2021年2月28日 礼拝「神の罰の恵み」(河口陽子伝道師)

礼拝説教
この記事は約7分で読めます。

・タイトル:「神の罰の恵み」
・聖書箇所:エレミア書 6章1節~8節
・担任教師:河口陽子 伝道師

内容

サマリー

まるで叫びのようなことが描かれる旧約聖書の聖書箇所。
ここでは様々な痛みを持つ人々に寄り添う神の恵みが描かれているのです。

当たり前が当たり前でない?

今日の所は北からの災い、その侵入者の抗えない力に対する預言の続き。
最初の1節から、なんでベニヤミンの人々に逃げる様に言っているのか?なぜ逃げた先で戦闘開始のラッパを吹き鳴らし、戦の合図ののろしを上げるのか?
2節だけエルサレムに対する神の審判の言葉。
3~5節、エルサレムを包囲する為にやって来た敵の仲間内の会話がここだけに挿入。
6節は土塁によって城塞を包囲するバビロンの戦略方式。
いずれにしてもエレミヤが語った預言にしては焦点が定まらない。
エレミヤの預言ではなく、エレミヤの断片的な預言を編纂した時に、似た預言が混入したとの見方もある。
エレミヤの預言ではないかもしれない、、、私たちはこのことを頭の隅におきつつも、編纂者によって纏められ、聖典化された聖書として、福音のメッセージを聞き取っていけたら、と思います。

分かり難い所、でも今まで私たちが聖書を読んで来て当たり前だと思って来た事が覆される所が幾つかあり、(今日の説教題も)もかしたら当前と思っている事から解き放される様な体験ができたら、と思っています。

北からの災い

今までも何回か出て来た「北からの災い」、今回は6節の土塁がバビロニア方式、いよいよ北の大国バビロニアによるエルサレムが陥落(現実は悲惨極まりないもの)、そしてバビロニン捕囚という構図が浮かん出来る場面。
4章でも「北からの敵」という小見出しの所があり、国内で最大の城塞、強固な城壁で守られた首都エルサレムに逃れよ!との警告がエレミヤから呼びかけられた。
この6章では、今度はベニヤミンの人々にエルサレムから避難せよ!と勧告している。
テコアはエルサレムから20キロ近く南に下った所、べト・ハケレムはエルサレムのすぐ南西の郊外の地名?エルサレムとテコアの間にある山?
どこだかははっきりしません。

3節の「羊飼いが、その群れと共にやって来る」……「神は私の羊飼い」(詩編23編)、「私は良い羊飼い」(ヨハネ福音書)とあり、「羊の群れ」は「迷い出た羊」の譬えの様に、イエスに導かれ教会に集う私たち、神に養われる民と思ってきた。
ところがここでは「羊飼い」は「襲ってくる敵の指揮者、指揮官」、その群れは「敵の軍隊」!
ソロモンの時代に造られた、りっぱな神殿を含む首都エルサレムの町全体を取り囲む強固な城塞、城壁

とても崩せそうにないと思えるそのエルサレムの町の周りに、天幕、テントを張って長期の攻城、城攻めをするその様と、羊の群れが食欲に任せてどんどんと草を食べて進んで行く様に、敵の軍隊がエルサレムの町を包囲し進撃、食い尽くしてしまう! と言っている。

4~5節の強固な首都、城塞都市エルサレムの町を食い荒らす敵の言葉、敵の攻撃の速さが、更に伝わって来ます。
当時は戦うのは日中だけ、昼寝の時間もあったとか? そんな慣例を破って、昼の間に攻め上がり、更に夜襲を掛けようと言う、当時としては凄まじい勢い。

神の審判の理由

6~8節は預言者を通した神の言葉の形を取っていて、神の審判の理由が記されています――それは抑圧、不法、暴力、などの悪。
8節に「エルサレムに懲らしめを受け入れよ」とあるのは5:3の模倣の様で、この先にも出て来きます(7:28、17:23)。 律法を遵守する申命記ふうだとの指摘もあります。

「宗教2世」と呼ばれて

Eテレで「宗教2世と呼ばれて」と題して当事者の方たちが取り上げられました。
親が排他的な宗教を固く信じていて、それを自分の子供にも強要し続けたために、入信者は救われるがそれ以外は地獄行きみたいな善悪二言論的な思考を幼い頃から叩きこまれきた。
それ故自分は「神の子」であり、「神の子」らしく生きなければならない、その息苦しさ、抑圧感と「神の子に相応しい振舞いや信仰がなければ罰せられる」との恐怖の中で、友達とも自由に接することができず、ずっと苦しんできた若い人たち。


そんなふうに生き辛さを抱え苦しんで来た方にとって、「懲らしめを受けよ」の記述は自分を責め立てる恐怖の言葉にしか聞こえないかもしれません。
でもこれは申命記学派の学者たちの神観に過ぎないかも。
だから自分の罪意識からの「罰を受ける」との恐怖感を減らして、いえ、全く個人的な罪の意識は持たなくていいとさえ私は思うのです。

社会悪と私たちの生き方

古代の宗教は、政治と宗教と生活が一致、一体。
知恵文学と呼ばれるヨブ記など旧約の終わりの時代から新訳聖書の時代には、宗教は段々と個人の問題に個人化されていきますが、それまでは宗教、信仰は個人の問題ではなかった。
問題とされるのは神に選ばれた選民「イスラエルの民」としての生き方、そして社会的格差を生み出し貶める社会悪。

病と傷

「エルサレムは罰せられる都、その中には抑圧があるのみ」……「抑圧だけがある」、凄い表現。
エルサレムには泉があり、エジプトの様な大河ではなくて小さいけれど、大河の様に淀むことなく絶えず澄んだ綺麗な水が湧き出でる。
2章では神が「生ける水の源」と譬えられていました。
でも、ここでは泉の水が湧く様にエルサレムの悪が湧き出してくると言う、今度は「泉」のイメージも覆されてしまいます。
「不法と暴力の叫びが聞こえて来る」、「病と傷は常に私の前にある」……これも凄い表現。
「病と傷」は社会的病巣、社会の闇、共同体自身が社会自体が病んでいる。
更に劣悪な環境におかれた虐げられた者たちが、律法違反や重税や使役など担うことのできない重荷を課せられ、蔑視や抑圧から心も病んでしまう、そんな深い傷。

その様を他人事ではなく、目の前の自分の事として、肌で感じたエレミヤの言葉ではなかったかと思うのです

民の叫びを聞き痛む神


ヨシヤ王の改革による中央政権化による権力と富の格差、変化に乗じて生じる権力を持つ者の不正義、私利私欲、限りのない悪事、国の将来をどうするつもりか?(5:26‐31)
神は必ずこの社会悪に報いると厳しく警告しています。

神は高みから見下ろすのではなく、民の叫びを聞き止め、民の置かれた場所に下り、心痛め、救い出される。
そうやって奴隷状態のイスラエルの民は神によって救い出された、解放された、生き延びることができた、だから同じ様に弱くされた者の側に立て!と。

イスラエルの自己理解と社会正義の実現の為の選び

イスラエルの民は自国の滅亡を神の裁きと、自分たちが神に救い出された選ばれた民であるのにその神の御心に、御旨に背いたから滅亡したのだ!とイスラエルやユダの滅亡を神の裁きと理解した、解釈した。
他者を恨まず自分を見つめ直す視点、これは改めて凄いこと、社会正義の実現のために選ばれた、だからこそそれ故に罰する(アモス3:1-2)と。

イエスと女性たち

イエスも高みにはいなかった、いられなかった。
イエスは洗礼を受けた、罪の自覚があったから。
イエスは洗礼者ヨハネの元での修行僧の様な生活から抜け出した。
罪の自覚があっても親の借金があるとか、犯した罪があまりに罪深くて洗礼なんておこがましいと自分を攻め続ける女性たち、そもそも生活に追われ日々の生活に必死で宗教的儀式なんて知らない人たち。
そんな洗礼を受けられない人たちの元へイエスは身を置いた、自ら進んで入っていった。

イエスは社会の隅に追いやられて、見ようとしないと見えない人たちをしっかり見た、見捨てず、その人の癒されない痛みや病や傷、悲しみに寄り添って行った。

神の罰の恵みの福音

そして自らが律法違反の汚れ、呪いを負い、罰を担って十字架に架けられた(ガラテヤ書3:13)。
それが神の罰の恵みの福音。

だから個人的なことで罪の意識に打ちひしがれたり、潰れそうになったり、「お前はそういうやつだ」と思われ、言われ、決めつけられ、そんな自分を赦せないでいる女性たちや、人から恨まれ疎まれる者たちに、「ずっと辛かったんだよね、よく耐えて来たね、もう充分……。これ以上自分を責めなくていいんだよ」……と、イエスは律法の外に置いやられた、「人並」という枠の外にはじかれ「神の子」とされて来なかった人たちに優しく語りかけた。
その深い絶望の悲しみに寄り添ったのではないかと……。

私たちの眼差しは?

全てを包摂する包み込んで受容する温かな優しい眼差し。
私たちも他者に対して「しかたない」、とか「避ける」とか、「遠ざけよう」とか、自らが閉ざそうとしてしまうその眼差しを、神の恵みで広げて頂く喜びを感じて、共に生きる者にさせて頂きたいと願います。
聖書は苦しむためにあるのではない。
私たちは神の恵みによって生かされている。
背く者を裁く怒りの神――それは愛故――その神はまた泣きじゃくる子供を探し抱きしめる神でもあるのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました