2021年2月14日 礼拝「結んだ実」(北口沙弥香教師)

礼拝説教
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・タイトル:「結んだ実」
・聖書箇所:マタイによる福音書 7章15節~20節
・担任教師:北口沙弥香 教師

内容

サマリー

「悪い実」「よい実」というメッセージが印象深い聖句。
ルカ福音書とマタイ福音書における違いに触れつつ、「寛容」というものについて考えます。

「寛容のパラドックス」

当時は使徒言行録に出てくるパウロのような巡回伝道者が多くおり、マタイたちの群れを惑わすこともありました。
そんな巡回伝道者を警戒しなければならない現実がありました。
彼らをよいものと悪いものを区別するにはどうしたらいいのでしょうか?
人間というものは寛容さを失うこともあります。
この聖句を誰かを排除するために使うべきではないと考えたいものです。
その一方で第一印象で人を判断してしまうものがあり、よっぽどのことがなければ変わりません。
そのうえでよい実と悪い実を決めることはできません。
一方で寛容でありたいと願っていると「寛容のパラドックス」という言葉があります。
例えば、マイノリティを守るためには、マイノリティを揶揄する言説を否定しなければならないというものです。
権利と権利がぶつかるとき、自分たちの限界と葛藤しながらどうすべきかを考えたのではないでしょうか?

よい実と悪い実

13日の地震ののち、twitterでは在日コリアンを差別するような発言がありました。
ひどいと言わざるを得ない発言です。
このような冗談ともいえない冗談から人殺しに発展するということを、私たちは知っています。
このようなことを寛容の名のもとに許すことは、明らかに人権侵害でしょう。
そこで寛容のパラドックスに陥るのですが、ある一定の言説に対して「悪いものだ」と言わなければ「よい実」も守れないということを体験するわけです。

現代において「よい木がよい実を結び、悪い木が悪い実を結ぶ」というものはこのようなことではないかと思います。

私たちはすべての実が「よい木」であり「よい実」を結ぶものだと、究極的には信じ、受け入れたいと思います。
でも一方で、そこに明らかに寛容を邪魔するような悪い木があれば、切り取らなければならないという現実も持っていなければならないのではないでしょうか。

よい実を守ろうとしたイエス

そのような現実をマタイ福音書では「切り倒されるだろう」とある面の期待を込めて、私たちの限界の中で智合わさなければならないと思わされます。
私たちは一方的に悪い木が悪い実を結ぶと切り捨てられない中で、よい木になるためには、守るべきを守らなければなりません。
イエスは本当に守ろうとしたものを守ったために辛辣な物言いをし、十字架にかけられたことを覚えたいと思います。
このことを受難節に思い起こしたいと思います。
守るべきを守ったから十字架にかけられた、この論理は最後にすべきだとしつつ、私たちは繰り返したことを忘れてはなりません。
私たちが寛容であるために何を大切にし、何を挫かなければならないのか、どうすべきなのか、時に苦しみながら考えつづけることが「神と人を愛する」ように教えられたイエスに倣うことになると思うのです。
私たちは良い実を結ぶ教会になるべく、邁進したいと思います。

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