2021年2月21日 礼拝「エチオピアの宦官の回心」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「エチオピアの宦官の回心」
・聖書箇所:使徒言行録 8章26節~40節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

内容

サマリー

聖霊に導かれるまま寂しいところへと、異国エチオピアの宦官に洗礼を授けに向かう個所。
ここからキリスト教の信仰の柱の一つである「聖霊」について知ることが出来るのです。

サマリアの人々

使徒言行録第8章は、キリスト教の中心的人物であるパウロの出現の前提として記されている部分です。
当時、エルサレム中心主義は、おそらくエルサレムが崩壊していたでしょうが守られていました。
また、サマリアは歴史的な事情から独自の宗教のようなものが守られている部族でした。
サマリアの人々はいわば裏切り者とされていたわけですから、イエスも「サマリアの土地は歩いてはいけない」ですとか、今風にいうとアメリカのトランプ元大統領のような城壁を作って侵入させないようにするようなことをされていました。
イエスの死後、エルサレムが崩壊したのちに聖霊の働きがあって、人々はサマリアに向かいました。
サマリアにいったん行ったというよりも、サマリアに難民という形でユダヤの人々は入り込んでいったのです。
そこでキリストの福音がのべ伝えられ、たくさんのサマリアの人たちが洗礼を受けるようになりました。
その重大性を認識したエルサレムに残っていた、キリストの伝統を守り続けていた弟子たちがサマリアに向かい、その現状をみて、キリストの名だけで洗礼を受けるという形式だけでなく、伝統――聖霊――を受け継ぐようにしたのでした。

聖霊という存在

聖霊を受け継ぐことは、分っているような分らないようなものです。
聖霊とはどういうものなのか、つかみようのないものです。
また、説明のしようさえないものがキリスト教の中では聖霊として語られています。
ですから、同じキリスト教の中でも聖霊という一つの神の存在という形で尊称をする会派もあるわけです。
私はこれをわかりやすく言うと聖霊というのは神の風のようなものだと思っています。
風は吹かなければ風はありません。
それと同じように、聖霊というのは働きにおいて、神が神の働きであることを示す一つの神の造作、働きであると理解した方が分かりやすいのではないかと思うのです。
そうでなければ「聖霊がくだった」ですとか、「聖霊を受けた」とか「聖霊を感じた」といったことが一種の神秘体験、神秘主義のようになり、「あなたは聖霊を受けてない」「私は聖霊を受けた」といったことで区別をされてしまうということもあるわけです。

聖霊というのは実感や、寒い暑い、辛い甘いといった感覚的に聖霊を受け取ると分かりにくくなってしまうような気がします。
ですから、聖霊というのはどこまでも神の働き、神の力、神の行為、神の動作と理解した方が分かりやすいのではないかと思うのです。

難民フィリポ

さて、サマリア伝道のきっかけを作ったフィリポは、エルサレムにいたイエスの11人の愛弟子と違い、エルサレムから散らされたユダヤ人の一人と理解したらいいのかと思うのです。
要するに難民の一人です。
その難民の一人がエルサレム崩壊のあとに、エルサレムを目指して、年に何度か、祭りの時のたびにエルサレムを向いて礼拝することがあったわけです。
その時の一人だったわけです。

ですから、フィリポも難民の一人と言っていいのだと思います。
自分の住むべき国ではなく、住むべきでない国に住む人たちと理解すればいいのだと思うのです。
そんなフィリポがサマリアに行って伝道を始めるわけです。
そしてサマリアの人たちがこぞってぞくぞくと洗礼を受けるようになったりしました。
それをエルサレムにいる、伝統を守るペテロとヨハネがサマリアに向かい、それを確認して洗礼という、外側で営まれている洗礼というわけではなく、内側にある霊の働きを受けたという証左を伝授することによってはじめてその洗礼が意味を持つとなっていったのです。

なぜクリスチャンになるのか

このことを今考えてみてもこれに近いような状況が今のキリスト教会においてもあると思うのです。
洗礼を受けたから今日からクリスチャンだ、と言いながら、本当に内容も分ってクリスチャンになったのかについての説明がなかなか自分ではできない、わからないまま洗礼を受けてしまったということもあるかと思うのです。

戦後まもなく開かれたビリー・グラハムの説教を聞きに行ったことがあります。
説教後、キリスト教を受け入れる決心をした人が千人近く出たことを今でも覚えています。
しかし、そうなってくると隣の人の顔を見たりして「いかないと」と思ってしまいそうになりました。
私は行きませんでしたが、隣にいた視覚障害の男性は千人の人の集まりに向かっていき、祝福を受けていました。
このように、周りの空気に呑まれて洗礼を受けてしまうこともあるかと思うのです。
恐らく、サマリアの人々も、不足や貧しさ、差別などの国内事情があったのだと思います。
その時にイエスの福音を聞き、洗礼を受けたいと思った人がたくさんいたのだろうと思うのです。

そこで今日のエチオピア人のわかりにくい人物が出て来るわけです。
エチオピア人というのは、ユダヤ人にとっては全く異郷の人々です。
しかし、どうしてエチオピア人が礼拝に来たのかは書かれていません。
むしろ礼拝後、乗り物の中で彼はイザヤ書53章、「苦難のしもべ」と言われている個所を大声で読んでいたというのです。
私たちにとって、印刷も何もない時代に、イザヤ書はエチオピア人でも読めるほどに出回っていたことは、少しだけ不可解で、驚くべきことのように思えたりもします。
しかも彼はイザヤ書53章「苦難のしもべ」の歌を歌った。
そこに神の力がフィリポに働き、宦官のもとに行ったというのです。
そのことを示す聖書箇所には「寂しいところに行った」と書いてあります。
寂しいところに派遣されていった。
寂しいところとはどういうところなのでしょうか。
解説者によっても違いますが、いい場所ではないことは確かでしょう。

キリスト教の信仰を始めたころ、教会の役員から東洋伝道についての書籍を読むように勧められました。
東インド会社を作り、それに便乗して中国や日本に伝道した人の記録を読まされたのです。
西洋から見ると、東洋というのは「寂しいところ」「危険なところ」と言ってもいいのかもしれないところなのかもしれません。

しかし、あえて神はフィリポに寂しいところに行けと命じ、彼は素直にそれに従って、文句も言わずに彼は出かけて行ったのです。
そこでエチオピア人が乗り物に乗ってエルサレムから帰る途中の出来事に出会うのです。

宦官とは

エチオピア人というのは、イスラエルとエジプトの間にあった小さな国の人だったようです。
支配者は女王であり、その国の中で高官とされる立場の人でした。
しかも宦官というのは、純潔を守るために体にメスを入れて、男性が男性としての力を発揮できなくした人のことです。
今でもイスラム世界のクリスチャンはそのような習慣があるのだそうです。
これは純潔を守る、砕けた言葉で言えば性欲を湧かなくします。
このことによって女王が安全だということを示していました。
ですから、恐らく加齢後も精神的、身体的にいろいろな問題を担っていたに違いないと思うのです
神が創造された性から、ある一人の人を守るために除外される犠牲になるわけです。
苦しいに決まっています。

そこでイザヤ書53章を書かれた内容――毛を刈られる羊――のように、すべての犠牲を神にささげるということ、しかも口を利かないという。
なぜ黙っているのかということはあり、沈黙を守って黙認したのではないかと言われることもあります。
これがエチオピアの宦官とどう重なるのか、実は私はよくわからないのですが、このエチオピア人は口も利かず素直に取り去られるのは預言者の言葉なのかなどについて語ってほしいと、フィリポに頼むわけです。

ここではいったい誰を語ったのか、そして何を語ったのかについて、聖書の解釈が必要です。
そしてこの物語の中心的な疑問、問いかけであると同時に、イエス・キリストの福音についてまで説明したことにより、エチオピア人はイエス・キリストが神の子であると告白をするわけです。

このことは我々も分っているようで分からないことなのではないでしょうか。

黙っていることはある意味では従順を意味すると思うのです。
そして自分がすべてを引き受けるという、分っている、だから説明の必要はない、あるいは説明をしても分ってもらえないということなのかもしれません。

しかし、イザヤ書53章では、従順であることはいずれ取り去られると書かれています。
女王の財産すべてを管理している宦官には、我々の想像を絶する苦悩を抱えていたのかもしれません。
洗礼を受けるだけでなく、イエスは神の子だと告白することによって彼は福音の喜びに満たされて旅をしたのです。

喜びの旅へ

旅をしたというのは、エチオピア人にとっては福音の喜びの人生の旅へと変えられていったと読むべきではないだろうかと思うのです。
そう読むことによってこの物語の真意がわかってくるのではないでしょうか。

この異国の、もしかしたら皮膚の色も違っていたのかもしれないエチオピア人がイエスは神の子だとした告白を、パウロは聞いたかわかりませんが、子羊のようなエチオピア人の告白により、祝福の喜びへと向かう人生の旅に意味をかえていった出来事を知ってか知らないでか、使徒言行録は第9章へと走って、パウロの回心へと導かれていくのです。

これが使徒言行録の1章から8章に書かれた「前提」「前置き」なのではないかと思います。

私たちは受難節を今日から迎えることにより、エチオピア人の回心と同時に、回心に導いたフィリポの信仰や伝道のすべてを支配するのは、聖霊であることを学び取れるのではないかと思うのです。

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