2020年12月20日 礼拝「その名はマリア」(飯塚光喜牧師)

礼拝説教
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・タイトル:「その名はマリア」
・聖書箇所:ルカによる福音書 1章26節~38節
・担任教師:飯塚光喜 牧師

内容

サマリー

処女マリアからイエスが生まれる、という、常識的に考えると理解しづらい聖書箇所。
しかし、ここに罪と福音という補助線を当てることで、その意味が鮮明に理解できるようになるのです。

理解しづらい聖書箇所の一つ

クリスマス礼拝を主にささげられることを喜び、感謝したく思います。
今回はクリスマスのことですから、全世界の教会がこのことについてクリスマスの意味するものを騙られているかと思います。

皆さんもクリスマスといえば聖書に書かれている通り、御子イエスがマリアより生まれる風景を思い出すわけであります。
イエスの誕生は書かれている聖書もあれば書かれていない聖書もある、大変不思議なものであります
もちろん、歴史的にも時間的にもイエスが生まれたことは事実ですから、書かれていようと、いなかろうと事実を否定するわけにはいきません。
ただ、事実をどう受け取るのかが問われていると思います。
たとえばキリスト教を理解して信徒になることの困難さをいわれます。
それは聖書の中で語られている処女降誕が挙げられます。
生理学的、動物学的にそんなはずはないということ、そしてもう一つは死んだはずのイエスが蘇り、生き返ったという復活信仰に引っかかってしまう人も多く、「その部分さえなければ信仰する」と冷やかし半分で言う方もいます。
確かにそうだと言えます。
イエスも人間、そして動物の子なのです。
つまり、どうしても処女降誕という言い方では納得できないわけです。

では、聖書ではなぜそんな納得できないものを記述し、歩み続けたのでしょうか?
色々解釈の仕方はあります。
きっと研究者の方も違和感を覚えつつも、聖書を改ざんするわけにはいきませんから、つじつまの合うような研究をしているのだろうと思うのです。

私はそれを事実として理解しながら、その意味を理解した方が、納得しやすく、すっきりすると思うのです。
そこで今回の聖書箇所・説教題をつけました。

マリアという女性

さて、マリアというのはどういう人なのでしょうか?
正体はよくわかりません。
ただ、ルカによるとガリラヤ出身で、ナザレというところに住んでおり、ダビデ家の子孫であるヨセフという誠実な男性の婚約者であると書かれています。

しかし学者によると、ユダヤ法では婚約も結婚と同じ権利を持ち、同じ立場が与えられており、ヨセフの正式の、神の前で契約を結んだ妻でもあるのです。
そのため、結婚をしたとも見られているのです。

これは当たり前のことかと思います。
結婚するときは教会で結婚するときは必ず神の前で約束し、契約関係を結びます。
ヨセフとマリアもまた、同じように神の前で契約をしたのでしょう。

ところが、6か月目というのはどのような意味でしょうか。
まず、女性や赤ちゃんがどういった状態にあるのかということを考える必要があるかと思います。
クリスマスにふさわしい話題かはわかりませんが、赤ちゃんが6か月目になると、母親のおなかの中ではっきりとした成体をなしていきます。
まさに人間の身体が形成される時期といえ、あと4か月もすれば赤ちゃんが生まれるのですから、人間として生存しているということになると思うのです。

マリアに背負わされた罪と福音

だからこそ、6か月目に天使が現れ、神様からマリアに誓いを立たされて、お告げを受けるわけです。
これをもってマリアとイエスの関係は奇跡的だという言い方をする、学者の苦渋の解釈だと思うのです。
ところが、他の書物を読むと、他のお告げをマリアが受けたとき、「おめでとう、恵まれた女よ、神はあなたとともにいる」というお告げと、そのお告げを聞いたマリアは違和感を覚えるのです。
「私は男を知らない」といっているのです。
神の立てられた男性との関係はなく、したがって祝福されるにふさわしいものでないという戸惑いや苦しみが、理解できなかったのです。
事実上結婚しているわけですから、結婚の相手であるヨセフとの関係がないのに子供ができたとなると、今風に言うと「不倫」となるわけです。
マリアにとって赤ちゃんができた、ということは、神との契約を破る大罪となってしまいます。
当然マリアは石打の刑に処されてしまいます。
それなのにこの女性のおなかに赤ちゃんができている、隠しようがないとなり、その罪の苦しみを担わされたマリア。
これは被害者としてこうなったのかはわかりません。

いずれにしてもマリアはその体で、担いきれないほど大きな罪を担わされたということなのです。
しかもマリアはガリラヤに住んでいました。
当時のガリラヤは、研究者によれば貧困と不法の地だったようです。
ですから、いろいろな不正や罪深いことが頻繁に行われていたところだということも受け取れるのです。
そのような中で暮らしていたマリアは、神の前で誓ったヨセフとのかかわりではないかかわりのなかで、自分の意思を問わず自分の身体に負わされたものは「いのち」だった、というのです。
命を大罪の罪の中で背負わされたという、マリアの苦渋が戸惑いとなり、苦しみとなり、逃げ場のない愚かさや弱さを、マリアは考えていたのでしょう。

私は、神と夫を裏切る大罪を犯した、あるいは犯されたマリアの中に、神の創造したいのちが宿ったということが奇跡だと思うのです。

律法を超える福音

この女性でなければ背負えない罪としての現実は、神の祝福を受けるための律法のもとでは石打の刑を受けなければなりません。
しかし、マリアが石打の刑を受けるにしても、その中の命は石打の刑を受ける筋合いはない。
このあたりがクリスマスを理解するうえで大切なものです。

いのちというものは律法を超えるものです。
さらには人間の道徳や法律をも超えるものであります。
そのいのちのもつ律法は何か。
それは石打の刑を受けなければならない、罪を超えた神のわざ、そして神の存在。
死刑に値する大罪を犯した、犯されたマリアの罪が、いのちを通していのちあるものの喜びになる。
ここが神学的に言うと大罪を犯した、犯された消しようのないマリアの大罪が、神のわざによって律法を超えた命の存在、つまり、福音とであると言えるのではないでしょうか。
律法は福音ではなく、福音は律法を超えて、律法の不自由から自由にしてくれる出来事が、福音なのだと思うのです。
律法のもとに福音が働く、というのは、福音ではありません。
常識でしかないのです。
イエスの誕生の福音性というのは、律法やその約束を超えた神のめぐみの出来事として、初めて福音の福音性として誕生したのです。
これがクリスマスの出来事なのです。

いのちというもの

前回のメッセージにあった「求めなさい。そうすれば与えられる。」とは、自分の不遇や不満、不足を求めるだけでなく「私たちが求めるべきもの」とは福音なのです。
福音の生きる場所を私たちは求めていかなければなりません。
決してあの世に世界があるわけではなく、死んだ先に永遠があるわけではありません。
永遠の中に時間が包まれていることが、永遠の永遠性なのです。
その時間の中に生きており、すでに永遠の中に私たちは生きているのです。

このイエスの誕生は、永遠のいのちが時間の中に登場して、石打の刑に処せられてふさわしい母マリアの胎内を通して、罪が罪としてできたかもしれない赤子の誕生が、福音という喜びの出来事を神はなされたのです。
これがクリスマスの出来事なのではないでしょうか。

一番大切なのは、いのちの尊さです。
なにものにも束縛されず、なにものにも制約されないいのちを産み落とした母マリアを、神は恵みの、世界一の女性として引き上げてくださったのです。
これがクリスマスの出来事の出来事の事実性、そして福音性として求めていくことが、クリスマスの出来事が我々の出来事になっていくのだと思うのです。

クリスマスにふさわしい神への応答

今年はコロナという自然の驚異により、たくさんの不自由な日々を過ごしています。
これにより不自由というものの意味や立場を考えさせてくれるコロナ感染、そしてその解放を待ち望む思いを学ぶべきです。
そして、マリアのイエス誕生の物語の中の彼女の不安の解放を喜びを、私たちもよろこびあえるようになることが、クリスマスを迎えるにふさわしい神への応答となるのではないでしょうか。

もっとも深い罪を負わされたマリアが、世界一の喜びの女性となり、救い主の母となった。
そのマリアという女性の事実を、私たちはもう少し広く、深く、重く理解するにふさわしい出来事だと、私は信じています。

クリスマスが私たちにとって本当の福音の福音性として位置づけられることを祈ります。

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