでてくるんですね。

反逆と、反逆でないもの

パウロの回心の物語もですね、それに似たような図式として、色合いとすると、それに似たような状況であったわけです。
イエスという人がガリラヤ地方で一生懸命何というか、この世から、言ってみれば見捨てられた人たち。
あるいはこの世から置き去りにされた人たち、あるいは体制からは、反体制じゃないんですね。
体制から置き去りにされた人たちですね。
体制というのは律法を守るという大義名分があるわけですから。
しかも律法というのは人間の作ったものであると同時に、神の名によって定められた生活規範。
一種の憲法みたいなものですけども、そういうものを守る一派と守れない一派がいるんです。
例えばですね、簡単に言えば日本国内にいる日本人は日本の憲法を守らなければならないけれども。
例えば同じ日本人であってもアメリカとか韓国とか中国とか英国とか、そういう日本の国以外のところに住んでいる人たちは日本の憲法を守る必要はないわけですね。
むしろ自分の軸足の置いてある国の律法というか、法律に準じて生活すればいいわけです。
そのことによって、その人が日本人でなくなるわけではないんですね。
どこまでも日本人であるわけです。
しかし自分の生活基盤は日本人でない生活基盤の中で生活しているということになると、その生活基盤は今住んでいる所に生活基盤を置くということになっていくわけです。

パウロはですね。おそらくイエスを自分たちの解放者、自分たちを、ある意味では人間として認める福音の使者ということは、律法に対してですね、ある意味で反逆の状況に置かれていたというか、そういう認識を持っていた。
だからパウロにとってはですね、イエスというのは絶対に許せない。
何ていうか殺しても殺しきれないほどの存在が、サウロにとってはイエスの存在だったわけですから。それは他の人たちを仮に自国の人たちだけではなくて、日本から海を渡った人たちに対しても決して安心して、日本人ですから安心して暮らせてはいなかった。
むしろ身を潜めて生活していたに違いないと思うんです。その一人がアナニヤという男ですね。

アナ二ヤもこれは散らされたユダヤ人の人たちであるわけです。
ですから彼もパウロから言わせると、イエスに味方しているアナ二ヤですから、そのアナ二ヤが神様から引き出されるわけですね。
要するに呼びかけることによってアナ二ヤは、主よここにおりますという、この自分のありか、自分の存在、あるいは自分の生活している、あるいは密かに隠れていたかもしれないアナ二ヤが、神の名によって引き出されたということは、ある意味で身の危険を感じるわけです。
どうもイスラエルですね。
ユダヤ教ではないキリスト教がイエスの弟子たちに回心したというか、そういう人たちを主とすることは許せないというのがパウロの信条ですから。
そのパウロがガリラヤに入ってきたらしいと。
で、パウロの回心が問題ではなくて、とにかくサウロという男がガリラヤに入り込んできた。
これは、しかもお墨付きの正々堂々と公明正大に律法の話を得て、この律法に背くものを一人残らず捕らえて、中には殺してしまうという。
生かしておけないというパウロの信条に対してですね。淡々と恐々としていた人たちです。

障がい者という反逆者、すべてを否定されたパウロ

話途中になるかもしれませんが、つい2~3日前に、ある新聞社の報道機関が、改めて相模原のやまゆり園の事件を取り上げて書いた書物を、ずっと読んでいたんです。
やまゆり事件だけではなくて書かれているのは色々なものが書かれているわけですけれども。
三分の二位はやまゆり園の事件を取り上げて書いているわけですけれども、犯人といわれる男はですね、やっぱり障がい者というのは。
彼には宗教とかそういう意識はないらしいので、宗教的な用語というのは、彼の口からは出てこない。私一生懸命探したんですけれども出てこないんですね。

ただ障がい者はですね、端的に言うと、この世の利益に対する反逆者なんですよ。
この世の利益社会に対しての反逆者なんです。
だから彼にとっては生かしておけないんです。
生かしておけば置くほどに、自分たちも苦しむことはあっても、決して障がい者をですね、この世に生かしておくことによって自分たちの幸福、あるいは自分たちの利益、自分たちの生産性は全く生まれないということが彼の信条。

パウロは決して障がい者と言われてではないですけれども、パウロにとってイエスと、あるいはイエスの一群ていうのはですね、当時のユダヤ社会にとっては全く生産性のない利益を産まないやっかいな、生かしておけば生かしておくほどにですね、こちら側には負担になる存在ですね。
しかも当時の障がい者は律法から捨てられた人たち、律法を守ることもできないし、守れない人たちですから、当時の社会からすると捨てられた人たち、紙くずにもならない人たちが当時の人たちだったんです。
ですからそういう人たちを生かしておいても何の意味もないし、何の得もなく、我々の自分の正義に負担をかけるもの、損をさせるものでしかないとうのが、当時のパウロの信条だったんだろうと思うんです。
それほどにパウロを悪人扱いするのはおかしいんじゃないかと言われる気がするんです。

パウロはちゃんとした証明書をもって、大義名分のもとに律法に背くイエス集団を排除しようとした。そしてガリラヤのダマスコに向かって、捕まえるために、息を切らしてですね、行ったんです。
ところが途中で彼は光に打たれた。
この光に打たれたという話しにしてもですね。
パウロの回心の中では、パウロだけの経験であって、一緒に行った人たちは全くそんなとは聞いていない、感じていないわけですから、これはパウロ個人の意識の問題だと思うんです。
そしてそこでパウロは地に倒れ目が見えなくなり、食事ものどに通らなくなった。
3日3晩を過ごしたと書いてありますね。
彼にとっては、たった3日3晩の生涯でしかないんですが、ここで受けたものは何だったのか。
パウロにとってですね、完全に自分の正義が否定された。
そして自分が他の誰よりも優秀で、他の誰よりも律法において忠実であり、完全なものであったはずのパウロの自尊心が、ここから否定された。
その惨めさ、これはパウロにしかわかないものだと思うんです。
ですから私たちがですね、回心をしたとか悔い改めたと言ってみたって、別にですね、一歩左に寄っただけか、右に寄った位の経験しか、我々はもたないわけです。
だから元に戻るんですよ、我々は。
簡単に悔い改めたをしたんだかしないんだか、そういう意識も全くない。
ところが目が見えなくなって、自分の自尊心や優越感や誇りや地位や能力のすべて、身体的な能力まで完全に奪われた時の絶望感。
これは個人的な体験しか味わえないもの。言ってみれば捨てられたパウロ。

ただここでですね、神様は、お前は悪い奴だとは言っていないんです。
サウロもまたイエスは主であるとも言ってない。
信仰告白も何もしてない。
悔い改めもしてない。
そのパウロが恐れられる人間としてガリラヤに入っていった。
で、神さまはアナニヤという一人の男を選んで、パウロのところに行けと。

アナニヤにすれば噂に聞くところによれば、あの人はエルサレムでどれだけ悪いことをしたか。
悪いというか、アナニアにとっては悪いことであるわけです。
自分も狩られるかもしれない。
被害者が加害者の所に行け、なんて言われたって。
はいそうですかなんて。
そこによっぽどの説明と保証がなければ、普通の人間は怖くて行けないわけですよ。
しかも、そのサウロは隠れていたのか潜んでいたのかわからないわけで、説明も何もないわけですから。
もしかするとアナ二ヤも捕まえられて殺されるかもしれない。
そんなことは神様は百も承知でありながら、なぜそんなことを言うんですか。

サウロは今3日3晩飲みもせず食いもせず、一人で、歩くことさえもできない状況。
完全に人間性を失った、あるいは人間性を奪い取られたパウロの哀れさ、惨めさは。私から言うとパウロでなければ体験できなかったことかもしれません。
一緒に同伴していた者でさえも、ただパウロの手を引いて介助するだけでしかなかった。
この辺の所はですね。スリラー小説であったら面白く書けるんだと思うんですね。
私だったら、そんな能力もありませんから書けませんけれども。

忘れられない3月

3月て、私にとっては忘れられない幾つかの事件がですね。
3月の暦の中には書こうと思えば幾つもあるんです。
その中で3月27日は私にとっては、まさにパウロが体験したようにすべてを奪い取られたというか捨てさせられたというか、どん底へ突き落されたというか。
神も仏もあったもんじゃない。
パウロほどにこの世的に悪いことをしたならば、この罰も受けて当然かもしれません。
しかし仮に自分の手違いや、自分の間違いや、自分の手落ちや、自分のしくじりでもって、自分の一生をダメにされてしまう。
あるいはダメにしてしまう自分の愚かさと、パウロの犯した大罪とは雲泥の差がある。

サウロ、アナニア、そして福音

このパウロの回心は少しばかり道順をずらしたり、自分の歩く道を右から左にずらしたようなものではない。
歩く道さえも見えなくされたパウロの回心は、だからこそ、この回心物語は、聖書の中で、まるで金字塔のように模範として語り伝えられてきた。
私たちがちょっとばかりずらしたような回心ではない。
申し訳ありません、反省しますというような簡単なものではない。
別に回心したからと言って、自分の名誉も地位も自尊心も優越感も能力も一切失わずの回心と、一切を捨てられた苦難の回心とは雲泥の差だ。
それは神が神であることを捨て去るほどの苦しみを、パウロ自身が経験することによってですね。パウロという人物が、あるいは経験を通した者こそが、神の選びの器として召し出される。
そこには大小長短あると思います。
私はこのパウロの回心を手放しでは読み通せない。
深いものが秘められているのではないか。
福音とはそういうものだ。
ここに十字架という徹底して、神を否定する出来事、神の自己を否定する出来事を通してのみ福音となるのだということを学びたいものだ。
アナ二ヤの恐れではなくて、パウロに手を置くアナ二ヤとしての役割を。
アナ二ヤという名前はここでしか出てきません。
もう聖書の中には出てきませんけども、被害者が加害者の頭に手を置く。
簡単なものではない。
恐れもあれば不安もあれば恐怖もあったろうと思う。
しかし神は、あえてアナ二ヤを選び、そして自分の敵であるパウロを招きの人として招かれたということの深さを、私たちは身をもって体験していきたいものだと思う次第であります。

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