2021年3月14日 礼拝「御心を行う者だけが」(北口沙弥香牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「御心を行う者だけが」
・聖書箇所:マタイによる福音書 7章21節~28節
・担任教師:北口沙弥香 牧師

サマリー

山上の垂訓と呼ばれる個所の最後に来る部分。
この部分は非常に厳しいことが書かれており、しばしばクリスチャンを悩ませ、惑わせる部分です。
しかし、この部分には非常に重要な、イエスの生と愛への命令と、慈しみを感じさせるエッセンスがあるのです。

レント

レントの時を迎えています。
本日はその第4日曜日、レントもあと少しで折り返しの時となりました。
4月4日のイースターに向けてキリストの歩み、神のみ心に忠実に生き、それ故に死んだと言わざるを得なかったイエスの生涯を思い起こすものとしたいものであります。
本日の聖書はマタイによる福音書7章の21節から28節であります。

厳しすぎる言葉

本日で山上の垂訓と呼ばれる部分はもう少しで終わります。
ここで現れるイエスが終わりの時に裁判官として現れるイエスの言葉です。
「私の天の父」という言葉はここで初めて出てきます。
マタイ23節の厳しい言葉ですが、詩編6編9節に基づく破門宣言がもとになっていると言われています。
おもにユダヤ教の共同体・シナゴークでユダヤ教の指導者・ラビが共同体の中でふさわしくないと思われた人を破門することはありました。
その際に詩編6篇9節はこのようなことを言っていたのです。
このことを正しい義の教師であるイエスにも言わせていると言えるのではないでしょうか。
正しい、義の教師としてのイエスをここで描くのです。

主よ、主よ、というものがみな天の国に入れるわけではない、という言葉はルカ福音書にも出てきます。
この個所であるルカ福音書4章46節ですが、元の資料はこちらだったのではないかといわれています。
ルカとマタイに同じ言葉があるのは、ある一定の共通する資料があったのではないかといわれています。
それを下敷きにルカ、マタイの主張を込めつつ書いていったのでしょう。
ルカ福音書には元の言葉が残っているという説もあります。
そのような言葉から始まります。

「主よ、主よ」と呼ぶものがどんなものかというと、前回もお話しした15節~20節で出てきた部分を意識して言っていると言って差し支えないと思います。
具体的にはニセ預言者だというのです。
山上の垂訓で語られたことに対してどれだけ心を砕いてきたか、どれだけ従順であったかということを問うているわけです。
象徴的に言えば「神を愛し人を愛せ」ということをどれだけできていたのかということを言わんとしているのです。

神を愛し、人を愛すること

かの日、というのは、これから来る終わりの日、最後の審判の日というわけですが、ここで興味深いのはニセ預言者といわれた人々がイエスのみ名によって悪霊を追い出し、奇跡を行ってきたではないかと主張しているわけです。
実際にイエスのみ名によって働きを行ってきたのでしょう。
やっていないことを言うことはできません。
力のあるわざなどがあるから本物の弟子だとは言えない、ということを言おうとしているのではないでしょうか。

どれだけ神を愛し、人を愛せたかということに注目するというのです。
そのうえで神の国にふさわしくないものは破門宣告をされてしまうというのが、この厳しい箇所の趣旨として読まれる部分ではないでしょうか。

大変厳しい箇所です。
私たちは聖書は時には人やその尊厳を踏みにじるために使われる、ということを知っています。
この言葉を用いてある一定の人を共同体にふさわしくないからと追い出すことができてしまう言葉でもあります。
しかし、ここでの主語はあくまでイエスです。
終末の時において現れるイエスがあくまで主語なのです。
終わりの時にすべてを見て来た神とイエスがなさる、ということなのです。
やみくもに聖書の言葉を用いて人を分け隔てたりするものではないし、そのような権限はないことを、私たちはわきまえていたいものです。

植田真理子さんをしのんで

私たちは2015年3月15日に仲間であった植田真理子さんを天に送りました。
今日私は彼女の形見のジュネーブガウンやストラを着ています。
彼女の死から6年たったことを悲しみつつ覚えるのであります。
そして3月の第2主日に記念礼拝をするたびに不思議な思いがするのです。

私が農村伝道神学校の学生であったころ、植田さんは神学校に関心を持ち、聴講に通っていました。
いずれ牧師になりたいと神学校を受験しましたが、正当か不当かわからないような事情で入学が許されず、彼女は父親の遺産で喫茶店伝道を始めることにしました。
2014年11月の末にオープンし、それが軌道に乗りつつあると傍目には思えるようになってきたころ、彼女は突然自宅で命を絶っているのを近隣住民に見つけられ、そのまま荼毘に付されたと聞いています。
そのため、植田さんの友達は遺体を見ておらず、だから「あげたつもりないから返しなさいよ、その祭服」とどこからか出てきてくださるのではないかとも期待してしまいます。
その一方でそんなことはないという気も思いながら、もしかしたら植田さんの帰りを待っているのかもしれません。
死んだことが認められない、そんな思いを持っている方は決して少なくないと私は思います。
彼女の自死についての遺書は、彼女が死なないように、起きたらこのメッセージが流れないように解除していた形跡がある文章があります。

遺書を読み上げてみたいと思います。

植田真理子さんの遺した言葉

<引用ここから>
このたび古楽名曲喫茶・真理庵を店じまいすることにしました。今から連投するご挨拶(最終は11)は、あらかじめ書いたものをTwitDelayで5分間隔で自動投稿してます。おそらく私はもうこの世にはいないでしょう。真理庵は私の船。昔から船長は船と運命をともにするものなのです。

いま私が生きている可能性があるとすれば、自殺未遂→病院などへ隔離→パソコンにさわれずTwit Delayの予約投稿を解除できない、などが考えられます。だから100パーセント死んだとも限らないのですが、そんなふうに生きながらえているとすれば、私にとっては死んだも同然です。

真理庵は私にとっては宣教の場でした。それは喫茶店を隠れ蓑に宗教勧誘をしようなどということではありません。古楽からキリスト教にひかれた私には、古楽を聴きながらコーヒー飲んでくつろいでもらえることも宗教的癒やしの一つ、この楽しみを伝えることも宣教だったのです。

福音と世界2013-7で書いたように、キリスト教に対して独自な考えを持ち、かつ性的少数者である私にぴったりな宣教とは、喫茶店を開くことでした。私はそれを神の声としてちゃんと聞いたので、以後はその目標に向かって邁進するばかりでした。真理庵を作れというのは私の召命だったのです。

実際、真理庵の開店は自分でもびっくりするくらいとんとん拍子に進みました。神のアシストを実感しました。神学校に入れなかったことすら、「回り道せず今すぐに始めろ」という神の声だと確信しました(今でもしています)。

しかし開店以来お客様が増えず、月々大赤字続きで貯えを取り崩し借金を膨らます日々。それでもずっとがんばり続けてきましたが、もうがんばりも限界です。ほとほと疲れてしまいました。神の召命というのが、かくもつらいものとは思いませんでした。神様、これではあんまりだわ。

でもたった100日余でも自分の宣教の場を持てた私は、とても幸せでした。私は4年前の3.11で死ぬはずで、以後の生はおまけ、アディショナルタイムだと思い続けてきました。自費出版、性転換、旅行、美食、やりたいことはすべてやったので悔いはありません。いい夢を見させてもらいました。

私の死生観では、自分の生とは「大いなるいのち」のごく一部を自我によって私のものであるかのように切り取っているにすぎず、私は大いなるいのちの一部分として永遠の生を生きています。死んだらほどなく別の人生を始めてるでしょう。肉体同様意識もクリアされるのでまるでわからないでしょうが。

お客様のいない真理庵での孤独を紛らわそうと、Wikisourceの「聖書」のうち、「旧約聖書続編」の「ベン・シラの智慧」「マカビー第一書」、「明治元訳新約聖書」と「新契約聖書」の全部を入力しときました。私の生きてた証として。

あとは真理庵サイトの訳詞カラオケ。 これが私の白鳥の歌ってとこですね。ご活用ください。でも早くダウンロードしてくれないとサイト消えちゃうかも。Wikisourceと違ってサイトはサーバー代金の支払い滞ったら消されちゃうし。

最後に、遺書に名前載ると気味悪いでしょうからお名前書くのは自粛しますが、この間真理庵を支えてくださった皆様、本当にありがとうございました。それでは皆様よい人生を。ひょっとしたら私はまた別人格として皆様にお目にかかるかも。その節はよろしく。ではしばしのお別れ。

<引用ここまで。引用元:https://www.babelbible.net/farewell.htm>

「神様あんまりだわ」

改めて姉妹の遺書を読み直すと、姉妹の教養を感じさせる、格調高い文書です。
その文章には「神様あんまりだわ」という文章が出てきます。
その彼女の叫びを、私は忘れられないのだなと思うのです。
神様のみ心だと思ったことがうまくいかず、命を絶ってしまったのが筋書きです。

姉妹の死の真相はわかりません。
もしかしたら死んでいなかったのではないかと思うほど、その死は謎めいている部分もあります。
それでも、神様あんまりだわと死んでいったその姉妹のことを忘れることはできません。

また、不思議と姉妹の記念礼拝をするにあたってイエスの破門宣告を重ねて読むとき、大変複雑な思いがします。
不幸にして亡くならなければならなかった人は、神の救いから漏れて裁きにあったと言ってもいいのでしょうか。
聖書と同じように、人間の生は複雑で、また神のみ心も複雑なのではないかと思うのです。

生きるということ、そして、愛するということ。

うまくいっているから神のみ心がある、幸せだから生きている意味がある、というものではないでしょう。
仮にその人が不幸であれ、幸せであれ、生きて、生かされているいる意味はあると私たちは言わなければならないと思うのです。
植田真理子さんの生涯と死について考えることは、明日15日が命日で、また受難節だからそう思うのかもしれませんが、受難節というのは地上の歩みを終えなければならなかったイエスの働きと歩みを思い起こす時です。
十字架の死まで神のみ心を果たそうとしたイエスの生と死を思い起こすときであります。

死んでしまったということ、殺されたことからキリスト教の思考は始まります。
それは聖書が書いた先達たちと同じように、生きているものが死んだ者のことを再解釈することであります。
それはもしかしたら死んでしまったひとにとっては残酷なことかもしれません。
しかし、生きている人にとっては必要なことかもしれません。

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